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2025年6月23日月曜日

高尾山の遭難は国内屈指なのか←違うと思う



朝日新聞がこのような記事を出していた。高尾山の遭難が富士山や穂高より多いのはなぜか、というところに着目したものである。

しかしこれは当然の話。なにしろ高尾山の年間入山者数は300万人ほどと言われている。それに対して富士山は20万人。穂高は正確な統計がないので不明だが、長野県と岐阜県の調査によると、10万人~20万人の間くらいだと思われる。

いくら高尾山が初心者向けの山とはいっても、10倍以上の数が登っていれば、そりゃあ遭難者の数も多くなるでしょう。

それ以外の理由があるのかと思って記事を読んでみたところ、案の定なにもなかった。

「初心者向けの山として知られている高尾山でも年間131人もの遭難が起こっている」という注意喚起としての意味はあるかもしれないが、それならば書き方はもう少し違うものになるべき。現状では要らぬ誤解を生む記事になってしまっていると思う。

この記事の元ネタとなった警察庁の遭難統計レポートを見ると、高尾山、富士山、穂高連峰がピックアップされて、それぞれの遭難者数が記されているページがある。ここを見て「えっ! 高尾山の遭難者数は富士山や穂高より多いのか!!」と記者が早合点して、こういう記事を書いてしまったのではないかと想像される。



試しに、入山者数に対しての遭難者数の割合を出してみると以下のようになった。

高尾山:2万3000人に1人

富士山:2400人に1人

穂高連峰:2300人に1人


記事を書くなら、こういう数字も念頭に置きつつ、高尾山の遭難について考えるものにしないと意味ある記事にならないんじゃないか。



ちなみにふと思いついたので、ディズニーリゾート(ディズニーランド+ディズニーシー)についても調べてみた。

年間入場者数:約2756万人

年間救急出動件数:1760件*

*ディズニーリゾートがある千葉県舞浜地区の2023年度救急出動件数は1955件。その9割がディズニーリゾートだと推計されている


これを上と同様に割合にしてみると

ディズニーリゾート:1万5660人に1人


かなり大ざっぱな計算だし、山の事故とディズニーランドの救急案件を同列に比べるものでもないけれど、そんなところを差し引いたとしても、高尾山の危険性はそんなに煽るもんじゃないということは言えるのではないだろうか。



▲高尾山の入口となる清滝駅



2024年9月22日日曜日

野口健「シナ発言」についての私的解説


ツイッターでちょっとした炎上を引き起こしてタイムラインをお騒がせしてしまいました。「あなたは言葉が足りないところがある」と妻に言われ、確かにそういう部分はあるかもしれないと思ったので、発言の補足および、これを機会にポリシーについても説明しておこうと思います。



普段SNSでは政治や社会の問題に口を出すことはないのですが、それがなぜ、野口健さんの投稿に異を唱えたかというと、理由がふたつあります。


1)野口さんは世間では登山家を代表する存在と見なされているため

2)投稿内容が一線を超えていると思われたため


同じ投稿内容でも、投稿者が登山とは関係ない人だったら、私が口を出すことはありませんでした。しかし野口さんは日本で最も知名度の高い「登山家」といえます。であれば、登山界側からの異論も必要だと考えました。


野口さんは中国での児童殺害事件について、「シナの大使を国外追放すべき」と発言しています。もちろん事件は痛ましくひどいものです。しかしそれを非難するために「シナ」という言葉を使う必要は全くないでしょう。必要ないどころか、悪感情を無駄に煽って害悪ですらあります。そこが一線を超えたと判断した部分です。


今アメリカでは、SNSの暴走によって民衆の分断と過激化が進み、現実の殺人事件にまで発展する抜き差しならない事態に陥っているといいます。一連の中国の事件も、SNSの過激化による影響が考えられるという説を目にしました。こうしたところには、過剰な言葉で人の感情を過度に煽る悪質なアジテーターがいます。野口さんはそれになりたいのでしょうか?


他人の不幸に便乗して自分の思想を主張したり利得を企んだりする人を私はとりわけ軽蔑しています。最低の行為だと考えます。野口さんが使った「シナ」という言葉にはそれを感じました。だから私は「最低発言」だと表現しました。なぜ普通に「中国大使を国外追放すべき」と書かなかったのか。それでもかなり強い言葉ですが、そのレベルに留まっていれば、私は一線を超えたとまでは思わなかったはずです。


もし野口さんが、事件のあまりのひどさに激しい怒りを抱き、つい侮蔑的表現を口走ってしまったというのなら、まだ理解できる部分もありました。ところがそのすぐ後に野口さんは、ネパールでの家族旅行のほのぼのとしたツイートをしているのです。なんなんですかその軽さは。侮蔑的表現を使うに値する強い思いがあったわけではないんだなと判断するしかないではありませんか。


野口さんが普段から右寄りというか愛国的な思想を持っていることは知っています。そこは私が口を出す筋合いのものではないし、問題あることとも思いません。ただしそれは正しく主張していただきたい。侮蔑や差別になってしまっては非難されて当然だと考えます。




ちなみに私自身は明確な政治的思想を持っているわけではなく、ほぼ中道でどちらかというと左寄りというところだと思います。支持政党は特になく、選挙のたびに政党関係なくよさそうな人に入れています。最近では国民民主党の主張が自分の考えに近いところが多いかなという感じでしょうか。


何事も事案ごとに是々非々で判断するのが好きなので、私の言動には一貫性がなく、わかりにくく見えることがあるかもしれません。実際、私の過去ツイートや書いた記事では、野口さんについて擁護したり支持したりしているものもあります。それがなぜ突然批判するのか。そういうところが外部的にはわかりづらく映るかもしれないという自覚もあります。


私は誰かを批判的に語るときは、その人格と発言を意識的に区別するようにしています。これは言論では基本作法ですが、世間一般的には人格と発言をまぜこぜで語られがちです。だから私が野口さんの発言を支持すると「森山は野口派なんだな」ととらえられたり、逆に批判すると「アンチ野口なんですね」と言われたりする。いや、場合によってどっちもあるんですよ。


今回の一件で評価はだいぶ下がったものの、野口健という人物自体に私は特に悪感情を抱いてはおりません。同意できる意見や評価できる部分があることも事実で、今でも全否定するつもりはありません。しかし野口さんが9月19日9時14分に行なった発言は間違いなく最低である。ここははっきりさせておきたい。


こうした私の態度はわかりにくいものなのかもしれないけれど、そもそも世の中や人間ってそんなに一面的に判断できるものではないでしょう。簡単に決めつけてしまうから過激化するんだよ。ということも私にとっては大きなテーマなので、この機会に主張しておきたいところです。




以降はある程度余談ですが、炎上中、サヨク呼ばわりされたことは不愉快でした。右翼の野口さんを批判するのなら左翼。そういう単純なものの見方はやめてほしい。私は党派制でしかものを考えられない偏った思想が嫌いなだけ。言ってみれば「反偏」。強いて言えばそれが自分の思想ということになるのかもしれない。


たとえば、よく投げつけられた言葉に「青木理の劣等民族発言についてもコメントをどうぞ」というものがありました。これは私を左翼だと決めつけての嫌がらせなのだと思いますが、それに答えるとすると「青木理の劣等民族発言は最低である」となります。このニュースを聞いたときは、言論人として終わってるなと感じました。これは野口さんのシナ発言に匹敵する最低発言だと考えています。


ただしこれも野口さんと同じで、青木さんを全否定するつもりはありません。青木さんの過去の仕事には、今でもよく覚えているほど素晴らしいものもありました。今後、青木さんが劣等民族的な言動を繰り返して、過去の貯金を失ってしまったら全否定に至ることもあると思いますが、それまでは是々非々です。人間ってそういうものでしょう!?





2021年8月6日金曜日

章子怡はチャン・ツィイーと呼ぶのに、なぜ習近平はシュウ・キンペイと呼ぶのか



オリンピックを見ていてふと気になったこと。


というより、前から気になっていたのだけど、あらためて気になるので書いてみます。


「なんで中国人の名前を日本語読みするの?」


というテーマについてです。





スポーツクライミングで、パン・ユーフェイ(潘愚非)という中国人選手がいます。以前からクライミング競技を見てきた人は、この選手のことは「パン・ユーフェイ」で認識していました。しかし予選を見ながらふと思いました。彼が決勝に進んでテレビ中継に登場したら、実況の人は「さあ、次は中国のハン・グヒです!!」と紹介することになるんじゃないか!!?  卓球でも体操でも、オリンピック中継は中国人選手の名前を日本語読みしていますからね。


でも。


「え? ハングヒ? 中国からはパン・ユーフェイが出てるはずなんだけど、別人か? いや、でも顔は同じっぽい…」


今までパン・ユーフェイという名前に親しんでいたクライマーは、このように混乱すること間違いないでしょう。アナウンサーに「このハングヒはどういう選手なんですか?」と振られた解説者も、「え!? あっ…、パn…いや、ハン選手はですね……」と、一瞬挙動不審に陥ってしまうことが想像されます(結果的にパン選手は決勝に進めなかったのでテレビには登場しませんでしたが)。


思うんですが、そろそろ中国人の名前は日本語読みではなく、現地音読みにしたほうがいいんじゃないでしょうか。確かに昔は問題なかったと思います。毛沢東は「もう・たくとう」だし、鄧小平は「とう・しょうへい」。


しかし最近は、最初から現地音読みで日本に紹介される人が増えています。チャン・ツィイーとか芸能人がその中心ですが、マスコミに登場しないようなマイナースポーツの世界でも同じです。日本でも知られる中国人が政治家や歴史上の人にかぎらず、多岐にわたってきているので、日本語読みと現地音読みが混在する状況になってしまっているのです。


ならば現地音読みに統一したほうが、今後のことを考えるといろいろ混乱が少ないんじゃないか……と思うのです。


ずっと定着していた読み方を変えるとかえって混乱してよくない。という意見もあるかと思いますが、それは経験上、きっと問題はないと私は考えます。


というのも。


私が子どものころは、中国人だけでなく、韓国人・朝鮮人の名前も日本語読みしていました。朴正煕は「ぼく・せいき」、金日成は「きん・にっせい」でした。「パク・チョンヒ」とか「キム・イルソン」と呼ぶ人は一般にはいなかったですね。『あしたのジョー』に出てくる金竜飛だって「きん・りゅうひ」でした。


それが変わったのは1980年代と記憶しています。当時の韓国大統領は「ぜん・とかん」(全斗煥)でしたが、任期後半か退任後くらいから「チョン・ドゥファン」と呼ばれる機会が増えていきました。最初は「ん?」と思ったものの、すぐにチョン・ドゥファンに慣れてしまいました。一方、北朝鮮で金正日が次期国家主席として報道され始めたのは92~93年ごろだと思いますが、彼は最初から「キム・ジョンイル」でした。「きん・せいにち」と呼ぶ人は多くないんじゃないでしょうか。


この変更の理由には、韓国からの要請があったらしいのですが、理由はどうあれ、10年もたたずに、韓国人・朝鮮人は現地音読みが日本で定着したということです。それにまつわる混乱も記憶がありません。


このことを思い返せば、中国人だって意外と大した混乱なく、現地音読みに切り替わってしまうんじゃないかと思うのです。むしろ変わらず日本語読みを続けるほうが、上に書いたパン・ユーフェイのような混乱が増えていくように思うのですが、どうなんでしょうか?? 



*冒頭の画像は大陸中国ではなく、台湾です。中国行ったことないので


2021年1月27日水曜日

K2冬期初登頂と事実確認について

 1月16日、K2が冬期初登頂されました。そこでこんな記事を書きました。


"4人に1人が死ぬ山"K2の冬季初登頂 「ギャラも出ないのに山に登る意味はない」ネパール人が本気になった(森山憲一)


登頂のニュースを聞いてから、ネットニュースやSNSで流れてくる情報を見ながらぼんやりしていましたが、Number編集部から「書きませんか」と連絡をいただいてスイッチが入り、頭に浮かんだK2登頂経験者4人にすぐさまコンタクトして、30時間後くらいに書き上げました。


登頂経験者に聞いた話や花谷泰広さんのYouTubeがかなり参考になり、書くべきことが明確にイメージできたので、自分でもなかなかうまく書けたかなと思っております。


が、記事公開直後にこのような指摘がありました。



これを見つけたのは、山でテント泊していた真夜中。小便で目が覚めたときにスマホを見て発見し、「はっ!」と青くなりました。幸い電波が十分に通じていたのでネットリサーチして検証。結果、指摘はいずれも正しいことを把握しました。


そこでどう対応するべきか考え、訂正を入れるべきと結論。文面を考え、編集部の担当者にメールで連絡。全部終了したのは午前3時半。目が冴えて眠れなくなってしまったので、そのまま朝を迎えました。


その日中に該当の箇所は書き換えられ、現在は修正後の文章になっています。以下、どのようなミスがあり、どのように修正されたか解説します。



「死亡率」は入山した人の何割が死んだかを示す数字ではない


まず元の文章。記事では冒頭から3段落目です。


 一方で死亡率は高く、これまでの統計によれば、入山者の4人に1人が死んでいる。ほとんどの8000m峰で9割以上が生還しているのに対して、K2での死亡率は際だって高い。「最難の8000m峰」といわれるゆえんは数字でも裏付けられている。


これを以下のように変えました。


 一方で死亡率(死亡者数/登頂者数)は高く、これまでの統計によれば23%ほどにものぼる。ほかの多くの8000m峰では10%以下であるのに対して、K2での死亡率は際だって高い。「最難の8000m峰」といわれるゆえんは数字でも裏付けられている。


「死亡率」というのは英語で death rate や fatality rate と呼ばれるもの。8000m峰の危険度や難易度を比較するときによく使われる数字です。K2やアンナプルナ、ナンガパルバットが突出して高く、その数値は過去に何度も見た記憶がありました。原稿を書くときに具体的な数字を竹内洋岳さんのサイトで確認したところ、K2は23%(竹内さんのサイトでは「生存率」として77.1%と表記)。過去に見たことのある数字と大差なかったので、「4人に1人」という表現を使いました。


が、この死亡率の正体は、死亡者数を登頂者数で割ったもの。そこには、途中撤退した人の数はカウントされておりません。したがって「入山者の4人に1人」という表現は明らかに間違いなわけです。だって、途中撤退した人はおそらく登頂者より多いのだから。「いくらK2といえども、入山者の4人に1人も死んでるわけないだろ」と、書くときに気がつかなければいけなかった。


そこで本文は以上のように書き換えてもらったわけですが、記事タイトルには "4人に1人" が残っています。厳密にはここも変える必要があるのですが、タイトル付けは編集部権限であるし、タイトルを変更するのは難しいと思うので、そこは編集部におまかせしました。幸いタイトルには「入山者の」という言葉は入っていなかったし、象徴的な表現として、ぎりぎり許されるか……と納得していますが、本来はアウトでしょうね。


あと、じつはもうひとつ忸怩たる部分があります。23%という死亡率は2018年までのもの。翌2019年はK2登頂豊作の年で、30人ほどが登頂に成功したようです。一方で死亡者はゼロと思われます。つまり、最新の死亡率は20%ほどになるはずなのです(ネパールチームの今回の初登頂でさらに下がったはず)。ただし2019年の正確なデータが見つけられず、そこはスルーしてしまいました。ここも厳密にはアウト案件ですね……。



ミンマ・シェルパは何人もいる


ふたつめのミス。


記事3ページ目で、ミンマ・ギャルジェ・シェルパというクライマーを紹介しています。現在は修正されていますが、もともとの文章ではこのミンマ・ギャルジェが8000m峰を14山全部登っていると書いていました。


[修正前]

今回のもうひとりのリーダー、ミンマ・ギャルジェ・シェルパも、8000m峰14山をすべて登っており

[修正後]

今回のもうひとりのリーダー、ミンマ・ギャルジェ・シェルパも、8000m峰を13山登っており


なぜこういうミスが起こったかというと、今回の登頂メンバーのなかに「ミンマ・ギャブ・シェルパ」という人物がいて、14山を全部登ったのはギャブのほうだったのです。まさかそんなことがあるとは思いもよらず、ギャルジェとギャブを完全に混同していました。


このへんの情報ソースはほとんど英語。アルファベットだと Mingma Gyalje Sherpa と Mingma Gyabu Sherpa。しかもギャルジェは「Mingma G」と名乗ったり表記していたりするケースが多く、ギャブの存在を知らなかった私は同一人物視してしまっていました。


ちなみに今回のチームにはミンマ・テンジ・シェルパという、「第三のミンマ・シェルパ」もいます。シェルパの名前ってバリエーションが少なく、同姓同名とか同じような名前の人が多いのです。ライター泣かせですね。



ところで指摘をしてくれた「ひゅ~む」さんという人は、山写さん騒動のときにも、ヒマラヤンデータベースを駆使して完璧な証明をしていた人物。世の中にはこういう情報通がいるので、ネットで記事を出すときは気が抜けません。



記事中でふれた花谷泰広さんの動画はこちら。ヒマラヤ経験者でないと語れない話で、しかもとてもわかりやすいです。




2020年11月21日土曜日

山梨県の統計が語る登山届の現在

 

遭難者の登山届提出の割合が少ないのは「お忍び」登山が原因、では無さそう - 豊後ピートのブログ


山梨県でこの夏、登山届の提出割合が低かったのは、コロナ禍中で後ろめたさがあったからでは……と報じる読売新聞の記事に対して、「それは違うんじゃないか」と分析した記事。


富士山や南アルプスに登れなかったから、登山者がほかの低山に向かい、その結果、登山届の割合が低くなったのではないかというのが、ブログ記事の結論。私もブログ主の結論を支持します。


ところでこの記事で初めて知ったんですが、山梨県では、登山届がどのように提出されているのか統計を公表しています。




2017年以降の数字しかわかりませんが、これを見ていると、いろいろ興味深い事実が浮かび上がってきました。


・今年3月まではコロナの影響はほとんどなし
・4月から登山者が急激に減り、ピークの5月は例年の10分の1以下
・8月から登山者数はかなり復活してきているけれど、それでも例年の5~6割
・登山届提出の中心手段はコンパス(4割)と登山口ポスト(5割)
・冬はコンパスから提出の割合が顕著に増える
・登山届提出数は増加傾向にあるようだけど、データが少ないのではっきりとはわからない
・郵便、ファクスで登山届を出す人はまだそこそこいる


これは山梨県だけの統計なので、全国的にいえる話ではないかもしれないけど、コロナの影響なんかはかなり体感に近い感じがする。あと、コンパス利用、思ったより多いんだなというのが個人的感想。


2020年4月28日火曜日

感情に訴えかける言葉は難しい

【この記事は玉城デニー知事を批判する意図はまったくないことを先にお断りしておきます】


「収束後に笑顔で沖縄を訪れてください」玉城知事、GW訪問自粛を再度呼び掛け - 毎日新聞


このニュースをテレビで見ていた妻が「笑顔で訪れてくださいはおかしくない?」と言いました。私はとくに気にしないで見ていたのですが、言われてみればそのとおりだ。


これは、コロナウイルス感染拡大防止のため、ゴールデンウイークに沖縄に来ないでほしいと玉城知事が訴えるコメントを報じたものなのですが、その前の文章を含めるとこう言っています。


”どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することを控えていただき、収束後には是非、笑顔で沖縄を訪れてください。”


妻が言うには、「笑顔で訪れてください」ではなく、「笑顔でお迎えしたい」というべきだと。沖縄に来ないでほしいということに重ねて、笑顔で訪れてほしいとまで要望するのはやや傲慢に聞こえてしまうというのです。



「どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することを控えていただき、収束後には是非、笑顔で沖縄を訪れてください。」

 ↓

「どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することも控えていただけないでしょうか。収束後には必ず、笑顔でお迎えすることをお約束いたします。」



確かに後者のほうが爽やかで好感度が高く聞こえる。


まあ、私は気づかなかったくらいで微妙な違いではあるのですが、気づく人は気づくし、聞く人に与えるニュアンスの違いがあることは確か。


日常の会話ではどちらでもいいような違いですが、要望やお詫び、センシティブなテーマのときなどには、こういう微妙な違いに気を配れるかどうかが、問題の解決を左右することもあります。私はお詫び文を書くときには、助詞は「が」がいいのか「を」がいいのかレベルで吟味することもあります。それによって人に与える印象が変わってしまうこともあるからです。


たかが言葉ですが、されど言葉。自分も言葉を扱う者として気をつけたいところです。





*テレビのニュースでは、上記のコメントしか放映していませんでしたが、実際は玉城知事はそれに続いて「その時は最大限の『うとぅいむち』、おもてなしで皆様をお迎えさせていただきます」と言っていたそうです。玉城知事はおそらくこのへんのニュアンスの違いをある程度意識していたであろうことと、報道の切り取りの危うさを感じました。


2020年2月27日木曜日

経歴詐称記事のあとがき的なもの


「山写」なる人物のこと


こういう記事を書きました。


登山ライターとしてこういうことに関わるのは、気が進むものではありません。そもそも人の批判をするのは気が重い行為であるし、やたら時間と神経を使うわりにいいことがあまりないからです。ネット上でへんな誹謗中傷を書かれたりもします。


以前、栗城史多さんについて私が書いた記事がかなり注目されたことがありました。以来、登山の正義を追求する”山岳警察“としての役割を期待されているような気がするのですが、積極的にやりたいとは思いません。というのも、それをしたことろで、私には実利がないからです。


私が仕事をしている登山・クライミングメディアというのは、趣味レジャーのものであって、基本的には読者のためになるポジティブな情報を提供することがテーマであります。そこでは闇を暴くようなネガティブな記事はあまり好まれません。私が文春の記者だったら違うのでしょうが、登山界では、微妙な案件にすぐ首を突っ込む危ないライターとして避けられてしまうおそれがあります。


それでもこういうことをやってしまうのは、第一に、本当のことを知りたいからです。正義ではありません。求めているのは真実です。私は真実を知りたいという欲求が人より強いのだと思います。デマや嘘に踊らされることがものすごく苦痛なのです。自分が踊らされるのもいやだし、踊らされている人の姿を見るのもいやだ。


東日本大震災で原発事故があったときや、STAP細胞事件があったときなどは(最近ではコロナウイルスも)、自分には判断不能な情報が飛び交い、何が真実なのかまったくわからない状況が続いて、個人的にはとてもストレスでした。本当のことが知りたい!


首を突っ込む第二の理由は、本当のことを伝えるのが専門家の仕事だろうと思っているからです。原発事故のときもSTAP細胞のときも、おそらく真実はここだとわかっていた専門家はいたはずだと思います。でも伝え方が下手だったり、内部者ならではのしがらみがあったり、さらには陰謀論が好きな人が事態を混乱させたりして、そういう人の声が表に強く出てこなかったのでないか。


山写さんの件でいえば、私にはすぐわかってしまったような嘘でした。でも、こんな稚拙な(と私には思える)嘘でも、カンチェンジュンガとマナスルの違いを知らず、ヒマラヤン・データベースなど存在すら知らない人にはわからないのだ。ということを、5ちゃんねるやツイッターで交わされている議論を見ていて強く感じました。これは栗城さんの件のときに感じた感覚とまったく同じものでした。


そこでは、意図的な嘘や間違った思い込みでも、伝え方が巧みであれば世論は容易に流されてしまう。ならば、だれの目にも動かしようがない真実を、事情をよく知っている専門家がガツンと立ててやらなければいけない。それがこの世界でメシを食っている人間の使命であろう。


カッコよくいえば、そういうことが、こういうことをやってしまう動機です。所詮、自己満足ではあります。でも、だれかの役に立っていることを願っているし信じてもいます。


2019年11月3日日曜日

オリンピックのスポーツクライミングに大問題勃発

クライミング協会、代表選考巡りCASに提訴(写真=共同)


東京オリンピックのスポーツクライミング競技が大混乱に陥っています。


オリンピック代表選手の決定方法をめぐって、日本の協会(JMSCA/日本山岳・スポーツクライミング協会)と、国際スポーツクライミング連盟(IFSC)が食い違いを起こし、スポーツ仲裁裁判所という機関での法廷闘争に発展しようとしているのです。


現在、オリンピック代表入りを目指してがんばっている選手が何人もいますが、この騒動の行方次第では代表への道が絶たれてしまう選手もいるのだから、これは大きな問題です。


東京オリンピックの代表決定方法はけっこう複雑で、私も正確に把握しないまま、これまでJMSCAの発表を鵜呑みにしてきました。が、この機会にちょっと整理してみました。


まずは原典にあたる必要があります。以下は、IFSCが定めた、オリンピック選手選考システムの規約です。ここに書いてあることを前提にしながら、話を進めていこうと思います。


QUALIFICATION SYSTEM – GAMES OF THE XXXII OLYMPIAD – TOKYO 2020

第32回オリンピック競技大会(2020/東京)選手選考システム(上記の和訳)





東京オリンピックには何人出られるのか

・男女各20人が出場可能
・20人のうち1人は開催国枠
・20人のうち1人は三者委員会招待枠
・ひとつの国から最大2人(男女合わせて最大4人)出場できる


選手数規定の要点は上記のようなところです。


日本は開催国枠として男1人+女1人は出場できることがすでに確定しておりますが、これは各国ごとの上限人数に含まれるので、日本だけ5人以上出場できるということにはなりません。他国と同様、最大で男2人+女2人までです。



「三者委員会招待」というのは詳細が書かれていないのでわかりません。選考に漏れた選手のなかから、最終的にIFSC権限で出場させたい人を1人選ぶということなのかな?




どうやって出場選手を選ぶのか

選手は以下の大会のどれかに出場することが条件になっています。


1)世界選手権(2019年8月/すでに終了)

2)オリンピック予選大会(2019年11月28日~12月1日/フランス・トゥールーズ)

3)大陸別選手権(アフリカ・アジア・ヨーロッパ・パンアメリカン・オセアニアの計5エリアで、2020年2~5月に開催される)


各段階において、以下のように選考方法が定められています(男女とも同じ)。


1)世界選手権……上位7人までに入るとオリンピック出場権を得られる。

2)オリンピック予選大会……世界選手権でオリンピック出場権を得た選手をのぞいたワールドカップランキング上位20人がこの予選大会に出場できる。ここで上位6人に入るとオリンピック出場権を得られる。

3)大陸別選手権……優勝者がオリンピック出場権を得られる。優勝者が1か2ですでに出場権を得ている選手だった場合は、次点選手を繰り上げ。


7+6+5(大陸別選手権優勝者は5人いるので)=計18人
これに開催国枠1人と三者委員会招待枠1人を加えて、計20人が、オリンピック出場選手となります。


注意点としては、各国ごとの上限人数。たとえば世界選手権で7位以内に入っても、同じ国の選手が上位に2人いたらオリンピック出場権は得られません。実際、世界選手権で日本は男子・女子ともにそういう状況になりました。




JMSCAとIFSCの言い分

8月の世界選手権の結果は以下のとおりです。


男子名前
1位楢﨑智亜日本
2位ヤコブ・シューベルトオーストリア
3位リシャット・カイブリンカザフスタン
4位原田 海日本
5位楢﨑明智日本
6位藤井 快日本
7位ミカエル・マエムフランス
8位アレクサンダー・メゴスドイツ
9位ルドビコ・フォッサリイタリア
10位ショーン・マッコールカナダ

女子名前
1位ヤーニャ・ガンブレットスロベニア
2位野口啓代日本
3位ショウナ・コクシーイギリス
4位アレクサンドラ・ミロスラフポーランド
5位野中生萌日本
6位森 秋彩日本
7位伊藤ふたば日本
8位ペトラ・クリングラースイス
9位ブルック・ラブトゥアメリカ
10位ジェシカ・ピルツオーストリア


・上位7人まで
・ただし1国につき2人まで
という規約を文面どおりに当てはめると、この世界選手権でオリンピック出場権を得た選手は以下のようになります。


男子名前出場権
1位楢﨑智亜日本
2位ヤコブ・シューベルトオーストリア
3位リシャット・カイブリンカザフスタン
4位原田 海日本
5位楢﨑明智日本
6位藤井 快日本
7位ミカエル・マエムフランス
8位アレクサンダー・メゴスドイツ
9位ルドビコ・フォッサリイタリア
10位ショーン・マッコールカナダ


女子名前出場権
1位ヤーニャ・ガンブレットスロベニア
2位野口啓代日本
3位ショウナ・コクシーイギリス
4位アレクサンドラ・ミロスラフポーランド
5位野中生萌日本
6位森 秋彩日本
7位伊藤ふたば日本
8位ペトラ・クリングラースイス
9位ブルック・ラブトゥアメリカ
10位ジェシカ・ピルツオーストリア


これが、現在、IFSCが主張している結果です。日本人は男女ともにすでに上限の2人が埋まったので、これで最終決定といいます(JMSCAによれば「新解釈」と呼ばれるもの)。


それに対してJMSCAが主張しているのは、日本人で出場権を得たのは、男子は楢﨑智亜、女子は野口啓代のみで、他はまだ未定だとするもの。


これだけ聞くと、IFSCの言うことのほうに理があるように思えます。


ただし、JMSCAが主張する決定方法は、すでに今年5月に発表されており、それはIFSCも理解していたはず。JMSCAの方法は本来の規約の拡大解釈と読める部分もあるのですが、JMSCAによれば、IFSCと何度も協議を重ねて問題がないことを確認したうえで作成したものといいます。


このJMSCAの決定方法をIFSCが認めていた証拠もあります。




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これは、男子10位のショーン・マッコールと、女子10位のジェシカ・ピルツが、世界選手権直後に更新したインスタグラム。「オリンピック決まったよ」と報告しています。


IFSCが主張するとおりなら、このふたりはオリンピックの出場権は獲得できていないはず。


つまり、少なくとも世界選手権直後の段階では、原田海と野中生萌の出場権は決定しておらず、JMSCAの主張のとおりに物事は進んでいたのです。




ねじれはどこにあるのか


いったいなぜこんなことになっているのか。


関係者に事情を聞いたわけではないので、ここから先は推論になりますが、問題の核心は「事前協議」の内容にあるのではないでしょうか。


JMSCAは、代表決定方法についてIFSCと協議を重ねて作成したと言っておりますが、そこでどんな話を、だれと、どのような形で行なったのか。そこに今回の問題のカギがあるように思えます。


ひとつ考えられるのは、口頭でのやりとりしかしていなかったのではないかということ。書面等で明確に残していなかったため、IFSCの態度にブレが生じてしまっているのではないか。あるいは、JMSCA側になんらかの誤解などがあった可能性もあります。


【2019/11/3追記】
上記の可能性はほぼないということが判明しました。


ともあれ、こうなった以上、行く末は、スポーツ仲裁裁判所の調停を見守るしかなさそうです。






それにしても、IFSCも、原田・野中が代表決定とあくまで主張するなら、ぬか喜びさせてしまったショーン・マッコールとジェシカ・ピルツへの対応はどうするんでしょうね。ふたりはすでに来年のオリンピックに照準を合わせていて、今月末のオリンピック予選大会の準備などしていないでしょうし。


今後の大会で結果を出してオリンピックに出たいとがんばっていた日本の他の選手も本当に気の毒です。じつはつい数日前、その対象選手のひとりにインタビューしたばかりで、オリンピックへの抱負をいろいろ聞いたところでした。その人がいま何を感じているかと考えると、私自身も気が重いです。


記者会見でJMSCAは「大人の事情で混乱させられ、出られるか出られないかわからない状況になった。選手には申し訳ない」とコメントしたそうです。個人的にこの言葉には、JMSCAの誠意を感じました。選手の情熱が空振りで終わることがないように、解決に全力を尽くしてほしいと願うばかりです。




2019年4月14日日曜日

「遭難救助は税金のムダ」なんかじゃないと思うのだが





白馬山頂から滑り下りたところ、カリカリのアイスバーンでヒヤッとしたという動画。これのコメント欄が燃えていました。登山のリスクとそれに対する世間の認識について、いろいろ考えさせられるやりとりなので、興味のある人は見てみてください。


発端はこういうコメント。

ゲレンデじゃない場所で滑る事の危険性や無謀さの認識はあるのでしょうか。しかも誰も足を踏み入れてないような急斜面を横滑りで下るって、雪崩でも引き起こしたいのかって思ってしまう。雪崩を引き起こしたり、遭難した場合、多方面に迷惑が掛かるってのに。勝手に失踪するならともかく、雪山の事故で山岳救助隊なんか出動しようもんなら、どれだけの血税が無駄に使われることか。

自分はここにすごく引っかかりました。山岳遭難が起こったときなどに、よくこのように「税金が無駄になる」という趣旨の批判がなされるのですが、これにはいつも激しく違和感を抱きます。


だって人の命が危険にさらされているわけですよ。そこに税金を使わずしていったいどこに使うのか。「登山は遊びで行っているのに」という意識からこういう言葉が発せられると思うのですが、ならば、海水浴で溺れた人も休日のドライブで事故を起こした人も助ける価値がないのか。そんなことないでしょう。どれも等しく助けなくてはいけないし、それこそ税金の使い方としては、人命救助はもっとも優先度が高いものであるはず。


「危険なことを好き好んでやっているのだから自業自得」という意識も、批判の背景にはあるのでしょう。が、登山の死亡率って、0.005%くらいですよ(600万人登山人口がいて、年間の死亡者数が300人くらいなので)。新聞が山岳遭難を大きく取り上げてきた歴史があるので、登山って実態以上に危険なものというイメージがついてしまっているように感じます。


おそらくですけれど、「税金の無駄使い」と批判する人は、登山をシリア潜入などと同じようなことと考えているのではないでしょうか。わざわざ危険を冒して、なんの意味があるのかわからないことをやっている人たちという認識。それを人的・金銭的コストをかけてまで助ける必要があるのかと。そう考えると私も批判を理解できるような気がするのです。イラクやシリアでの捕虜事件のニュースを聞いたとき、私のなかにも批判の目で見たくなる感情が少しはあったからです。


でもそれは、私はイラクやシリアのことをよく知らないし、そこに向かう人のことも知らないからなんですよね。「北斗の拳みたいな場所にのこのこ出かける間抜けなやつ」という程度の雑なイメージしか描けないから、雑な感情しか抱けないわけです。


そうであるのならば、税金がどうのという大上段な議論をしてはいけないと思うんです。「気に食わない」程度の雑な言い方ならかまわないと思いますよ。けれど、雑である状況認識に、税金という精緻な議論が必要なものをからませると、そこにはズルさを感じてしまう。私が「税金の無駄使い」論が嫌いなのはそこに大きな理由がありそうだ。動画の一連のコメントを読んでいて、そんなことを思いました。



2018年5月28日月曜日

「賛否両論」の裏側にあったもの

5月21日、栗城史多さんがエベレストで亡くなりました。当初は、死因や遺体発見の場所など、情報が錯綜していましたが、標高7400mのキャンプ地からの下降途中、滑落しての死亡ということで確定したようです。夜中に下降していたことについて疑問もありますが、状況によってそういうこともあるのかもしれない。そこは私にはわかりません。


事故の第一報以降、私が過去に書いたブログ記事(「栗城史多という不思議」「栗城史多という不思議2」)もアクセスが爆発。なんと1日で90万PVに達しました。あらためて、栗城史多という登山家の知名度の高さ、注目度の高さを知った気分です。


栗城さんについては、昨年の2回の記事で言うべきことは書き尽くしたし、事故のことについてはまだ詳細がわからなかったので、とくに何かを書くつもりはありませんでした。が、1本だけ記事を書きました。


"賛否両論の登山家"栗城史多さんとは何者だったのか――2018上半期BEST5 | 文春オンライン


書いた理由は、竹田直弘さんという編集者からの依頼だったからです。記事中で、昨年、栗城さんに会ったときのことを書いていますが、このとき、この竹田さんも横にいました。竹田さんは、昨年、私のブログを読んで連絡をくれ、栗城さんと会うセッティングをしてくれたのです。事前に栗城さんに記事化を断られていたので、竹田さんにはもはや仕事上のメリットは何もなかったのですが、面倒な日程調整をしてくれたうえに、同席までしてくれました(そういえば、その日は、渦中にあったタレントの松居一代が文藝春秋本社に突撃した日で、目の前で見てびっくりした覚えがあります)。


竹田さんとは以前、Number編集部時代に一度仕事をしたことがあり、そのときの誠実な仕事ぶりに好印象をもっていたし、栗城さんの件で骨を折ってくれた恩もあります。編集者としても、人間としても、信頼できる人という思いがあったので、その竹田さんからの話なら変な記事にはならないだろう。ということで、思い切って記事を書いたというわけです(同様の依頼はほかにもいくつかありましたが、いちばん最初に連絡が来たハフポストの電話取材以外は全部断りました。こんなデリケートな仕事、知らない人相手にできません)。


この記事もずいぶん読まれているようで、ネット上に感想の声があふれています。さらに、栗城さん本人を知る人から直接・間接に話を聞くこともありました。この一週間、それらを見聞きするなかで、私の中での栗城さんのとらえ方に微妙に変化が生まれています。登山家としての評価はなにも変わりません。変わったのは人物についてで、それはどちらかというと同情的・共感的な方向にです。


具体的にどういうことかというのはさておき、そんなことを考えているうちに、ひとつ思うことが浮かんできました。とても重要なことです。以下は、そのことについて書いてみます。


昨年のブログで、私は野球になぞらえて、栗城さんの挑戦の無謀ぶりを説明しました。しかし今では、格闘技にたとえたほうが、より適切だったと感じています。「ボクシングの4回戦ボーイがマイク・タイソンに挑戦するようなものだった」という意味のネットの書き込みを目にしました。まさに言い得て妙。命の危険があるという点で、登山は野球より格闘技に近いものがあるからです。


高額なリングサイドチケットを持っている人は、試合内容にはあまり関心がなく、「ここにいるオレ」を買っているにすぎないという構図も、ボクシングに似ていると感じます。事故後、栗城さんの支援者や知人がSNSで追悼を表明していました。すべてではありませんが、その一部に、私は控えめに言って吐き気を催しました。なんてグロテスクな光景なんだろう。


……つい熱くなってしまった。話を戻そう。


当然のことながら、栗城さんはタイソンに滅多打ちにされて、最後はリング上で命まで落としてしまう結果になったわけですが、これが本当のボクシングだったら、こんなことはあり得なかったはずです。そんなマッチメイク、成立するわけがなく、成立するとしたらテレビのお遊び企画以外にないということが、だれの目にも明らかだからです。


しかし、エベレストではこれが成立してしまった。そこには、不可能を可能に見せる、栗城さんの天才的なショーアップ能力の存在が大きかったと思うのですが、それだけではない。世の人々が、マイク・タイソン(=エベレスト北壁や南西壁の無酸素単独登頂)が何者かを知らず、栗城さんの実力レベル(4回戦なのか日本チャンピオンなのか世界ランカーなのか)もよくわかっていなかった。天才的なショーアップ×観客の無知。このかけ算によって、悲劇的な興行が成立してしまったと思われるのです。


そう、これは悲劇です。命の危険がある無謀な挑戦からおりられなくなったボクサーと、無謀ぶりを理解せずに無邪気に応援している観客という構図。間違ってもこれを、「果敢な挑戦の末に夢破れた」という美談にしてはいけない。


亡くなった故人やご遺族には酷な言い方になってしまいますが、事実としてそのようにしか見えないし、栗城さんと近しかった人に聞いた話を総合すると、これがことの真相であるとしか思えないのです。「好きな山で死ぬことができて本望だったのでは」という陳腐な言葉で片付けても絶対にいけない。


ご遺族や友人など、近しい人にとっては、余計なことは考えず、まずもって故人を偲ぶべき時期でありますが、私を含めて世間一般がやるべきこと考えるべきことは、違うことであるはず。「何が問題だったのか」ということを考え、二度とこういう悲劇が起こらないようにすることが第一であると思うのです。


同時に思うのは、この明らかな悲劇を見て見ぬ振りをしてきた登山界の責任についてです。世間の人々がタイソンの強さも栗城さんのレベルもわからなかったのは、登山界やメディアが伝えてこなかったからです。


登山関係者なら、友人などから「栗城さんて、すごい登山家なの?」と聞かれた経験が一度ならずあるかと思います。しかしこれに答えるのはじつは難しいことです。エベレスト北壁や南西壁の難しさを、山を知らない人にもわかるように説明しなくてはならないし、同時に、栗城さんの実力レベルもわかりやすく説明できなくてはならない。よほど明晰な分析・表現能力をもっている人でもないかぎり、これは困難な話で、結果、面倒になって質問にきちんと答えてこなかった人がほとんどではないかと思われます。もちろん私もそのひとりで、「まあ……すごいというのとは違うんだけどね……」みたいな、曖昧な返事をしてずっと流してきました。


なぜ、レベルを説明するのがそんなに難しいのかと思う人もいるかもしれません。ここが、野球やボクシングなどのスポーツと登山の違うところであって、登山には、明確なランキングのようなものが存在しません。山の難しさは、季節やコンディション次第で変わったりもします。そこに「無酸素」とか「単独」などの条件が加わることによっても、困難度は大きく変動します。第一、登山は競技ではないので、評価基準は一本線ではなく、いくつもあります。考え合わせるべきパラメーターが多岐にわたるので、評価は難しく、それは「世界でいちばんすばらしいギタリストはだれか」を決めるのが困難であることに似ています。実際、先鋭登山の世界的権威とされる「ピオレドール」という賞が、選考基準の食い違いにより内紛が起こり、一時期休止されていたこともあります。


文春オンラインの記事にも書きましたが、登山雑誌は、栗城さんをほぼ黙殺してきました。理由はいろいろありますが、ここに向き合うのが面倒だったからです。へんに持ち上げても、専門誌としての見識を疑われるし、逆に、挑戦を批判的に取り上げるなら、根拠を整理して理論武装しなくてはいけない。どちらも面倒くさい道なので、ならば、ふれないでおくのが無難だろう……ということだったのです。


ところで、「登山雑誌」と他人事のように書いていますが、この20年間、登山雑誌中心に仕事をしてきた私にとっては、これはまさに自分事でもあります。


面倒くさいから、栗城さんにはかかわらないようにしてきたし、面倒くさいから、「登山家の評価」というようなテーマからは、言葉を濁して逃げてきました。ヒマラヤなどの先鋭登山について書くときは、あまり専門的なことを言っても、読者はわからないし興味もないだろうと勝手に忖度して、かなり端折った説明しかしてきませんでした。


こうした態度が、世間の無知を促進した一面はきっとあるというのが、いま感じている反省です。もちろん、社会的有名人になった栗城さんの前には、登山雑誌が何かをやったところで、大した意味はなかったかもしれないし、いずれにしろ結果は変わらなかった可能性も大きい。それでも、一定の歯止めにはなっただろうと思うのです。


私の知る限り、海外のメディアは、それなりにおかしなところはありつつも、4回戦ボーイが世界チャンピオンより有名になってしまうような極端なことはありません。大々的に取り上げられる人は、それなりに実のある人である場合がほとんどです。かなり専門的なわかりにくいことをやっている人であってもです。メディアだけでなく、社会全体の冒険に対する理解度の高さが影響しているのだとは思いますが。


日本はその点、真実よりも、わかりやすさや人気を優先させてしまうところがあります。多くの場合、それは現実的な選択であり、それによって問題が起こることはあまりないのですが、歪んだものの見方であることは変わりない。その歪みが、悲劇につながることもある。歪みはやはり歪みなのだ。そのことに気づけたことが、今回の事故から得ることができた、私にとっての教訓です。

2017年11月19日日曜日

富士山にヘルメットって必要なんだろうか


くらしナビ・気象・防災:富士登山、頭は守れるか - 毎日新聞


こういう記事を読んだ。要するに、富士山でヘルメット普及活動が進んでいるが、登山者の利用はかんばしくないという内容。


ここ数年、富士山でやけにヘルメットがアツく語られているけれど、個人的には疑問に感じています。富士山にヘルメットって必要なんだろうか?と。


そりゃもちろん、かぶることによって安全性が高まることは間違いないけれど、それは100あるリスクを98に減らすようなものであって、その一方で犠牲にするものが大きすぎるように思うのです。もしかしたら、ケガのリスクは2減っても、熱中症になるリスクが10ぐらい増えて、トータルではかえってリスクを抱え込む結果になるんじゃないかと思えるほど、得られるメリットは薄い。


富士山でヘルメットの着用が声高に叫ばれるようになったのは、2014年の御嶽山の噴火事故以後のこと。確かに御嶽の噴火のときは、ヘルメットの有無が生死を分けることもあったようです。ただ、ああいう噴火事故は非常にレアなケースであって、それへの備えとして新たに道具を用意するというのは現実的な選択とは思えません(富士山の噴火可能性が有意に高まっているという事実があるなら、話はまったく別ですが)


落石や滑落に備えてかぶりましょうというのならまだわかるけれど、いったい富士山で、頭部に致命的なダメージを負った事故ってどれくらいあるんでしょうか。ここの検証は、少なくとも私は見たことがありません。上の記事にも「山梨県警によると、今年7~8月の遭難者のうち約6割が転落や滑落、転倒による事故だった」と思わせぶりな記述があるだけで、それとヘルメットとの関係性はぼんやりとスルーされています。


自分の経験からすると、富士山でヘルメットっていらないと思うし、仮に必要なんだとしたら、日本の多くの山でも同じようにヘルメットが必要になってしまう。


記事では、登山者がヘルメットをかぶらない理由として、「夏場で暑いからか、ファッション性がないからか、他にかぶっている人が少ないからか」という、地元職員のコメントを紹介していますが、全部そのとおりだと思います。


もうひとつ重要なのは値段。登山用のヘルメットは1万円前後もして高いのです。近ごろは軽量化と通気性アップとデザイン性アップが進んで、かぶっていてもストレスを感じないものが増えましたが、そういうものこそ高い。ホームセンターで売っている安全帽(いわゆるドカヘル)なら1000円くらいで買えるものもありますが、それはかぶり心地悪いし、重いし、蒸れるし、なにより、あまりにもカッコ悪い(安全帽屋さんすみません)。


要するに、富士山でヘルメットをかぶるという行為は、コストパフォーマンスが低すぎると思うわけです。安全性をコストパフォーマンスで語るのはいいことではないけれど、低いリスクに備えるためにほかのすべてを犠牲にしてもいいというものでもないでしょう。そのへんの現実を無視した施策は、あまりいい結果を生まないと思うんですよね。

【補足】
ここでいう「コスト」とはお金のことばかりではないです。「ヘルメットを導入することで負わなければならないマイナス要因すべて」です。装備の重量増もそうだし、快適性低下、ファッション性低下もすべて含んでいます。




ヘルメットについてちょろっと調べていたら、こんなものを発見しました。この値段ならギリ許容範囲(しかもサングラス付き!)。クライミングで使わないなら、自転車用ヘルメットは通気性が高くて軽くて、夏山登山用ヘルメットとしてはじつはかなり快適なのです。ドカヘルみたいなものかぶるよりは断然おすすめです。





2017年6月9日金曜日

栗城史多という不思議2

先日書いた栗城史多さんの記事、このブログを始めて以来最大のアクセスを集めました。ある程度拡散するかなとは思っていたけど、予想以上。ツイッターやフェイスブックでもたくさんシェアされて、その後会ったひと何人からも「読みましたよ」と感想を聞かされました。なんと栗城さん本人からもフェイスブックの友達申請が来て、ひえーと思いつつもOKを押しておきました。


となるとやっぱり気になるので、栗城さんがらみの情報をいろいろ見てみました。これまで栗城さんを特段ウォッチしていたわけではないので、知らなかったこともたくさんありました。そのひとつはルート。栗城さんがねらっているのはエベレスト西稜~ホーンバインクーロワールと思っていたのだけど、これは結果的にそちらに転身しただけで、もともとは北壁ねらいだったようですね。


直接・間接に、いろいろ意見や情報もいただきました。ひとつうまい例えだなと思ったのは、「栗城史多はプロレスである」という見方。プロレスとレスリングは似て非なるもので、前者の本質はショー、後者は競技であります。栗城さんのやっていることも本質はショーであって、登山の価値観で語っても大して意味はないということ。オカダ・カズチカがオリンピックに出たらどれくらいの順位になるのかを語るようなものでしょうか。それは確かに意味がない。


「栗城ファンにとっては、彼のやっていることが登山として正しいのかどうかはどちらでもよいこと。ただ前向きになれる、ただ希望をもらえる、という理由で支持しているのだ」という意見も聞きました。それもそうなのだろうと思う。



それでも嘘はいけない


「栗城史多はショーである」という見方は、以前からなんとなく感じていました。登山雑誌で栗城さんを正面から扱ってこなかったのは、そういう面もあります。オカダ・カズチカ(何度も出してすみません)をレスリング雑誌で取材しても何を話してもらえばいいのかわからないように、登山雑誌で栗城さんをどう扱ってよいのかわからなかったのです。


その一方で、栗城さんは少なくない数の人に共感・感動を与えていることも感じていました。それはひとつの価値であります。それを最大限に生かすには、登山雑誌ではなく、テレビとかのほうが活躍の場としては合っているんだろうとも思っていました。だから別ジャンルの人物として静観していたというのが、じつのところです(PEAKS編集部時代の元上司が、私が退職後に栗城さんに取材を申し込んでいたことを今回初めて知りました。登山雑誌は取材NGということで断られたそうです)。


ただし、一点だけどうしても気になるところが。数年前から気になっていたのですが、今回のブログの反響をもとにあらためていろいろ調べて、確信を深めました。それは、「栗城さん、嘘はいけないよ」ということ。


「単独といいながらじつは単独じゃない」とか、「真の山頂に行っていない」とかの嘘もあるみたいですが、個人的にはそれは、いいこととは言わないにしろ、まあどちらでもよい。本質がショーなのだとすれば、それは小さな設定ミスといえるレベルの話で、比較的問題が少ないから。どうしても看過できない嘘は、彼は本当は登るつもりがないのに、「登頂チャレンジ」を謳っているところです。


ここは30年間登山をしてきて、20年間登山雑誌にかかわってきたプロとして断言しますが、いまのやり方で栗城さんが山頂に達することは99.999%ありません。100%と言わないのは、明日エベレストが大崩壊を起こして標高が1000mになってしまうようなことも絶対ないとはいえないから言わないだけで、実質的には100%と同義です。このことを栗城さんがわかっていないはずはない。だから「嘘」だというのです。


北壁はかつて、ジャン・トロワイエとエアハルト・ロレタンという、それこそメジャーリーグオールスターチームで4番とエースを張るような怪物クライマーふたりが無酸素で登ったことがあります。それでもふたりです。単独登山ではありません。単独で登るなら、その怪物たちより1.3倍くらい強いクライマーである必要があります。そして、長いエベレスト登山の歴史のなかで、北壁が無酸素で登られたのは、この1回だけです。


西稜ルートに至っては、これまで単独はおろか無酸素で登られたこともありません。ウーリー・ステックという、メジャーリーグで不動の4番を張る現代の怪物が、この春ついに無酸素でトライをしようとしていましたが、非常に残念なことに、直前の高所順応中に不慮の事故で亡くなってしまいました。

【2018.5.8追記】
認識違いがあったので訂正します。西稜は、1984年に、ブルガリアのクリスト・プロダノフが単独無酸素で登っていました(ただし、途中まで同行者がいたうえ、山頂から下降中に行方不明になっているので、単独無酸素登頂成功といっていいかは微妙です)。ほか、単独ではありませんが、1989年に、ニマ・リタとヌルブ・ジャンブーが無酸素で登っています。なお、北壁に関しては、栗城さんがねらっていたルートが無酸素で登られたのは、上記の1回のみですが、別のルートからは、同じく無酸素で過去2回登られています。いずれも単独無酸素で成功した例はありません。




栗城さんがやろうとしているルートは、こういうところなのです。1シーズンに数百人が登るノーマルルートとは、まったく話が違うということをどうか理解してほしい。


栗城さんは世界の登山界的には無名の存在です。本当にこれを無酸素単独で登ったとしたら、世界の登山界が「新しい怪物が現れた」と仰天し、世界中の山岳メディアが取材に殺到し、「登山界のアカデミー賞」といわれる「ピオレドール」の候補ともなるはずです。




そんなわけないだろ。


ということは、だれよりも栗城さん自身がわかっているはず。本気で行けると考えているとしたら、判断能力に深刻な問題があると言わざるを得ない。ノーマルルートが峠のワインディングロードなら、北壁や西稜の無酸素単独は、トラックがビュンビュン通過する高速道路を200kmで逆走するようなもの。ところが、そんな違いは登山をやらない普通の人にはわからない。そこにつけこんでチャレンジを装うのは悪質だと思うのです。



なぜ嘘がいけないのか


難病を克服した感動ノンフィクションを読んで、それがじつは作り話だとわかったら、それでもあなたは「希望を与えられたからよい」といえますか。あるいは、起業への熱意に打たれて出資したところ、いつまでも起業せず、じつは起業なんかするつもりはなかったことが判明したら。「彼の熱意は嘘だったが、一時でも私が感動させてもらったことは事実だ」なんて納得できますか。


つまり、嘘によって得られた感動は、どんなに感動したことが事実であったとしても、そこに価値などないのです。結局、「だまされた」というマイナスの感情しか最終的に残るものはない。これでは、登山としてはもちろん、ショーとして成立しないじゃないですか。


もうひとつ、嘘がいけない理由があります。どちらかというと、こちらのほうが問題は大きい。それは、栗城さん自身が追い込まれていくことです。応援する人たちは「次回がんばれ」と言いますが、このまま栗城さんが北壁や西稜にトライを続けて、ルート核心部の8000m以上に本当に突っ込んでしまったら、99.999%死にます。それでも応援できますか。


栗城さんは今のところ、そこには足を踏み入れない、ぎりぎりのラインで撤退するようにしていますが、今後はわからない。最近の栗城さんの行動や発言を見ると、ややバランスを欠いてきているように感じます。功を焦って無理をしてしまう可能性もあると思う。


そのときに応援していた人はきわめて後味の悪い思いをする。しかし応援に罪はない。本来後押しをしてはいけないところを誤認させて後押しをさせているのは栗城さんなのだから。嘘はそういう、人の間違った行動を招いてしまう罪もある。そして不幸と実害はこちらのほうが大きい。


誤解のないように書いておきますが、私は「登山のショー化」がいけないと思っているわけではありません。観客のいない登山というものの価値や意味を人々に伝えるためには、ショーアップはあっていいと思っています。ただし嘘はいけない。


栗城さんの場合は、「無酸素単独」と言わなければいいのです。北壁とか西稜とかも言わないで、ノーマルルートの「有」酸素単独登頂でもいいじゃないですか。これなら可能性はゼロではないと思います。「無酸素」というほうが一般にアピールすると考えているのかもしれないけど、どうですかね。普通の人が酸素の有無にそんなに興味ありますか。そこはどちらでもよくて、山頂に達するかどうかのほうがよほど関心が高いんじゃないでしょうか。有酸素だろうが登頂のようすをヘッドカメラでライブ中継してくれるなら、それは私だって見てみたいと本気で思いますよ。


そして登ってしまえばショーが終わってしまうわけじゃない。一度山頂に立てば、無酸素への道筋が多少なりとも開けることもあるかもしれないし、あるいは今度は春秋のダブル登頂をねらうとかでもいい。なにより、人々の見方が大きく変わるはず。第二幕、第三幕はいくらでもあるーーというか、むしろ開けると思うんですが。




【後日談】
ちゃんと話を聞いてみたいと思って正式に取材を申し込んだのですが、断られてしまいました。残念。→こちら


【追記】
栗城さん遭難後に書いた総括的な文章はこちら

「賛否両論」の裏側にあったもの




2017年6月2日金曜日

栗城史多という不思議

栗城史多さんがエベレスト登頂を断念したらしい。今回で7回連続の登頂失敗ということになる。


栗城さんのことは、これまで、まあちょっとどうだかなと個人的に思ってはいたものの、本人をよく知らないし、話したこともないし(正確には10年くらい前に一度だけあいさつ程度を交わしたことはある)、判断はずっと保留してきました。ただしそろそろひとこと言いたい。さすがにひどすぎるんじゃないかと。


栗城さんはフェイスブックにこう書いています。


本当は30日に登頂を目指す予定でしたが、ベンガル湾からのサイクロンの影響でエベレスト全体が悪天の周期に急に変わり本当に残念でした。 
25日の好天に登頂できればよかったですが、異様な吐き気が続き、本当に悔しいです。。 
高所ではどんなに体調管理しても何がおこるかわかりません。 
ただ今回初めて「春」に挑戦しましたが、秋に比べて春は好天の周期も多く、西稜に抜けるブルーアイスの状況もよくわかったので、来年に繋げられます。 
皆さんご存知だと思いますが、栗城史多はNever give upです。


この状況でどうして「来年に繋げられ」るといえるのか、どうして「Never give up」といえるのか、本当にわからない。タイミングとか体調管理でなんとかなるレベルではまったくないことは、ヒマラヤに登ったことがない私でさえわかります。常識的に考えれば、もうとっくに登り方を変えるか、あるいは目標の山を変えるかするべきなのに、頑ななまでにやり方を変えない。これでは、ただの無謀としか思えないのです。


かつて、服部文祥さんが栗城さんのことを「登山家としては3.5流」と言って話題になったことがありました。3.5流という評価が適正かどうかは別として、登山家としての実力が服部さんより下であることは間違いない。野球にたとえてみれば、栗城さんは大学野球レベルというのが、正しい評価なのではないかと思います。ちなみに服部さんは日本のプロ野球レベル。日本人でメジャーリーガーといえるのは数人(佐藤裕介とかがそれにあたる)。


それに対して、栗城さんがやろうとしている「エベレスト西稜~ホーンバインクーロワール無酸素単独」というのは、完全にメジャーリーグの課題です。栗城さんが昔トライしていたノーマルルートの無酸素単独であれば、それは日本のプロ野球レベルの課題なので、ひょっとしたら成功することもあるのかもしれないと思っていました。しかし、日本のプロ野球に成功できなかったのに、ここ数年はなぜか課題のレベルをさらに上げ、執拗にトライを重ねている。


ドラフト候補でもない大学野球の平均的選手が、「おれは絶対にヤンキースで4番を打つ」と言って、毎年入団テストを受け続けていたとしたら、周囲の人はどう思うでしょうか。大学生の年齢なら、これから大化けする可能性もないとはいえないから、バカだなと言いつつ、あたたかい目で見守ることもあるかもしれない。しかし、実力だけが大学レベルで、年齢は35歳。これまですでに7回テストに落ち続けている。となると、たいていの人はこう思うはずなんです。


「この人、どうかしてるんじゃないか?」


私は栗城さんを批判したいというよりも、とにかくわからないのです。この無謀な挑戦を続けていく先に何があるのか。このあまりにも非生産的な活動を続けていくモチベーションはどこにあるのか。これが成功する見込みのない挑戦であることは、現場を知っている栗城さんなら絶対にわかるはずなのに、なぜ続けるのか。それともそれすらもわからないのか。あるいは、わかっていて登頂するつもりはハナからないのか。そこに至る挑戦の過程そのものがやりたいことになっているのか。もうこれが事業になっているからいまさらやめられないということなのか。……すべてわからない。


さらにわからないのは、ファンの存在です。栗城さんのフェイスブックには応援のコメントが並び、だれもが知っているような大企業がスポンサーについてもいます。彼ら彼女らは、栗城さんに何を見ているのだろうか。


「登頂に成功するかどうかは関係ない。彼のチャレンジ精神に感動するのだ」。これならわかる。しかしそれは、目標を実現するための努力を重ねている日々の姿に感動するというものではないでしょうか。私だって、栗城さんが年間250日山に入って冬の穂高から剱岳までバリバリ登り、エベレストのほかに毎年1、2回はヒマラヤやアラスカ、アンデスなどの山で高所の経験を積み、世界のクライマーと交流してルートの研究を日々行なっていれば、無謀なやつだと思いつつ応援したくもなる(それだけやってもエベレスト西稜ソロには届かないはずですが、気概は感じる)。


こう書くと、「彼はそういう登山界の常識に挑戦しているのだ」という声が聞こえてきそうです。ただ、ヤンキースの4番を目指すなら、野球にすべてを捧げる日々を送っていないと説得力ないでしょ。ふだんはフルタイムのサラリーマンをしていて、ヤンキースの4番と言っても荒唐無稽にしか聞こえないじゃないですか。野球ならすぐわかる理屈が、なぜ登山だとわからないのか。野球だって登山だって、そういうどうしても必要なことって確実にあると思うんですよ。常識を破っていくのはその先にある。


そのようすがまったく見えず、毎年、その時期が来るとトライにだけ出かけている姿は、やっぱりどうしても理解できないのです。不思議で不思議でしょうがない。栗城さんの真の目的はなんなのか。真相を知りたい。本当に、一度その心の底の底を聞いてみたいと思います。





【補足】

書き終わったところで、山岳ガイドの近藤謙司さんがこうツイートしているのを知りました。まさにこれです。




【補足2】

後日、もう少し詳しく書いてみました。

栗城史多という不思議2



2017年4月6日木曜日

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない

西穂高岳で、登山届を出さずに登って遭難した人が、5万円の罰金を科されたそうです。


岐阜県では条例で登山届の義務化を定めているので、これはしかたない。条例を破ったのだから、その責めは負わなければならないでしょう。


ただし、近ごろ、山の事故が起こるとすぐに「登山届を提出していなかった」と批判的に報道されることには強い違和感を覚えます。問題の本質はそこなのかよと。


思うに、新聞やテレビなどの報道陣は、事故の本質がわからないから、警察の「登山届は出ていなかった」という発表に過剰反応して、

登山届未提出→だから事故が起こった

と、わかりやすいストーリーを作り上げてしまうのだと思われます。しかしこれ、間違ってます。


ほとんどの場合、登山届を出していなかったということが遭難事故の原因となることはありえません。事故の原因は別にあって、技術や体力の不足とか判断ミスとか天候の急変などがそれにあたります。


これにも書きましたけど、登山届の目的とは、遭難したときに救助をスムーズにするためであって、届を出したからといって、遭難を防ぐことができるようになるものではないのです。


先日の那須の高校生雪崩事故のときも、「登山届提出せず」という見出しの記事をいくつも見ました。それをひとつの事実として報道するのはいいけれど、追及すべきもっと大きな問題がある。那須の事故の場合は、(おそらくは)現場の判断ミスであり、引率する立場の人がふさわしい技術・経験を持っている人であったかどうかであり、もしかしたら、組織の構造的な問題もあるのかもしれない。核心を放置しておいて、「登山届出してなかった!」と枝葉を騒いでも物事は解決しない。


もちろん、登山届は出すにこしたことはありません。こういう報道が「登山届出さなきゃな」という意識を高めることに貢献することは認めます。


ただし、繰り返しますが、

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない。


新聞やテレビには、「登山届を出していなかったことが遭難の原因」という予断をもって報道することはぜひあらためていただきたい。登山者に誤解を与えるという意味と、真の原因を見えにくくするという意味のふたつの点で、それは害悪ですらあります。


2017年3月29日水曜日

高校山岳部冬山禁止はしかたがないのかな






那須の高校生雪崩事故について、知り合いのライターやガイドがツイートしていました。


「なぜあんな日に訓練を続けたのかを議論すべき」「いかに行なうかが問題」「見直すのは違うところ」。それはそのとおり。私自身も、引率役の人に雪崩についての判断の甘さがあったのだろうと想像しています。そこは追究が必要なところです。

*ここで「追究」という言葉を使いました。あえて「追及」は使いませんでした。




こういう面は多少なりとも意識にはあったと思います。「スキー場だから安全」と。まあ、当日はスキー場は営業を終了していて、すでにスキー場ではなくただの山の中だったわけですが、こういう施設にいると、安全管理のタガがついゆるみがちになるのは、自分の経験からも容易に想像できるところです。




引率役の人はそれなりに登山経験のあった人のようなので、雪崩についての知識がゼロだったとか、まったく無防備に突っ込んだとかいうわけではないでしょう。リスクについて、少々甘く見ていたというのが実のところなのではないでしょうか。


ただ、こういう判断ってそれなりに高度なもので、生徒の命に責任を持つ立場となればなおさら難しいものです。それを一教員に求めるのは酷――というか、非現実的な気がします。山岳ガイドに依頼すれば、リスクの問題はほぼクリアできると思いますが、公立高校の部活動でそこまでできるものなのでしょうか。


そういうことをもろもろ考えて、「安全管理に自信を持てない」と結論づけたから「冬山禁止」としたのではないかな。報道を見ているだけだと、事故→禁止と、短絡的に結論づけているようにも思えるし、なんでもかんでも禁止にしておけば無難であるという考え方はかなりきらいではあるんだけれど、これに関してはしかたがないような気がしています。