2015年6月23日火曜日

「山岳遭難過去最多」は本当に最多なのか

先週、こんな報道がありました。
毎年この時期に警察庁が全国の山岳遭難統計を発表します。
その内容を報じたもので、この朝日新聞にかぎらず、報道各社、見出しも内容もほぼ同じです。


「過去最多」という言葉を見ると、「そりゃ大変なことだな」と思ってしまうのですが、これもう20年くらいずーっと変わってなくて、毎年この時期に同じ見出しで記事が出ることになっています。


でも、登山やってる人はなんかへんだな?と思わないですか?
そんなに年々、山が危険になってる印象ってありますか?
あるいは、そんなに登山者の数が毎年毎年増えてるように感じていますか?


僕は28年前から登山やってるのですが、そのどちらの印象もありません。
とくに危険になった気はしないし、登山者の数もこの遭難件数の増加に見合うほど増えてはいない。山で遭難者の姿を見ることが増えた気もしないし、自分のまわりで遭難した人が増えてもいない。


ではどういうことなのか。


持論なんですが、これは「山岳遭難増加」なのではなくて、「通報件数増加」なのだと思っています。


たとえば15年前であれば、山で携帯電話はほとんど通じなかったので、山中で脚を折ったとしても、人のいるところまで自力で下山するしかなかった。片足で這ってほうほうの体で下山して病院に行ったとしても、警察に連絡しなければ、それは統計にはカウントされなかったわけです。


しかし現在では、山中で脚を折ったら、まずはヘリコプターを呼べないかと考える。
つまり、遭難の数自体は大して変わっていなくて、昔は表に出てこなかった遭難がいまは出てくるようになっただけではないのかと。


実際そんな例はゴマンとあったはずだし、僕自身も山の中で落ちて顔を強打して鼻折ったことがありますが、顔面血だらけのまま歩いて下りました。
もちろん警察に連絡なんかしていません。そもそも携帯電話がない時代でした。


それに加えて、各地で山岳救助隊もずいぶん整ってきました。
昔は山岳救助というと、地元の青年団みたいな人や山岳会などが急遽集められて出かけていたわけですが、いまは主要なエリアでは警察や消防のプロ集団が出動します。
そしてその存在は一般の登山者にもずいぶん知られるようになりました。
「事故を起こしたらまずは通報」と認識が変わってきた背景にはそんな事情もあると思います。


山で事故を起こしたとき、

昔:事故った → いちばん早く下山できるルートはどこだ → がんばって下りる

今:事故った → 110か119に連絡 → ヘリ到着

これが統計数字の差になっているだけなのだと思います。


そう思う根拠としては、自分の体感のほかに、死亡・行方不明などの重大事故の数が数十年前からあまり増えていないことがあります。
本当に山岳遭難が増えているのなら、それに比例して重大事故も増えていないとおかしいはず。
でも、死亡者数は50年くらい前からずーっと200〜300人くらいで、目立った変化がないのです。


死亡者数に関してひとつだけ思うのは、通信と救助体制と道具がよくなったので、昔なら死んでいたような事故が、いまは助かるケースも増えたということ。
だから昔と現在をイコールコンディションで比較できないのはわかります。
ただ、それを考えても、重要な傾向を見いだせるほど事態は変化していないのではないかと思います。


だから報道各社も毎年「過去最多」と記事にして人々の恐怖をあおることはほどほどにして、もう少し突っ込んだ報道もしてほしいなと。
いまの報道は事実は伝えているかもしれないけど、真実は伝えていない。
毎年風物詩のように「過去最多」を見るたびにそんなことを思うのです。



2015年6月13日土曜日

長野の川上村にパタゴニアが開店するらしい


小川山に行く人の9割以上が立ち寄る(と思われる)、川上村のスーパー「ナナーズ」。
土日の売り上げの半分はクライマーによるものとすら(わが家では)言われている店だ。
いわば小川山に向かうクライマーたちの戦略拠点あるいはエイドステーション。


(その筋では)あまりにも有名なナナーズに、なんとあのパタゴニア直営店がオープンするという。


スーパーにアウトドアショップ?
どういうことか一瞬理解できなかったのだが、ナナーズの駐車場敷地内に店舗が作られ、7月6日から一年間限定というかたちで営業するとのこと。
あのクリーニング店みたいなのがあるあたりかな?と思うのだが、そこまではわからない。


しかし期間限定店というのもあまり聞かなければ、ナナーズに出店とは思いもしなかったアイデア。
今度小川山に行くときはのぞいてみよう。



【6月13日追記】
パタゴニア日本支社が店舗イメージ図をくれました。こんな感じだそうです。



2015年5月26日火曜日

すごいクライミングガイドブックができたぞ


4月20日に瑞牆山のクライミングガイドブックが発売されました。刊行元はPUMPというクライミングジム。


一読衝撃。よくぞまあここまで調べたものだと。瑞牆山にあるクライミングルートは全部で600本以上。2年間かけてそのほとんどを登り直して情報をまとめあげたそうです。上下巻に分かれていて、合わせると500ページ以上。すさまじいボリュームです。


ふたつめの衝撃は、これを作ったのが本の製作未経験の人であること(経験者の助力は受けていますが)。しかし見てもらえばわかりますが、本の構成やデザインに素人くささはなく、内容の詳しさと正確性は出版社製の本をはるかに上回っています。


その首謀者&著者であるPUMPの代表・内藤直也さんに製作の裏側を聞く機会を得ました。詳しくは6月4日発売の『ROCK & SNOW』を読んでほしいのですが、そりゃあもう刺激を受けました。


・ボリューム(体裁やページ数)は最初に決めない
・聞き書きではなく、現地に自ら足を運んで調査
・それに100日以上かける
・500ページを3カ月で書き上げた
・ルート図も自分で描く
・オンデマンドで現物を一回作ってから広告営業する


どれも出版社にはなかなかできない話です。でも全部まっとうな本作りの方法と思えました(執筆のスピードは異常ですが)。


考えてみると、私がここ一、二年、中身も価格もろくに見ずに即決で買った本は、出版社ではないところが出しているものが多いです。
これとか
これとか
これとか
これ
どれも5000円前後とかの高額な本です。でも値段は関係ないんです。「これは絶対に手元に置いておきたい」という圧倒的なパワーと熱があるのです。


瑞牆のガイドブックにも、内藤さんの常軌を逸した(という表現がふさわしい)情熱が注がれています。そんな本がつまらないわけがないのです。


本作りに携わるものとして、内藤さんの話は刺激に満ちていました。出版社出身者としてがんばらなきゃなと思うと同時に、襟を正さねばとも。


インタビューは↓に載る予定です。ぜひ読んでみてください!


2015年5月7日木曜日

ゴールデンウイークの小川山

5日・6日はクライミングのメッカ・小川山に行っていました。
どちらも快晴で、この時期の小川山は最高です。

美しい森。



最高のキャンプ場。


星空のキャンプ場。


”蜘蛛の糸”
このアングルの写真はめずらしいはず。

2015年5月4日月曜日

登山雑誌の「タイアップ」(1)

近ごろ「ネイティブアド」という言葉をよく聞きます。
要は、広告っぽく見えず、前後の記事や流れに「自然になじんだ」広告ということらしい。
これがインターネット上で熱い議論になっています。


まずはこんな意見。
ネイティブアドよ、死語になれ。

これに対する反論的なもの。
男・徳力基彦、ネイティブ広告の時代の勘違い野郎共に物申す

「インターネット広告推進協議会」というところがあって、そこが一定のガイドラインを作ろうという動きがあるそうですが、なかなか利害は一致しないようです。
「ネイティブ広告」の推奨規定、JIAAが新たに策定


僕は主に紙媒体で仕事をしているのだけど、「他人事ではないな」と注目しています。
雑誌でもよくある「タイアップ記事」というのは、要はネイティブアドだからです。


ここ10年くらい、登山雑誌でもメーカーなどがお金を出して特定の商品のPRを目的とした記事が増えました。
それを「タイアップ記事」と呼んでいます。
15年前は登山雑誌にはほとんどなかったのだけど、10年くらい前からどんどん増えています。
そして一般記事との「なじみ具合」もどんどん進んでいるような気がします。


で、上のリンクなどで議論されているのは、そういう記事には「PR」とか「広告」というクレジットを明示すべきか否かということなのですが、こと登山雑誌ではそうしたクレジットが入っているものは見た記憶がありません。
僕のようなプロ(という言い方もなんですが)が見るとだいたい「ああ、これはタイアップだな」とわかるのですが、なかには「ちょっとわからない」というものもあります。
内容や文体から「タイアップくさい」と思えるのだけど、「ちがうかもしれない」という微妙なものもあるわけです。
今の時代、一般読者もそこはけっこう見破っているんじゃないかとは思うのですが。


この問題に関しては僕も意見はあるのですが、それ以前に、ネット上の議論を見ていて思ったのは、「うらやましい」ということでした。


なにがうらやましいかというと、ネットがです。
雑誌でも週刊誌や経済誌は「PR」クレジットを入れることが定着しているけれど、趣味系の雑誌にはそんなガイドラインはほとんどありません。女性誌なんてタイアップの総本山みたいな存在だけどなにかあるんでしょうか。
雑誌はそんな感じで、業界的・統一的な議論が巻き起こる機運がほとんどありません。
出版業界や登山界ってのは良くも悪くも個人主義が強くて、横断的な議論をしようとか知識やノウハウの共有をしようというムードがすごく薄い世界なんですよね。
それはつまらないと個人的には思っていて、だから、業界あげて熱く議論を戦わせるネットがうらやましいと感じたわけです。


この流れはそのうち雑誌にもおよんでくるはずだし、無関係ではいられないという危機感に近い思いもあって、出版界も考えておく必要があると思っているのです。


ついては自分の意見についても書いておこうと思ったんですが、長くなりそうなので次回に。

2015年4月27日月曜日

知る人ぞ知るナイキの名作


使えなくなった道具はあっさり捨ててしまうほうなのだけど、たまに思い入れが深くて捨てられないものもある。
この靴がまさにそう。
買ったのは1999年くらいなので15年以上前。ゴムがはがれたり革が破れかかったりして、もう7、8年はまともに履いていないのだけど捨てられなかったのです。
しかしこうして写真に撮って記録として残しておけば、また会いたいときにすぐ会えるではないかと思いついて、ようやく捨てる決心がつきました。


ナイキACG エア・ラバドーム2002
ラバドームという靴は年式によってずいぶん変わっているのだけど、僕が履いていたのはこの2002というタイプ。
5.12が登れるといわれたほどクライミング性能の高い靴で、ハンス・フローリンというアメリカの有名なクライマーがヨセミテのビッグウォールで履いている写真を海外の雑誌で見たこともあります。
そんなトップクライマーも実戦で使うほど完成度の高い靴だったわけです。
販売期間が短かったのか、それとも売れなかったのか、履いている人はあまり見なかったけど、これの後継モデルでかなりヒットしたエア・シンダーコーンという靴の原型はここにあるといっていい。



90年代から2000年代にかけて、ナイキはACGというラインでかなり使えるアウトドアシューズを出していました。
大企業がアウトドア製品を作ると、往々にしてカッコだけのものになりがちで、通から見るとどうにも使えないものである場合が多いのですが、このころのナイキACGは違いました。
アウトドアメーカーとはまったく異なるアプローチでありながら完成度が高く、かつ革新的で、ビッグブランドが本気でアウトドアに取り組めばこういうことになるのかと、ワクワクしたものでした。



なにがそんなによかったのかというと、なによりそのクライミングシューズばりのフィット感。
足全体にすきまなくぴったりとフィットし、とにかくブレのない履き心地が最高でした。
本当に5.12を登れるのかどうかは、残念ながらわたくしの身体能力的に確かめることができなかったのですが、うまい人が履けば本当に登れるかもと思わせるだけのものがありました。
開発陣には絶対に好き者(クライミングの)がいたに違いないと確信しています。



高性能の秘訣はこのソール。ほとんどクライミングシューズと同じといってもいいような特徴的な作りです。
ソール外縁部がフラットパターンになっており、つま先が絞り込まれた形状のため、小さい突起にも非常に立ちやすかったのです。
つま先部分がフラットパターンになっているこういうソールは、「クライミングゾーン」などと呼ばれて、最近のトレッキングブーツにもよく採用されていますが、この構造を初めて採用したのはこのラバドームじゃなかったかと思います。



とにかく気に入っていて、一時はこればっかり履いていました。
壊れかけてきたころ、もう一足買っておけばよかったなと後悔したくらい。
今回あらためてネット検索してみたら、ヤフオクとか、ショップのデッドストックなんかで、たまーに出物があるみたいですね。でもサイズがデカかったりするものがほとんど。サイズが合うものがあったらもう一回買ってみたい。



これ履いて国内から海外の山まであちこち行ったなあ。
あなたはまさに名作といえる靴でした。
これまで本当にありがとう。

2015年4月22日水曜日

巨星船戸与一墜つ


作家の船戸与一さんが亡くなった。

冒険小説の名手、直木賞作家の船戸与一さん死去


船戸さんは大学探検部の大先輩にあたる。
私が学生時代、OBの集まりに顔を出すとたいてい船戸さんがいた。
船戸さんは無頼を絵に描いたような人だった。
風貌からしてまともな社会人でないことはひと目でわかったし、物言いも乱暴そのもの。
その船戸さんに劣らないやくざなOBである恵谷治さん(現在は北朝鮮がらみでテレビでもよく見かけるフリージャーナリスト)と組んだツートップはとにかくヒドく、学生たちからおそれられていた。


たとえば、その場で活動計画を説明すると、このふたりがボロカスに文句をつけてくる。
「そんなもんが探検といえるのか」
「おまえにとっての探検とはなんだ」
「考えが甘いんだよ」
いきなり頭から酒をかけられたやつもいる。
もうクソオヤジ以外の何物でもない。


ただし、好き勝手に放言はするが、「こうしろ」と言うことはなかった。
当時すでに売れっ子の冒険作家であり、海外辺境の経験なら学生よりはるかに上だったのに。
罵倒はするくせに指図は一切しなかったのだ。
「金は出すが口は出さない」
そういうポリシーで一貫していた。
それは船戸さんだけではない。ほかのOBもクソオヤジかダメオヤジばかりであったが、私は彼らのこういうところが大好きだった。
山岳部がOBの言うことにがんじがらめになっているのを見ていただけに、このクソオヤジたちは私の誇りでもあった。


いつか自分がOBになったとき、おれもこうあらねばならない。
そう思わせてくれたことに感謝しています、先輩。
心からご冥福をお祈りします。

2015年4月15日水曜日

オーカクの新たなチャレンジ



きょう発売のPEAKSを見た人は気づいているだろうが、編集部の大格宗一郎が退社することになった。


大格は私が編集部にいたころに新卒で入ってきた男で、2年ほど同僚として働いた仲だ。
月刊誌の編集というのはいつも忙しく、みんなでひとつのものを作り上げるという関係上コミュニケーションも自然と密になるもので、これまで山と溪谷にしろPEAKSにしろ、雑誌編集部でいっしょに仕事をした人間は同志というか戦友的感覚が個人的に強い。
そのひとりが編集部を離れるというのは端的に言って寂しい(そういう自分が先に編集部を辞めているので勝手なもんだが)。


しかし次の職場はあのSPA!だという。
もともと就活時代からSPA!を志望していたそうで、中途の募集があったので受けてみたら受かったらしい。
どう見てもPEAKSよりSPA!のほうが大格に向いていることは私もよくわかるので、「よかったね」というほかない。


大格がPEAKS編集部に入ってきたのは2011年の春。
最初の自己紹介で「アイドルの研究が趣味です」とニヤケ顔で言う。「このツカミはきいたろ」と本人が内心で悦に入っているのが目に見えるようであった。なんだか妙に調子のいいところがあり、中身はあまりなさそうな男に見えた。
「こいつはあまり使えなさそうだな」
というのが私の第一印象だった。


その第一印象は半分当たっていて半分間違っていた。


大格の書く文章はダントツで面白かった。
いまやPEAKSの名物になっているコラム「オーカクチャレンジ」。
もともとは読者ページの片隅でひっそりと大格が始めたコーナーなのだが、当時、夜中の編集部で校了紙を読んでいた私は目が釘付けになり、読了した瞬間、「オーカク、おまえは天才だ!!」と叫んだ覚えがある。
そう感じたのは私だけでないはずだ。その後、「PEAKSはオーカクチャレンジから読みます」という声を何度となく聞いたことからもそれは証明されている。


一方で、ある程度ワクが決まった文章を書かせるとひどかった。
たとえば定例の情報ページで新しい登山用具を紹介する文章だとすると、大格が書く文章はいつも決まっている。こんな感じだ。

1)現在の登山用具についてどうでもいい枕言葉で始まる。
2)「しかし」ときて、その問題点をいくつか薄っぺらく語る。
3)「そこでこれである」と、新製品の紹介を始める。
4)「この夏、あなたも試してみてはいかがだろうか」と締める。

おまえはテレフォンショッピングか!と言いたいくらいの見事な様式美だ。
一時など8割くらいの文章が「いかがだろうか」で終わっているので、いい加減にしろとよく言っていた。
オーカクチャレンジみたいな魅力的な文章を書ける男が、情報ページとなるとどうしてこんな平均以下の文章しか書けないのか不思議でしかたなかった。


仕事の要領もいいとはいえなかった。
自分の仕事の段取りもぼろぼろであるうえ、何か頼み事をしても10回のうち7回は忘れる。あまりにも忘れることが多いので、そのうち私は重要なことは頼まないようになった。
ルーティーン的な仕事や事務的な作業には人三倍才能がない男だった。
大格の愛する野球にたとえれば、どんな球でもヒットにしてしまうイチローのようなアベレージヒッタータイプでは決してなく、当たれば飛ぶけど、当たらなければ全部三振に終わる近鉄のブライアントのようなやつだったといえるだろう。


この男は放し飼いにしてこそ生きるのだということが半年もすればわかってきた。
そのころ、大格の実家がマルタイラーメンの工場の近くだということを聞き、「じゃ、棒ラーメンの記事作って」と6ページ丸投げしたことがある。
半年の新人にとって6ページを一から作るのはかなりな大事である。
大格は福岡に現地取材に飛び、校了ぎりぎりまで粘って面白い記事を仕上げてくれた。
棒ラーメン愛好家インタビュー、マルタイ工場潜入ルポ、圧巻は棒ラーメン全40種類カタログ。棒ラーメンってこんなにあったんだ!と私は驚いた。読者もそうであったに違いない。
いまだかつて棒ラーメンについてここまで深く迫った記事はあっただろうか。
PEAKSのなかで個人的に記憶に残る記事はいくつかあるのだが、これはそのトップ10に入っている。


そんな大格であるが、私が編集部を辞めたあと、編集者として明らかな成長を見せた。
まず、電話やメールに確実に返事をしてくるようになったのは大きな進歩だ(当たり前のことと言わないでほしい)。
巻頭特集もまかされるようになり、彼なりに考え、がんばっていることは伝わってきていた。
打ち合わせをしても、以前はどうにも手応えのない反応しかなかったのだが、最近は的確なツッコミや独自なアイデアを入れてくるようになった。
掲載誌の発送は頼んでもまた忘れられそうで怖いので、相変わらず大格ではなくバイトの子に頼んではいたけれど。







SPA!の方々、ソツなく仕事をまわしてくれるオールマイティな編集者が欲しかったのなら、大格を採ったのは間違いです。
「とにかく面白い記事作ってくれ。よろしく!」とだけ言って放り出すことをすすめます。そうしたらきっとグラビアン魂に匹敵するような名物コーナーを作ってくれると思いますので。


ということで、久しぶりにSPA!買ってみようかな。
みなさんも読んでみてあげてください。
そして「いかがだろうか」で終わっている文章があったら、「オーカク、おまえがやるべき仕事はこれじゃないだろ!」とつっこんでやってください(笑)。





【おまけ】


これが記念すべき「オーカクチャレンジ」第1回。企画の内容をきちんと汲み取ってこのバカっぽいタイトルロゴを作ってくれたデザイナーのナイス仕事が光る。サブタイトルの「特別緊急企画」は結局最終回までそのままだった。(2011年10月号)


オーカクチャレンジの2号前に始まっていた幻の企画「PEAKSわらしべ長者」。企画に応募してくれた読者と物々交換を繰り返して登山用具を入手するというもの。大格が自分のアイデアで作った初の企画。(2011年8月号)


その次の号で早速終了。「理由はお察し下さい」を読んで、私はコーヒーを鼻から吹きそうになった。あとにも先にも、大格の文章を読んでいちばん笑ったのは実はこれだったりする。ちなみにオーカクチャレンジの「特別緊急企画」には、このわらしべ長者がいきなり企画倒れになったために緊急に始めた企画という意味が込められていたのである。(2011年9月号)

2015年4月9日木曜日

ハーケン(=ピトン)の話



トップ画像に使っているのはハーケンという道具です。
ハーケン(haken)はドイツ語なので、近ごろは英語でピトン(piton)と呼ばれることが増えました。
けっこうこれは登山道具のなかでも一般に知られているほうなんじゃないでしょうか。
だから山をイメージさせるにいいかな~と思ってトップに使ってみました。


でも使ったことがある人はガクッと少なくなるはず。
どういう使い方をするかというと、岩の割れ目に差し込んで確保支点とするのです。
たとえばこういうふうに。



穴にカラビナをかけて使います。
頼りなく思えるけど、ガッチリ決まれば軽自動車1台ぶら下げても大丈夫なくらいの強度があるそうです。
ただし十分な強度を出すには、岩を見る目(硬いかもろいかなど)や正しい打ち込み方(音で判断、アゴを効かすなど)が必要で、ただ打ちゃいいってもんじゃありません。
ピトン打ちはなかなか奥が深く、職人芸的な部分があるのです。


抜くときはですね、こんなふうにハンマーでぶったたきます。



さらに逆方向からぶったたきます。


これを繰り返すと、そのうちグラグラになってきて抜けるというわけです。


細引きを付けているのは、この抜くときに落っことさないようにカラビナをかけておくためのものです。
こんなふうに。



細引きは付けてない人もいるけれど、僕は落っことすのいやなので付けてました。こんな鉄片だけど2000円近くするんですよ。それに登るときは必要になるギリギリの数しか持っていかないから落とすと困るし。


ピトンにもいろいろ種類があって、写真のものはブラックダイヤモンドのナイフブレードというやつ。その名のとおりかなり薄くて、細いクラック(リスという)に打てるというもの。でも使いこなすのは難しくて、僕はあまり使ったことがありません。写真のピトンは2、3回しか使ってないんじゃないかな。


このピトンを作ったのはかのイボン・シュイナード
パタゴニアの創業者です。
彼は自分で使うピトンを作るために会社を興し、日々トンテンカンカン鉄を打ってました。
会社の名前はシュイナード・イクイップメント。
現在のクライミングギアの基本はすべてこの会社が作り上げたといってもいいほどの革新的なギアメーカーでした。
その会社が名前を変えて、現在のブラックダイヤモンドとなっているわけです。
このへんの話は、いま書店に出ているPEAKS(4月号p185)で村石太郎さんが詳しく書いています。アメリカ本社取材しているので面白いですよ。


ちなみにシュイナード・イクイップメントがブラックダイヤモンドに変わったのは1989年。
僕はシュイナード・イクイップメント製のギアを買っていた最後の世代にあたるのかもしれません。
いくつか持っているので、いつかそれについてでも書こうかな。



2015年4月1日水曜日

ブログはじめました

本日エイプリルフールからブログ始めることになりました。ここは僕の活動の集積場としようと思っているので、山登りとクライミング、そして編集・執筆にかかわることを書くことになると思います。なに食べたとかは基本的に書くつもりないんですが、やってるうちに変わるかもしれません。更新頻度も、連投したと思えばしばらくだんまり……ということもありそうな気がします。そこはやってみないとわからないということで。。。


さて、その初エントリー、なにを書けばいいのかなと考えたんですが、まずは、自分がなぜいまの仕事をしているのかを書いておくことにしました。


「なぜ山のメディアをやっているのか」。
それにはふたつ理由があります。以前に書いた文章で、ちょうどそれをうまく説明しているものがあったので、ここに引用します。


まずは、『PEAKS』2012年4月号に書いた文章。


高校を卒業するまで、僕は山登りがきらいだった。小学校の遠足で行った丹沢の大山。列をなしてひたすら退屈な歩きが続く。こんなもの、なにがおもしろいのか。高校の部活に入ったら、隣の部室が山岳部だった。彼らは砂をつめたザックを背負って、校舎の周りを黙々と歩いている。ちょっとどうかしてる。そんなふうに眺めていた。

そんな自分が、たった一回の経験で山歩きの魅力に開眼したのが、神津島なのである。それは大学探検部での初の合宿だった。僕ら新人は、1年上の先輩とチームを組まされて、山のなかに放り出される。ルールはこうだ。わたされた全島地図には、10カ所くらいにポイントが記されている。これを翌日の昼までに全部まわってきて、一番速かったチームが勝ち。持ち物は食料と寝袋のみ。テントは禁止。夜はそのへんでどうにかしろというわけだ。

スタートしてすぐ、先輩が道の途中で立ち止まった。「行くぞ」と言って、わきのヤブのなかに突入していく。ええっ!! あまりのカルチャーショックに言葉がない。道がないところを歩くなんて発想は、それまでの人生にまったくなかったものだ。

その後はすべてこの連続である。地図を見て、行けそうなルートを探し、場合によってはヤブをかき分けてショートカットする。飛び出した先は、宇宙空間のような砂漠だったり、深く切れ込むゴルジュ帯(険谷)だったり、深い森だったり。コンパクトながら変化に富んだ神津島のさまざまな表情が次々に現れ、まったく飽きることがない。夜は、森の中で居心地のよさそうなところを見つけてゴロ寝。自分たち以外にはだれもいない野外の空気がダイレクトに感じられる。こんな気持ちのいい夜は経験したことがない。僕は一発で山歩きに魅了されてしまった。

それまで自分が山登りに抱いていた感情はなんだったんだろう。以来、いまに至るも信じていることがある。神津島でこのゲームを体験すれば、絶対に、だれでも山好きになるはずだと。これをやってみておもしろくなかったという人がいたら、そっちのほうがちょっとどうかしてる。

自分で進路を決め、工夫して苦労してたどり着いた先に広がる見たこともない風景。そんな山歩きを教えてくれた神津島。僕がいまだに山雑誌を作り続けているのは、ここで経験した楽しさをまだ全然、人に伝えきれていない――と感じているからなのである。


登山というと、もっさい印象をずっと持っていたんだけど、神津島で体験した山歩きは全然違ったわけです。それは頭と手と足を総動員するエキサイティングで知的なゲームだった。これは本当に新鮮な発見でした。


もうひとつの理由は、枻出版社を退社する際に同僚にあてたメールにうまくまとまっておりました。一部要約して引用します。


僕が学生時代、世の中はとんでもないスキーブームでした。大学のクラス40人中、スキーをやっていないのは2人だけ。そのうちのひとりが僕でした。

あるときクラスの女の子から言われたひとことを今でも覚えています。

「森山くんはなんでスキーやらないの?」

うるせーな、オレの勝手だろう。じゃあ聞くけどなんでオマエは山やらないんだ。それと同じだよ。……と言いたくてしかたなかったんだけど、もちろん言えませんでした。そんなこと言ったら「は? 山? この人、頭おかしいんじゃない?」と思われること確定。そんな時代だったんです。

その後ヤマケイに入って『山と溪谷』の編集者になったんですが、その当時は中高年登山が大ブーム。記事は中高年登山者を念頭において作ることがほとんど。「ヒザ痛を克服」とか「紅葉を愛でる旅」とか「健康登山」とか。まだ20代だった僕には欲求不満バリバリだったわけです。

いつかこの世の中を変えてやる。山登りが若者にとっても普通のレジャーであり、特殊な趣味ではない時代に。できたら、サーフィンのように、山やってるというだけでなんとなくカッコよく思われるようにまでなったらもっといい。そんな世の中にしたい。

そして当時のクラスの子に「え? まだ山やってないわけ?」と言い放つ(笑)。というのが、僕が山雑誌をやり続けた原動力なんです。


なぜ自分がいまの仕事をしているのかと考えると、その理由はすべて上のふたつに収斂することに、あるとき気づきました。1)自分でルートを決める登山はおもしろいということを知らしめたい。2)若い世代にも山の魅力を知ってほしい。――このふたつ。


2はこの数年でけっこう実現できたような気がしています(バブル時代を思うとまさに隔世の感だ)。でも1は? 神津島で感じたあの感動はまだまだ伝えられていない。だから今後は、そこを伝える努力をしていきたいと考えているところです。


登山はエキサイティングで知的なゲームなのだということを。