2017年2月28日火曜日

PEAKS創刊前夜の話

私の古巣のひとつとなる雑誌『PEAKS』が創刊したのは2009年5月。最初の1年は隔月刊で、2010年5月の号から月刊化して今に至ります。私は創刊当初からのメンバーで、2013年3月号まで副編集長として務めました。今もフリーランスの立場で記事作りにかかわっているので、もう8年近くやっていることになります。


先日の『PEAKS』のインタビュー取材のときに、寺倉さんから創刊のころのことを聞かれ、久しぶりに当時を思い出しました。パソコンをあさってみたら、最初に書いた企画書が出てきたので、昔話とともに紹介してみようと思います。




「登山雑誌、定期刊でやることになったから」


と、編集長の朝比奈耕太さんから電話を受けたときのことはよく覚えています。2009年4月初旬、松本のロイヤルホストの駐車場でした。そのとき私は松本在住の山岳カメラマンに写真借り&打ち合わせに来ていて、それが終わってさあ帰ろうというときでした。


当時、私は枻出版社に入ってちょうど一年。会社にも慣れてきて、自分の専門である登山のムックを夏前に出そうと動いていたときでした。山岳カメラマン氏には、それ用の写真の相談に来ていたのです。


「定期刊でやることになったから」というのは、ムックではなく定期雑誌として刊行すべしという決定が経営会議でなされたという報告でした。


「発売は5月21日ということで」


朝比奈さんはそう続けます。冗談言わないでください。あと1カ月半しかないじゃないですか。いや、発売10日前には校了していないといけないから、制作期間は1カ月。定期誌を1カ月で立ち上げられるわけないでしょ。普通は1年、短くても半年はかけますよ。


もちろん私はそう答えたのですが、「もう決まったので」と、取り付くシマがありません。いや、絶対無理だって。朝比奈さんだってわかってるでしょう。それでもやるって言うなら、おれはおりますよ。私はかなりエキサイトして電話口にそう吐き捨てました。


「とりあえず、なにができるか明日会議しましょう」


朝比奈さんがそう言って電話は終わりました。


枻出版社というのは、こういう急な決定や方向転換が多い会社で、この一年間、それに振り回されたことも少なくなかった私は、「もうやってらんねえ」と頭に血が上って、荒っぽく車のドアを閉めました。車を走らせ始めても、ムカつきがおさまらず、明日なんて言ってやろうか、辞表をたたきつけて帰ろうか、そんなことばかり考えていました。


中央高速を諏訪あたりまで来ると、ムカつきも一段落して、だんだん落ち着いてきました。……定期雑誌か。いくらなんでもできるわけないよな。定期誌といったらタイトルが必要だよな。そこからして白紙だもんな。どうすんだよ……。


そのうち車は小淵沢か韮崎あたりまで来ました。……やるとしたら、今進めてるムックをベースにするしかないよな。とはいえデザインはどうしたらいいのかな。ムックと定期誌じゃデザインの考え方も全然ちがうよな。デザイナーはピークスのだれになるのかな。

*ピークスというのは枻出版社の子会社のデザイン会社で、枻出版社の刊行物のデザインはここが手がけることになっています。



……そういえばピークスって、綴りなんだっけ。P・E・A・C・Sか。そうそう、PEAKじゃなくてPEACなんだよな。確か4つの会社のイニシャルの集合っていってたな。……PEACSがデザインする雑誌だからPEAKS! ダジャレか。くだらねえ~。


……けど、悪くないかもな……。P・E・A・K・S。ピークスか。山の頂上ってピークだもんな。


……あれ? これ、いいんじゃね? PEAKSって雑誌、ほかに……ないよな。えーと……うん、聞いたことないな……。え? こんな直球でいいの? 


……いや、これだよ。これでいいよ。これでいいじゃん!


たぶん、この段階で双葉か甲府昭和あたりを走っていました。


枻出版社に入る前から、私はずっと、新しい登山雑誌を作るならなんてタイトルがいいか考え続けていました。でも、ピンとくるタイトルを思いついたことはありませんでした。考えつくのは、『Mountain Life』とか『Mt.Trip』とかヘボいものばかり。


私が登山雑誌のタイトルに必要だと考えていた要素は3つありました。

1)ひと目で山の本だとイメージできること
2)短いこと
3)カタカナであること


1)は説明不要かと思います。ひねった内容で攻めたいならともかく、ボリュームゾーンに訴えたいならこれは必須かと思うのです。


2)は、会話のなかでひとことで言えることを重視していました。たとえば「マウンテンライフ」だと長すぎて、ひんぱんに口にするには面倒です。すると、人はなんらかの略称で呼ぼうとする。そのときに「なんて略すればいいかな」と考えさせるのがいやでした。それはわずかな引っかかりですが、口にする人にストレスであることは間違いありません。そのストレスはわずかなれど、でも、そのわずかなストレスを億劫がってタイトルを気軽に口にできなくなるのです。一方で、略さないでフルネームで呼ぶ人もいるでしょう。すると、人々の間で雑誌は明確な像を結ばず、ということは、意識にしっかり定着しない。それは避けたいと思っていました。


3)は、旧来の雑誌とはちがう新規性を感じさせたかったからです。それまでにあった登山の雑誌は、『山と溪谷』とか『岳人』とか『山の本』とか、日本語タイトルばかりでした(昔は『アルプ』とかもありましたが)。それらとはちがう、新時代の山の雑誌である。ということを表現するには、カタカナ(外来語)が望ましいと思っていました。


私は車を走らせながら、PEAKSをこの1~3の観点からも検討しました。PEAKSはそのどれもを、完璧にクリアしました。


タイトルが決まった瞬間、「これ、できるかも」と、不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。あれだけ絶対無理だと思っていたことが、タイトルが決まったら、なんとかなるような気がしてきたのです。


同時に、PEAKSというタイトルに合わせて、雑誌作りに必要な要素がどんどん勝手に浮かんできました。想定読者層はどんなところにおけばいいか、どんな企画をやればいいか、デザインはどういう方向性で作ればいいか……。雑誌の大枠が頭の中で自動的に組み上がっていき、立体的な企画として立ち上がってきました。


甲府を過ぎたあたりからは、もう完全にやる気になっていて、考えることは、企画の内容や制作の段取りなど、具体的なことばかりになっていきました。帰宅したのは23時か24時ごろだったと思いますが、そのまま新雑誌の企画書を書きました。それがこれです。




ファイルのプロパティを見ると、作成日時は2009年4月2日の午前2時40分になっていました。ということは、松本に行っていたのは4月1日だったのでしょう。


「30代のための山歩きmagazine」というキャッチコピーが恥ずかしいですが、想定読者層を30代にしようとこのときすでに決めていたことがわかります。


なぜ30代か。ひとつには、枻出版社という会社の持ち味として、年配層より若い層に向けたもの作りのほうが得意ということがありました。もうひとつは、当時、30代以下の人に訴える登山メディアが存在しなかったことにあります。二大登山誌と言われていた『山と溪谷』と『岳人』は、このころ想定読者を完全に40代以上(いや、50代以上?)の年配層に振っていて、若い人が読んで面白い記事はほとんどなかったのです。


その結果、若い登山者たちは、インターネットでそれぞれ適当に情報を収集し、山に登っていました。ネット上に彼ら彼女らの居場所となりうる強力なサイトがあればよかったのですが、それもなく、ネット上に浮遊した情報の断片を自分なりに拾って登っているように私には見えました。


当時はまだ、山ガールブームが盛り上がる前です。登山というのは年配層の趣味であるという認識が一般的な時代で、若い世代は登山界から見捨てられた存在のように思えました。商売を考えれば、絶対数の多い年配層に向けたほうがいいのかもしれないけれど、それはもうヤマケイや岳人がやっている。ならば、彼らがやらないことをやろう。見捨てられた人たちの居場所を作ろう。それは売れないかもしれないけれど、1カ月しかないんだから失敗してもともと。ならば、つまらない二番煎じをやって失敗するより、未開拓のことをやって玉砕したい。……そう考えたわけです。


明けて翌日の会議、辞表のかわりに、私はこの企画書をたたきつけました。会議の出席者は朝比奈さんと、ヤマケイ時代からの同僚、ドビー山本(山本晃市)。自信満々で出したPEAKSというタイトルは「いいじゃん」と受け入れられ、朝比奈さんはすぐさま社長のもとに報告に行きました。PEAKSというタイトルと聞いて社長は「そうきたか」とニヤッとしたそうで、B案もC案も必要とせず、すぐGOとなりました。


そのあとは、準備していたムックの企画を定期誌用に作り替え、新規の記事立案、連載等の準備、広告営業先のリストアップなどなど、嵐に巻き込まれていきました。


厳しい毎日が始まりましたが、タイトルロゴの作成は面白かった思い出です。PEACSデザイナーチームが、30個くらいのロゴを作ってくれました。それをテーブルの上に広げて、どれにするかを話し合うのです。そのなかに「お!」と目に止まるものがありました。以下のようなものです(私が記憶で再現したもの。本物はもっと完成度高かったです)。


パタゴニアのロゴのマネといえばそうなんですが、ひと目で山が感じられていいな! と思ったのです。朝比奈さんも同様にこれがベストだと思ったようで、「これでいこう!」と意見は一致。ところが、ロゴが決まってひと安心と思っていたら、しばらくして会社の上層部から「タイトルが破れているように見えるのはよくない」とNGが出て、幻のタイトルロゴとなってしまいました。


今にして思えば、一回くらい会社の意見を押し返してもよかったんじゃないかという気もしますが、そのときはその余裕はまったくありませんでした。企画を作り、ライターやカメラマンに依頼をし、ページの中身を作っていくことで精一杯だったのです。誌面のビジュアルやデザインのトーンについても自分なりのイメージはあったのですが、そのへんの大枠の話は朝比奈さんにまかせきりで、結局、ほとんどなにもできませんでした。紙の選定について希望を生かせたくらいでしょうか。


編集部のスタッフ、営業部員、ライター、デザイナーにも無茶に無茶を通して、最後は自分も会社の椅子で4連徹して、ようやく校了。絶対に無理だと思っていた本が、本当に5月21日に発売されました。校了後、自分がどうしていたかはまったく記憶にありません。


これだけ無理を通しただけあって、気に入らないところ、もっとこうしたかったところ、練りが足りないところなど、当然ながら満載で、今見ると穴だらけもいいところです。校了直前にどうしても1ページ埋まらなくて、本来1ページの記事をデザイナーのウルトラテクニックで2ページに水増ししたところもあります(持っている方はどこだか探してみてください)。


実際、創刊後の初期のPEAKSは恥ずかしいところばかりで、しばらく見たくありませんでした。8年たった今でも見るのには勇気がいるのですが、時間がたって距離をおいたからでしょうか、以前よりは読むことができます。時間に追われて書き飛ばしたと思っていた自分の原稿が意外とよかったりして、少しホッとしたりもしています。


その後のことは、寺倉さんのインタビューにもあったとおり。自分の仕事人生でいちばんきつかった一年になったのですが、まあ、やってよかったなと思っています。


ひとつ思うのは、枻出版社のバカげた決断力がなかったら、PEAKSは生まれていなかったなということ。私も枻出版社が新たに立ち上げたアウトドア編集部の一員となったからには、得意の登山雑誌を作ろうとは考えていました。しかし、それには十分な準備期間が必要で、まずはムックを出して少しずつ信用を得ていくのが得策だ……と常識的に考えていたのです。


ところが、その当時、自分が書いたムックの企画書も出てきました。それを今読むと、まあ、ヌルいヌルい。こんなヘボい企画書じゃ、ろくなもんはできやしねーよ。今の自分がこの企画書を渡されたとしたら、なんかいろいろ書いてあるけどつまんねえなと、3分で見切りをつけることでしょう。一方、4月2日の夜にたった2時間で書いた企画書は熱い。やりたいこと、やるべきことが簡潔明確に書かれていて、人を動かす力が感じられます。会社のバカげた決断が私の心に強大な負荷をかけた結果、押し縮められたバネが飛び出すように、自分ひとりでは出せなかったエネルギーが出せたと思うのです。


企画書の草稿には、なかなかいいことが書かれていました。

これまでのメディアで知られていないだけで、それぞれに情熱をもって山登りをしている若者はじつはたくさんいます。 
サラリーマンでありながら年間100日近くも山に通っている人、山好きが高じて山小屋に転職してしまった独身女性、さらには、高山植物の保護に情熱を傾ける自然公園管理官、新しい山小屋のあり方に日々アイデアを巡らせている若主人、そして、ヨーロッパのすぐれた登山カルチャーを日本にも導入したいと奮闘する若手ガイド、世界一の評価を受けながら国内ではほとんど知られていないクライマーなどなど……。 
『PEAKS』は、そうしたこれからのロールモデルとなるべきさまざまな人を登場させることを通じて、山登りの新しい魅力を伝えます。次代の登山カルチャーを作り出すこと――それが『PEAKS』のミッションです。

この文章、今までずっと書いたことを忘れていました。ところがこれ、PEAKSを作りながらずっと念頭に置いていたことだったんです。ああ、おれはブレてなかったんだと今知りました。おれえらい。


8年たって、これがどの程度実現されたのかはよくわかりません。もっとできたのではないかなと、自分の力不足も痛感しています。でも、運よく時代の追い風もあって、自分にやれることはできたのではないかと思っています。



……寺倉さんに話したことも話してなかったことも、記憶がずるずる蘇ってきてえらく長くなりました。でもたまにはこうして自分を振り返るのもいいですね。機会を与えてくれた寺倉さんと編集部に感謝。


2017年2月22日水曜日

PEAKSでインタビューされました




『PEAKS』の長寿インタビュー連載「Because it is there...」に自分のインタビュー記事が載りました。人の取材はいくらもやってきましたが、取材される側にまわったのは初めてに近く、なんだかへんな気分。記事を読んでも、「へー、こんな人がいるんだ~」と、不思議な違和感というか距離感を感じています。これが、自分を客観視するということなのでしょうか。


インタビューしていただいたのは、寺倉力さん。Fall Lineの主幹編集を務めている編集者&ライターで、私が編集ライター業においてベンチマークとしている人です。寺倉さんはバックカントリーメディアの第一人者であり、私は寺倉さんをマネしてそれのクライミング版になればよいのだなと、いつも指標にさせてもらっているのです。


寺倉さんの手がけるものは常にクオリティが高く、私が雑誌作りの指標としているのがFall Lineであり、ガイドブック作りの指標が、昔、寺倉さんが作ったスキー場ガイド「スキーマップル」です。これはとてつもない本で、ガイドブックはこうあるべしという本なのです。まあ、そんな人なので、インタビューは安心しておまかせしました。


とりあえず、自分で自分の記事を読んだ感想は;

・おれ、顔怖えー
・おれ、オッサンになったなあ…
・探検部の話ってやっぱりキャッチーなのかな


「怖い」とか「近寄りがたい」とかいうことは、たまに言われるのですが、写真を見て、なぜそう言われるのかよくわかりました。これは怖いわ。自分ではこんな難しい顔している自覚はまったくないのです。記事中、冬山の格好をしている写真なんかは、それこそこれから命を賭けた危険な登攀に向かうような顔をしていますが、このとき私はなんにも考えていませんでした。ぼーっと風景を見ていただけです。


あとは探検部。記事では半分が大学探検部時代の話になっています。インタビューのときはほかの話もいろいろしたのですが、探検部の話がこれだけ取り上げられるということは、やっぱり探検部の話っておもしろいんですかね。自分が体験したことは自分にとってはわりと当たり前なので、あんまりおもしろいとも思えないのですが、外から見るとかなり特殊環境だったのでしょうか。そういうことが客観視できてよかったです。


雑誌的にはPEAKSの創刊裏話などもっと書いてほしかったんですが、そちらはあまりおもしろくなかったんでしょうか……。次回のブログではそのへんちょっと書いてみようかな。