2017年5月2日火曜日

ウーリー・ステック、エベレストで遭難死




一昨日から私のフェイスブックやツイッターのタイムラインが、ウーリー・ステック遭難死のニュースやコメントで埋め尽くされています。「著名登山家エベレストで死亡」と、テレビのニュースでもやっていました。これは異例なことです。登山家としてのステックの存在の巨大さを表していると感じます。


ここ10年ほどの世界の登山界で、ステックが突出した存在であったことは間違いないでしょう。彼は、アイガー北壁を2時間ちょっとで登ったり、エルキャピタンの「ゴールデンゲート」をほぼオンサイトする技術の持ち主でありながら、高所でも抜群の強さを見せていました。近ごろ、強いアルパインクライマーは6000~7000m級のテクニカルな山を指向することが多いのに対して、ステックは常に8000m峰をねらっていました。K2西壁とかマカルー西壁とかの夢の課題をやれるとしたら、ステックが間違いなく第一候補だったわけです。


この春、ステックがエベレストとローツェの継続をやるという話はなんとなく知っていました。しかし、エベレストとローツェの継続登山というのはすでに何人もやっていることなので、あまり興味を持っていませんでした。ろくに調べもせず、「ステックは今年は休養の年なのかな?」なんてうっすら思っていただけだったのです。


しかし今回あらためて知ったのですが、ステックは、エベレスト西稜から入って、エベレスト~ローツェのラウンド縦走をしようとしていたのでした。彼のオフィシャルサイトに予定コースの写真が載っています。




休養の年だなんて思っていて申し訳なかった。これは猛烈に難しい縦走で、何十年も前から、だれもが思いつくけどだれもできなかった課題なのです。「世界最難の縦走」と言っていいと思います。これをやれるとしたら、やはりステックしかいないでしょう。


5年前、栗城史多さんがエベレストにトライしたとき、こんなツイートをしたことがあります。


エベレスト西稜を無酸素ソロで登ることがどれほど不可能に近いことかは、ヒマラヤ登山をやっている人ならだれだってわかるはずなのです。そこをルートに選んでいるということは、山頂まで行く気はないのだなと判断するしかありませんでした。


ただ、このとき、数人だけ、このルートをやれるかもしれない人が頭に浮かびました。その筆頭がステックでした。


今回、ステックは、その西稜を登って、さらに、ローツェまで縦走するという、夢の課題にトライしようとしていたのです。彼ならやれたかもしれないし、この縦走を完成させたら、ステックの輝かしい登攀歴の終盤を飾る金字塔になったはず。


ステックもすでに40歳。この登山を自身の集大成のつもりで臨んでいたのかもしれない。それを考えるととても残念です。ご冥福をお祈りします。





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2017年4月6日木曜日

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない

西穂高岳で、登山届を出さずに登って遭難した人が、5万円の罰金を科されたそうです。


岐阜県では条例で登山届の義務化を定めているので、これはしかたない。条例を破ったのだから、その責めは負わなければならないでしょう。


ただし、近ごろ、山の事故が起こるとすぐに「登山届を提出していなかった」と批判的に報道されることには強い違和感を覚えます。問題の本質はそこなのかよと。


思うに、新聞やテレビなどの報道陣は、事故の本質がわからないから、警察の「登山届は出ていなかった」という発表に過剰反応して、

登山届未提出→だから事故が起こった

と、わかりやすいストーリーを作り上げてしまうのだと思われます。しかしこれ、間違ってます。


ほとんどの場合、登山届を出していなかったということが遭難事故の原因となることはありえません。事故の原因は別にあって、技術や体力の不足とか判断ミスとか天候の急変などがそれにあたります。


これにも書きましたけど、登山届の目的とは、遭難したときに救助をスムーズにするためであって、届を出したからといって、遭難を防ぐことができるようになるものではないのです。


先日の那須の高校生雪崩事故のときも、「登山届提出せず」という見出しの記事をいくつも見ました。それをひとつの事実として報道するのはいいけれど、追及すべきもっと大きな問題がある。那須の事故の場合は、(おそらくは)現場の判断ミスであり、引率する立場の人がふさわしい技術・経験を持っている人であったかどうかであり、もしかしたら、組織の構造的な問題もあるのかもしれない。核心を放置しておいて、「登山届出してなかった!」と枝葉を騒いでも物事は解決しない。


もちろん、登山届は出すにこしたことはありません。こういう報道が「登山届出さなきゃな」という意識を高めることに貢献することは認めます。


ただし、繰り返しますが、

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない。


新聞やテレビには、「登山届を出していなかったことが遭難の原因」という予断をもって報道することはぜひあらためていただきたい。登山者に誤解を与えるという意味と、真の原因を見えにくくするという意味のふたつの点で、それは害悪ですらあります。


2017年3月29日水曜日

高校山岳部冬山禁止はしかたがないのかな






那須の高校生雪崩事故について、知り合いのライターやガイドがツイートしていました。


「なぜあんな日に訓練を続けたのかを議論すべき」「いかに行なうかが問題」「見直すのは違うところ」。それはそのとおり。私自身も、引率役の人に雪崩についての判断の甘さがあったのだろうと想像しています。そこは追究が必要なところです。

*ここで「追究」という言葉を使いました。あえて「追及」は使いませんでした。




こういう面は多少なりとも意識にはあったと思います。「スキー場だから安全」と。まあ、当日はスキー場は営業を終了していて、すでにスキー場ではなくただの山の中だったわけですが、こういう施設にいると、安全管理のタガがついゆるみがちになるのは、自分の経験からも容易に想像できるところです。




引率役の人はそれなりに登山経験のあった人のようなので、雪崩についての知識がゼロだったとか、まったく無防備に突っ込んだとかいうわけではないでしょう。リスクについて、少々甘く見ていたというのが実のところなのではないでしょうか。


ただ、こういう判断ってそれなりに高度なもので、生徒の命に責任を持つ立場となればなおさら難しいものです。それを一教員に求めるのは酷――というか、非現実的な気がします。山岳ガイドに依頼すれば、リスクの問題はほぼクリアできると思いますが、公立高校の部活動でそこまでできるものなのでしょうか。


そういうことをもろもろ考えて、「安全管理に自信を持てない」と結論づけたから「冬山禁止」としたのではないかな。報道を見ているだけだと、事故→禁止と、短絡的に結論づけているようにも思えるし、なんでもかんでも禁止にしておけば無難であるという考え方はかなりきらいではあるんだけれど、これに関してはしかたがないような気がしています。

2017年2月28日火曜日

PEAKS創刊前夜の話

私の古巣のひとつとなる雑誌『PEAKS』が創刊したのは2009年5月。最初の1年は隔月刊で、2010年5月の号から月刊化して今に至ります。私は創刊当初からのメンバーで、2013年3月号まで副編集長として務めました。今もフリーランスの立場で記事作りにかかわっているので、もう8年近くやっていることになります。


先日の『PEAKS』のインタビュー取材のときに、寺倉さんから創刊のころのことを聞かれ、久しぶりに当時を思い出しました。パソコンをあさってみたら、最初に書いた企画書が出てきたので、昔話とともに紹介してみようと思います。




「登山雑誌、定期刊でやることになったから」


と、編集長の朝比奈耕太さんから電話を受けたときのことはよく覚えています。2009年4月初旬、松本のロイヤルホストの駐車場でした。そのとき私は松本在住の山岳カメラマンに写真借り&打ち合わせに来ていて、それが終わってさあ帰ろうというときでした。


当時、私は枻出版社に入ってちょうど一年。会社にも慣れてきて、自分の専門である登山のムックを夏前に出そうと動いていたときでした。山岳カメラマン氏には、それ用の写真の相談に来ていたのです。


「定期刊でやることになったから」というのは、ムックではなく定期雑誌として刊行すべしという決定が経営会議でなされたという報告でした。


「発売は5月21日ということで」


朝比奈さんはそう続けます。冗談言わないでください。あと1カ月半しかないじゃないですか。いや、発売10日前には校了していないといけないから、制作期間は1カ月。定期誌を1カ月で立ち上げられるわけないでしょ。普通は1年、短くても半年はかけますよ。


もちろん私はそう答えたのですが、「もう決まったので」と、取り付くシマがありません。いや、絶対無理だって。朝比奈さんだってわかってるでしょう。それでもやるって言うなら、おれはおりますよ。私はかなりエキサイトして電話口にそう吐き捨てました。


「とりあえず、なにができるか明日会議しましょう」


朝比奈さんがそう言って電話は終わりました。


枻出版社というのは、こういう急な決定や方向転換が多い会社で、この一年間、それに振り回されたことも少なくなかった私は、「もうやってらんねえ」と頭に血が上って、荒っぽく車のドアを閉めました。車を走らせ始めても、ムカつきがおさまらず、明日なんて言ってやろうか、辞表をたたきつけて帰ろうか、そんなことばかり考えていました。


中央高速を諏訪あたりまで来ると、ムカつきも一段落して、だんだん落ち着いてきました。……定期雑誌か。いくらなんでもできるわけないよな。定期誌といったらタイトルが必要だよな。そこからして白紙だもんな。どうすんだよ……。


そのうち車は小淵沢か韮崎あたりまで来ました。……やるとしたら、今進めてるムックをベースにするしかないよな。とはいえデザインはどうしたらいいのかな。ムックと定期誌じゃデザインの考え方も全然ちがうよな。デザイナーはピークスのだれになるのかな。

*ピークスというのは枻出版社の子会社のデザイン会社で、枻出版社の刊行物のデザインはここが手がけることになっています。



……そういえばピークスって、綴りなんだっけ。P・E・A・C・Sか。そうそう、PEAKじゃなくてPEACなんだよな。確か4つの会社のイニシャルの集合っていってたな。……PEACSがデザインする雑誌だからPEAKS! ダジャレか。くだらねえ~。


……けど、悪くないかもな……。P・E・A・K・S。ピークスか。山の頂上ってピークだもんな。


……あれ? これ、いいんじゃね? PEAKSって雑誌、ほかに……ないよな。えーと……うん、聞いたことないな……。え? こんな直球でいいの? 


……いや、これだよ。これでいいよ。これでいいじゃん!


たぶん、この段階で双葉か甲府昭和あたりを走っていました。


枻出版社に入る前から、私はずっと、新しい登山雑誌を作るならなんてタイトルがいいか考え続けていました。でも、ピンとくるタイトルを思いついたことはありませんでした。考えつくのは、『Mountain Life』とか『Mt.Trip』とかヘボいものばかり。


私が登山雑誌のタイトルに必要だと考えていた要素は3つありました。

1)ひと目で山の本だとイメージできること
2)短いこと
3)カタカナであること


1)は説明不要かと思います。ひねった内容で攻めたいならともかく、ボリュームゾーンに訴えたいならこれは必須かと思うのです。


2)は、会話のなかでひとことで言えることを重視していました。たとえば「マウンテンライフ」だと長すぎて、ひんぱんに口にするには面倒です。すると、人はなんらかの略称で呼ぼうとする。そのときに「なんて略すればいいかな」と考えさせるのがいやでした。それはわずかな引っかかりですが、口にする人にストレスであることは間違いありません。そのストレスはわずかなれど、でも、そのわずかなストレスを億劫がってタイトルを気軽に口にできなくなるのです。一方で、略さないでフルネームで呼ぶ人もいるでしょう。すると、人々の間で雑誌は明確な像を結ばず、ということは、意識にしっかり定着しない。それは避けたいと思っていました。


3)は、旧来の雑誌とはちがう新規性を感じさせたかったからです。それまでにあった登山の雑誌は、『山と溪谷』とか『岳人』とか『山の本』とか、日本語タイトルばかりでした(昔は『アルプ』とかもありましたが)。それらとはちがう、新時代の山の雑誌である。ということを表現するには、カタカナ(外来語)が望ましいと思っていました。


私は車を走らせながら、PEAKSをこの1~3の観点からも検討しました。PEAKSはそのどれもを、完璧にクリアしました。


タイトルが決まった瞬間、「これ、できるかも」と、不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。あれだけ絶対無理だと思っていたことが、タイトルが決まったら、なんとかなるような気がしてきたのです。


同時に、PEAKSというタイトルに合わせて、雑誌作りに必要な要素がどんどん勝手に浮かんできました。想定読者層はどんなところにおけばいいか、どんな企画をやればいいか、デザインはどういう方向性で作ればいいか……。雑誌の大枠が頭の中で自動的に組み上がっていき、立体的な企画として立ち上がってきました。


甲府を過ぎたあたりからは、もう完全にやる気になっていて、考えることは、企画の内容や制作の段取りなど、具体的なことばかりになっていきました。帰宅したのは23時か24時ごろだったと思いますが、そのまま新雑誌の企画書を書きました。それがこれです。




ファイルのプロパティを見ると、作成日時は2009年4月2日の午前2時40分になっていました。ということは、松本に行っていたのは4月1日だったのでしょう。


「30代のための山歩きmagazine」というキャッチコピーが恥ずかしいですが、想定読者層を30代にしようとこのときすでに決めていたことがわかります。


なぜ30代か。ひとつには、枻出版社という会社の持ち味として、年配層より若い層に向けたもの作りのほうが得意ということがありました。もうひとつは、当時、30代以下の人に訴える登山メディアが存在しなかったことにあります。二大登山誌と言われていた『山と溪谷』と『岳人』は、このころ想定読者を完全に40代以上(いや、50代以上?)の年配層に振っていて、若い人が読んで面白い記事はほとんどなかったのです。


その結果、若い登山者たちは、インターネットでそれぞれ適当に情報を収集し、山に登っていました。ネット上に彼ら彼女らの居場所となりうる強力なサイトがあればよかったのですが、それもなく、ネット上に浮遊した情報の断片を自分なりに拾って登っているように私には見えました。


当時はまだ、山ガールブームが盛り上がる前です。登山というのは年配層の趣味であるという認識が一般的な時代で、若い世代は登山界から見捨てられた存在のように思えました。商売を考えれば、絶対数の多い年配層に向けたほうがいいのかもしれないけれど、それはもうヤマケイや岳人がやっている。ならば、彼らがやらないことをやろう。見捨てられた人たちの居場所を作ろう。それは売れないかもしれないけれど、1カ月しかないんだから失敗してもともと。ならば、つまらない二番煎じをやって失敗するより、未開拓のことをやって玉砕したい。……そう考えたわけです。


明けて翌日の会議、辞表のかわりに、私はこの企画書をたたきつけました。会議の出席者は朝比奈さんと、ヤマケイ時代からの同僚、ドビー山本(山本晃市)。自信満々で出したPEAKSというタイトルは「いいじゃん」と受け入れられ、朝比奈さんはすぐさま社長のもとに報告に行きました。PEAKSというタイトルと聞いて社長は「そうきたか」とニヤッとしたそうで、B案もC案も必要とせず、すぐGOとなりました。


そのあとは、準備していたムックの企画を定期誌用に作り替え、新規の記事立案、連載等の準備、広告営業先のリストアップなどなど、嵐に巻き込まれていきました。


厳しい毎日が始まりましたが、タイトルロゴの作成は面白かった思い出です。PEACSデザイナーチームが、30個くらいのロゴを作ってくれました。それをテーブルの上に広げて、どれにするかを話し合うのです。そのなかに「お!」と目に止まるものがありました。以下のようなものです(私が記憶で再現したもの。本物はもっと完成度高かったです)。


パタゴニアのロゴのマネといえばそうなんですが、ひと目で山が感じられていいな! と思ったのです。朝比奈さんも同様にこれがベストだと思ったようで、「これでいこう!」と意見は一致。ところが、ロゴが決まってひと安心と思っていたら、しばらくして会社の上層部から「タイトルが破れているように見えるのはよくない」とNGが出て、幻のタイトルロゴとなってしまいました。


今にして思えば、一回くらい会社の意見を押し返してもよかったんじゃないかという気もしますが、そのときはその余裕はまったくありませんでした。企画を作り、ライターやカメラマンに依頼をし、ページの中身を作っていくことで精一杯だったのです。誌面のビジュアルやデザインのトーンについても自分なりのイメージはあったのですが、そのへんの大枠の話は朝比奈さんにまかせきりで、結局、ほとんどなにもできませんでした。紙の選定について希望を生かせたくらいでしょうか。


編集部のスタッフ、営業部員、ライター、デザイナーにも無茶に無茶を通して、最後は自分も会社の椅子で4連徹して、ようやく校了。絶対に無理だと思っていた本が、本当に5月21日に発売されました。校了後、自分がどうしていたかはまったく記憶にありません。


これだけ無理を通しただけあって、気に入らないところ、もっとこうしたかったところ、練りが足りないところなど、当然ながら満載で、今見ると穴だらけもいいところです。校了直前にどうしても1ページ埋まらなくて、本来1ページの記事をデザイナーのウルトラテクニックで2ページに水増ししたところもあります(持っている方はどこだか探してみてください)。


実際、創刊後の初期のPEAKSは恥ずかしいところばかりで、しばらく見たくありませんでした。8年たった今でも見るのには勇気がいるのですが、時間がたって距離をおいたからでしょうか、以前よりは読むことができます。時間に追われて書き飛ばしたと思っていた自分の原稿が意外とよかったりして、少しホッとしたりもしています。


その後のことは、寺倉さんのインタビューにもあったとおり。自分の仕事人生でいちばんきつかった一年になったのですが、まあ、やってよかったなと思っています。


ひとつ思うのは、枻出版社のバカげた決断力がなかったら、PEAKSは生まれていなかったなということ。私も枻出版社が新たに立ち上げたアウトドア編集部の一員となったからには、得意の登山雑誌を作ろうとは考えていました。しかし、それには十分な準備期間が必要で、まずはムックを出して少しずつ信用を得ていくのが得策だ……と常識的に考えていたのです。


ところが、その当時、自分が書いたムックの企画書も出てきました。それを今読むと、まあ、ヌルいヌルい。こんなヘボい企画書じゃ、ろくなもんはできやしねーよ。今の自分がこの企画書を渡されたとしたら、なんかいろいろ書いてあるけどつまんねえなと、3分で見切りをつけることでしょう。一方、4月2日の夜にたった2時間で書いた企画書は熱い。やりたいこと、やるべきことが簡潔明確に書かれていて、人を動かす力が感じられます。会社のバカげた決断が私の心に強大な負荷をかけた結果、押し縮められたバネが飛び出すように、自分ひとりでは出せなかったエネルギーが出せたと思うのです。


企画書の草稿には、なかなかいいことが書かれていました。

これまでのメディアで知られていないだけで、それぞれに情熱をもって山登りをしている若者はじつはたくさんいます。 
サラリーマンでありながら年間100日近くも山に通っている人、山好きが高じて山小屋に転職してしまった独身女性、さらには、高山植物の保護に情熱を傾ける自然公園管理官、新しい山小屋のあり方に日々アイデアを巡らせている若主人、そして、ヨーロッパのすぐれた登山カルチャーを日本にも導入したいと奮闘する若手ガイド、世界一の評価を受けながら国内ではほとんど知られていないクライマーなどなど……。 
『PEAKS』は、そうしたこれからのロールモデルとなるべきさまざまな人を登場させることを通じて、山登りの新しい魅力を伝えます。次代の登山カルチャーを作り出すこと――それが『PEAKS』のミッションです。

この文章、今までずっと書いたことを忘れていました。ところがこれ、PEAKSを作りながらずっと念頭に置いていたことだったんです。ああ、おれはブレてなかったんだと今知りました。おれえらい。


8年たって、これがどの程度実現されたのかはよくわかりません。もっとできたのではないかなと、自分の力不足も痛感しています。でも、運よく時代の追い風もあって、自分にやれることはできたのではないかと思っています。



……寺倉さんに話したことも話してなかったことも、記憶がずるずる蘇ってきてえらく長くなりました。でもたまにはこうして自分を振り返るのもいいですね。機会を与えてくれた寺倉さんと編集部に感謝。


2017年2月22日水曜日

PEAKSでインタビューされました




『PEAKS』の長寿インタビュー連載「Because it is there...」に自分のインタビュー記事が載りました。人の取材はいくらもやってきましたが、取材される側にまわったのは初めてに近く、なんだかへんな気分。記事を読んでも、「へー、こんな人がいるんだ~」と、不思議な違和感というか距離感を感じています。これが、自分を客観視するということなのでしょうか。


インタビューしていただいたのは、寺倉力さん。Fall Lineの主幹編集を務めている編集者&ライターで、私が編集ライター業においてベンチマークとしている人です。寺倉さんはバックカントリーメディアの第一人者であり、私は寺倉さんをマネしてそれのクライミング版になればよいのだなと、いつも指標にさせてもらっているのです。


寺倉さんの手がけるものは常にクオリティが高く、私が雑誌作りの指標としているのがFall Lineであり、ガイドブック作りの指標が、昔、寺倉さんが作ったスキー場ガイド「スキーマップル」です。これはとてつもない本で、ガイドブックはこうあるべしという本なのです。まあ、そんな人なので、インタビューは安心しておまかせしました。


とりあえず、自分で自分の記事を読んだ感想は;

・おれ、顔怖えー
・おれ、オッサンになったなあ…
・探検部の話ってやっぱりキャッチーなのかな


「怖い」とか「近寄りがたい」とかいうことは、たまに言われるのですが、写真を見て、なぜそう言われるのかよくわかりました。これは怖いわ。自分ではこんな難しい顔している自覚はまったくないのです。記事中、冬山の格好をしている写真なんかは、それこそこれから命を賭けた危険な登攀に向かうような顔をしていますが、このとき私はなんにも考えていませんでした。ぼーっと風景を見ていただけです。


あとは探検部。記事では半分が大学探検部時代の話になっています。インタビューのときはほかの話もいろいろしたのですが、探検部の話がこれだけ取り上げられるということは、やっぱり探検部の話っておもしろいんですかね。自分が体験したことは自分にとってはわりと当たり前なので、あんまりおもしろいとも思えないのですが、外から見るとかなり特殊環境だったのでしょうか。そういうことが客観視できてよかったです。


雑誌的にはPEAKSの創刊裏話などもっと書いてほしかったんですが、そちらはあまりおもしろくなかったんでしょうか……。次回のブログではそのへんちょっと書いてみようかな。




2017年1月30日月曜日

私のきらいなネット記事4つの条件

日々、インターネットを眺めていて、「こういうのはイヤだ」と感じる記事の条件がいくつかあります。それは以下のようなものです。


1.目次がある

こういうやつです。

目次


別に目次自体がきらいなわけではありません。本などの目次は便利です。いやなのは、目次を作るまでもないほど短い記事に目次があること。目次を見て「おっ」と思った項目に飛んだら文章3行だったなんてげんなりです。でもよくあります。




2.「続きを読む」

タイトルに興味をもってページを開いたら、冒頭の文章が3行くらいだけあって、「続きを読む」とか「本文を読む」とかいうクリックボタンがついているもの。PV稼ぎが目的なんだと思いますがうざいです。


1ページの文章量が600字くらいしかなくて、それが6ページ続くなんてやつも同じです。新聞とか出版社系などオールドメディアのサイトに多いです。「公称○万部」とかいって本当はその半分以下というカルチャーに慣れ親しんでいた精神がなせるわざなのでしょうか。




3.意味のないイメージ写真

こういうやつです。


もちろんイメージ写真すべてがダメなわけではありません。ここぞと計算して使われる適切なイメージ写真は、本文のイメージをまさに何倍にも増幅してくれる効果があります(小説の挿絵などもそうです)。


私がいやなのは、本質的になくてもよい、「なんとなく」の写真です。そう感じる写真は、ほとんどが以下のどちらかだと思います。

1 表現技術が足りないことによって、イメージとしての写真が機能していない
2 「写真を入れるとSEO的によい」として入れているもの


このへんよく知らないのですが、写真や目次を入れるというのは、SEO的に有利に働くんですよね。たぶん。だからイメージ写真も目次も必要ないのに入れるんですよね。でもそれは読み手には何も必要ないわけで。必要ないものを見せられてうざく感じるのは当然でしょう。


ちなみに上のイメージ写真はぱくたそというフリー素材サイトからお借りしました。このサイト自体はとても便利なのですが、便利すぎるから安易な写真使用も増えてしまっているのだと思うのです。本当はいいイメージ写真って撮るの大変なのだよ。




4.「いかがでしたか?」

いかがでしたか? こういうサイトってイヤですよね?


というまとめ方をしてる記事。別に「いかがでしたか」という言葉にはなんの罪もないのだけど、こういうまとめ方してる記事、やたら多いと思いませんか。どいつもこいつもいかがでしたかで大格みたいでうざいなーと思っていたら、先日、インチキ記事を量産して炎上→サイト閉鎖となったDeNAパレットの事件でわかりました。こういうテンプレートになっていたんですね。




「イヤだな」と感じる代表的な条件をいくつかあげてみましたが、これらにはひとつの共通点があります。それは「読者のことを考えていない」ということです。自分の都合でやっていることばかりなのです。そりゃー読み手としてはうざく感じて当然じゃないでしょうか。


自分が書くものはこういうことはしないようにしようと、反面教師としてふんどしを締め直しているのです。






【追記】

もうひとつ思い出した! タイトルに「○○の5つの条件」とか「○○が知っているたったひとつの真実」とか付けてるもの。それを皮肉ってタイトルも変更しました(元は「私のきらいなネット記事の条件」)。


このへんを強烈に皮肉った最高のブログ記事があります。この人のライティング能力は天才的です。



2016年12月25日日曜日

アウトドアメーカーが食品?


アウトドアメーカーのパタゴニアが食品事業を始めたことが話題となっております。




添加物や遺伝子組み換え原料を排し、人体や環境によい食品を追求したとしています。環境問題に関心が高く、これまでにもさまざまな試みを行なってきたパタゴニアならではの取り組みといえるかもしれません。


アウトドアメーカーが食品事業というと聞いたことがなく、さすがユニークなことをやるなと思っていたんですが、現物を手に取っていろいろ眺めていたら、あっ! と気づきました。これまでもあったじゃん。しかもオレ、よく買ってたじゃんと。








同じくアウトドアメーカーのモンベルが出しているアルファ化米です。自宅からいちばん近い山道具店がモンベルショップということもあって、山に行くときはよくこれを買っていたのです。山道具置き場を見たらストックも2袋ありました。


確かこれ、もう数年前から売られていると思います。モンベルは自社でレストラン(スパイスマジック)もやってるし、食品事業に乗り出したのはモンベルのほうが早かったのである! さすがモンベル!


2016年12月13日火曜日

人名はフルネームが基本だ

カメラマン 中西氏が語るαシリーズの魅力と解説

こんな告知を見ました。


「中西氏」ってだれ? カメラで中西というと、中西俊明さん?(山岳写真家です)と思ってしまったけど、中を見たら中西学という、私が知らない人でした。


雑誌編集部にいたときに、ライターや部下の原稿によく指摘をしていたのが、「人名はフルネームで書け」ということ。2回目以降は下の名前を省略して「中西氏」でもいいけれど、初出はフルネームが基本。これは不特定多数の人に読ませる文章の基本原則なのです。


でもなぜか下の名前を省略してしまう人が多い。本当に多い。なぜそうしてしまうかというと、書いている自分がよく知っている人だから。わざわざ下の名前まで書かなくてもわかるだろと、無意識のうちに略してしまうのです。だけど、それを読んでいる人が(たとえば)中西学さんを知っているとはかぎらないわけです。つまり、これをやってしまうということは読者のことに意識がおよんでいない証なのです。


なんか説教くさくなってしまったけど、職業柄、このことはものすごく気になります。人名はフルネームで書こうぜ!

2016年10月22日土曜日

デトノアイソメに行きたい

仕事の筆が進まないので、珍しくブログ記事の連投を。


昨日登った八海山の西側には、気になる地名がたくさんあります。


まずはこれ。


なんだこりゃ? 地名なのか? それともなんかの記号みたいなものなのか? でも国土地理院の地形図に表記されているので、れっきとした地名と判断するしかない。


いったい「デトノアイソメ」とは何なのだろうか。漢字で書くとたとえば「出戸乃愛染」? いや、切る場所が違うのかもしれない。デ・トノ・ア・イソメでさしずめ「出殿阿磯目」あたりか。山の中だから磯目はないか……。


とにかくわけがわからない。山の地名には変なものがときおりあるが、これはかなりレベルが高い。同じ新潟の早出川にあるガンガラシバナに匹敵する。「わけがわからない」というだけで、私はそれに対する興味が抑えられなくなってしまう。なぜ「デトノアイソメ」なのか知りたい。そしてデトノアイソメをこの目で見てみたい。


以前、越後駒ヶ岳と中ノ岳を登ったときにもめちゃくちゃ気になっていたけれど、今回、地図を見ていて久しぶりに思い出した。思い出して稜線上から撮った写真がこれ。


画面中央、沢の合流点となっているところがおそらくデトノアイソメ。うーん、行ってみたいぞ! 気になりすぎてネット検索したところ、行っている人はやっぱりいて、現場には別に何もないらしいけれど。





次に、八海山と中ノ岳を結ぶ稜線上にあるこれ。


稜線上にV字に切れ込んだコルになっている。こういう地形に「ノゾキ」と名付けられるケースは他にもあるので、ここは「オカメ・ノ・ゾキ」ではなく、間違いなく「オカメ・ノゾキ」だろう。それにしてもなぜオカメなのだ。オカメがコルから崖下を覗き込んでいる姿が頭に浮かんでしまう(ところでオカメってなんだ)。


ここは名前だけでなく、地形的にもかなり強烈で、ものすごいV字コルになっている。北アルプスにあったら絶対にオカメキレットと呼ばれていただろう。

このアングルからだとわかりにくいけれど、稜線のいちばん低い場所がオカメノゾキ


越後三山縦走のコースでもあるけれど、このオカメノゾキの区間はハードなことで有名。なにしろオカメノゾキの標高は1240mくらい。1778mの八海山入道岳から500m以上下って、その後、中ノ岳までは一転して怒涛の800mアップ。こんなハードなアップダウン、南アルプスにもありません。

オカメノゾキから中ノ岳への800m超アップ。もはや壁のよう。見ただけで吐きそうです


この区間、私はまだ歩いておりません。一度は行ってみたいのだけど、覚悟がいりそうだな〜。





ほかに、越後駒ヶ岳のすぐ近くにも「フキギ」なんていうピークがあります。


ここは地形的にもかなり特異です。フキギから西(左)に延びる稜線と、そのすぐ下の沢(オツルミズ沢)の関係性をよく見てください。こんなへんな地形見たことない。名前だけじゃなくて、この地形を自分の目で見てみたい。





さて、越後三山周辺ではないし、国土地理院図にも表記がないのだけど、いまのところ私が知っている「変地名」のなかで最強と目されるのが、奥秩父金峰山近くにある「チョキ」です。標高1883mのピークなんですが、なぜチョキなんだ。山名でチョキなんてありなのか。そもそもどういう字を書くんだ。猪木? これじゃイノキか。いや、チョキと読むこともできるぞ。まさかパーはあるのか。それならばグーも絶対に欲しい……。


変地名は、それだけでさまざまな想像(妄想)を広げてくれる素晴らしいものでもあるのです。