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2023年9月2日土曜日

先鋭登山をわかりやすく伝えるのは難しいことなのである


「登山は基本的に自己満足の世界」...それでもなぜ、一流クライマーによる"疑惑の登山"はなくならないのか? | 山はおそろしい | 文春オンライン


 「登山家と嘘」というテーマでインタビューされました。


このなかで、インタビューアーの中村計さんがこんなことを語っています。


現代の先鋭的登山を書くときの最大の壁は、その挑戦がいかに大変かを一般読者に伝えることがとてつもなく難しいということだと思うんです。


これはまったくそのとおりであって、これまで私も、どうしたら伝わるのだろうかといろいろ模索してきました。


模索の結果、私が多用しているのは、野球や格闘技などのスポーツに例えるという手法。たとえば栗城史多さんについて書いた記事では、栗城さんを「大学野球の平均的選手」に例え、栗城さんが目指していたエベレスト北壁を「メジャーリーグ」とすることで、実力と目標の乖離を表現しようと試みました。


昔であればこんな面倒なことをする必要はありませんでした。エベレストが登られていない時代は、究極の目標はエベレスト初登頂であり、そこにどれだけ近いかによって登山家の価値は決まる――ということは、野球や格闘技にたとえるまでもなく、誰にでも理解できる話だったからです。


ところが今は、先鋭登山の課題は多様化・細分化し、その評価は専門家でも容易ではありません。エベレスト北壁の登山史的価値を正確に評価できる人は、登山業界でも多くないのが実情です。そこに「無酸素」とか「単独」とか「冬期」とか「新ルート」などの各種条件が加わるとなおのこと。ましてや、登山をやらない一般読者にわかるはずもないでしょう。


そこで私は、野球や格闘技になぞらえることでわかりやすくする手法をとることにしたわけです。ただしこれはあくまでイメージを伝えるためのもので、多少の不正確性には目をつぶっています。「栗城さんのレベルは大学野球ではなくて高校レベルなのではないか」とか、「登山と格闘技は別物である」などと言われることもありましたが、そういうことではないんだ! 小さな正確性よりも大きなイメージを伝えることを優先した結果なので、細かいところを突っつかれても困るw


学者のコメントで、正確性を重視するあまり、素人には結論がわからないということがよくありますよね。「状況によって一概にはいえない」とか。確かにそのとおりなんでしょうが、私たち素人が知りたいことは細かくて厳密な事実ではなく、大きな枠組みなのです。学者や専門家は、事実の正確性にこだわるあまり、大きな枠組みを示してくれないことがよくあります。私はこれがいつもストレスに感じるので、自分が説明するときには伝わりやすさやわかりやすさを優先しています。




ところで最近、このあたりのことを説明するには、先鋭登山をスポーツに例えるより、学問や科学に例えるほうが適切かもしれないと思うようになりました。専門家以外にはなかなか内情がわからないところとか、メディアでもてはやされる人の本業の実態がよくわからないところとか、似ているなと思うのです。ノーベル賞やピオレドールで何が評価されたのかはわからないけど、受賞者がすごい人であることは想像できるとか。


そんなことを考えていると、先鋭登山は専門的になりすぎて蛸壺化しているなとも思えてきました。ただしだからといって、ごく一部の専門家やマニアの嗜みに過ぎないかというと、そうでもないんですよ。素人にはどうでもいいようなわずかな違いにこだわって工夫や切磋琢磨を続けてきた結果、登山は少しずつ前に進んでいるのです。


たとえば無酸素登山というのは、人類の可能性を広げる大きな一歩だったわけですが、そこに至るまでには、無数の登山家の死屍累々といえる試行錯誤が背後に存在します。そうした多くの蓄積を土台として、ときおり大きなイノベーションが起こる。そんなところも学問に似ているかもしれません。


服部文祥さんが、「登山の文化にフリーライドしている」と言って栗城さんを批判したことがありました。「無酸素」とか「単独」とかの言葉を使うなら、その言葉が意味する正しい手順を踏めと。登山史が長年かけて獲得してきた成果を自分の箔付けだけに使って、実態は適当にスルーするのではただのズルじゃないかということですね。



とりとめがなくなってきました。

最後に、先鋭登山の評価基準となるものをざっくりと説明しておきます。


1)どれだけ困難なことをしているか

2)新しいことをしているか


大きくはこのふたつです。


1は、技術的な難しさ。だれもが登れなかった困難な岩壁を登りきったとか、クライミンググレードの世界最高を更新したなどのことですね。技術的な困難を克服したということは単純に評価の対象となります。


2は、山の初登頂が典型例となります。だれも登ったことがない山に登ることは間違いなく新しいこと。ほか、酸素ボンベやロープを使うことが常識だった山で、それらを使わずに登ることも「新しいこと」です。だれも注目していなかった山を見つけ出して登ることもこれにあたります。


先鋭登山の総合評価は1+2で決まります。技術的に困難でも新しい要素がゼロであれば総合点は伸びませんし、その逆もしかり。例えれば、1は技術点、2は芸術点といった感じでしょうか。また雑な例えをしてしまいましたが、まあ、そんな感じです。以上。



2022年8月3日水曜日

「話す技術」と「書く技術」はまったく別物である

ある政治学者がいる。この人は知的な風貌に加え、つねに落ち着いた物腰、そしてFMパーソナリティのような深みのある声の持ち主である。昔からテレビ番組などでコメントを聞くたびに、説得力あるなあと感じていた。


しかしあるとき、この政治学者の言っていたことを、いつもほとんど覚えていない自分に気づいた。「あの人なかなかいいこと言ってたよ」と人に話を振り、「どういうこと?」と聞かれても、うまく説明できないのだ。「え~っと、あれ? どういうふうに言ってたっけ……?」


そんなことを何度か経験したあと、さらに気づいた。「じつはあの人、大したこと言っていなかったのでは……?」


よくよく注意して聞いてみると、「国際平和を実現するためには戦争をしないことが重要だ」とか、「日米関係でもっとも重視しなくてはいけないことは、日本とアメリカの立場である」みたいなことを、専門用語を交えつつ話を複雑にしながら、その持ち前の説得力ある風貌としゃべり方で語っていただけだったのである。


これは自分だけの発見かとも思ったが、そうではなかった。知り合いのライターがこの政治学者を取材したとき、取材現場ではひと言ひと言説得力抜群で、うんうんうなずきながらインタビューを終えたのだが、いざ文字起こししてみると、その内容のなさに愕然としたというのだ。そのライター曰く「あれは不思議な体験だったよ。取材中に感激していた自分はなんだったんだろう……」


この政治学者とは別の話で、取材中での同じような体験は私にもある。


ふたりの登山家の対談企画で、登山家Aは弁舌爽やかでよくしゃべる。それに対して登山家Bは言葉数が少なく、話したとしても、もごもごとしていてよくわからない。「これはAの圧勝になってしまうな……」。対談企画は、ふたりの発言の量と内容が均衡するのが理想である。ひとりの発言ばかりに偏った記事はいい記事とはいえないが、そんな記事にならざるを得ないことを私は覚悟した。


ところが、文字起こしをして対談の内容を精読して驚いた。あんなにキレのよかったAの発言は、文字で見ると思いのほか内容が薄く、逆に、まったく心に残らなかったBが意外なほどに深いことを語っていたことに気づいたのである。


Aは発言量は多いものの、よく聞くと同じ内容を繰り返していたり、テーマから外れたりすることも多く、そういう部分はある程度カットすることになる。逆にBの発言は、"えー" とか "うーん" などをカットして語尾を整えれば、ほぼそのまま使えた。しかも内容が濃い。結果的に、量的にも内容的にも、両者かなりバランスのとれたいい対談に仕上がった。



このふたつのエピソードから学んだことは、口頭表現と文字表現はまったく別物であるということ。


口頭で人に何かを伝えるとき、伝わるものの総量を100とすると、言葉だけで伝わるものは10もないといわれる。残り90は、声の調子や速度、大きさであり、または身振り手振りであり、表情や視線、服装や髪型を含めた外見などであったりする。話す内容よりも、話し方や見た目のほうがはるかに重要であり、人の心に残る9割はそちらであるというのだ。


一方、文章では、その90がほぼすべてカットされ、10しかなかった言葉のみに、受け手の全注目が集まることになる。となると、受ける印象がガラッと(ときには180度)変わるのも当然ではないだろうか。



じつはこの話、もっと深い結論に達することができそうだと思って書き始めたのが、ここまで書いてきて、これ以上はイマイチ展開できなくなってきたので、ひとまずはここで終わり。


2020年12月2日水曜日

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』感想


 

話題のこの本。発売前に読んでいたので感想を書いておこうと思う。


上に載せたのは集英社の宣伝用POPで、私のコメントが載っているが、本の端的な感想としてはこのとおり。これは宣伝用に書いたコメントではなく、献本をしてくれた編集者に送ったメールの一部が使われたもので、率直な感想そのままである。


実を言うと私も、一時期、栗城さんについて本を書こうかと考えたことがある。『トリックスター』というタイトルまで思いついていた。

(トリックスターというのは、「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。 往々にしていたずら好きとして描かれる。 善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である<Wikipediaより>」らしい。まさに栗城さんにピッタリのタイトルではないだろうか)。


が、結局書かなかった。自分には「栗城史多について書く理由がない」と感じたのが最大の理由である。存命の人ならまだしも、故人、しかも亡くなって間もない人についてものを書くには、相当の関係性か、書かなくてはならない状況的理由がなくてはならないと思う。私にはそれがなかった。せいぜいネット記事を数本書くくらいが、私に見合ったボリュームであった。


そして『デス・ゾーン』を読んで、やっぱり書かなくてよかったなと思った。『デス・ゾーン』は私が想定したものと方向性は大体同じ。私が書いたら、同じような内容で情報が薄いという、劣化コピーのようなものになっていたはず。栗城史多について一冊書くという難しい仕事に説得力を持たせられたのは、著者の河野啓さんならではだったと思うのである。


河野さんは、10年ほど前に栗城さんを取材していたテレビディレクター。当時は、長期にわたって毎日のように会う、それこそ密着取材だったらしい。NHKなどの全国放送が栗城さんを取り上げる前で、栗城さんがこれから本格的に世に出て行こうとしていたころだ。


つまり河野さんは、栗城さんが虚飾をまとう前の素の姿をかなり知っている人であり、同時に、栗城さんが世に出る後押しをした初期の重要人物のひとりともいえる。河野さんには栗城さんについて「書く理由」があったのだ。


河野さんは、装飾も揶揄もせず、事実ベースで淡々と栗城史多という人物を描き出していく。その結果として、栗城さんの弱さやズルさもあからさまになるので、故人に酷すぎると感じる人もいるかもしれない。


だが私はそうは感じなかった。河野さんの筆致からは、栗城さんを貶める意図も持ち上げる意図も感じられず、ただただ、栗城史多という人物の真の姿を知りたいという意図しか感じられなかったからである。


ある対象を表現する場合において最も誠実かつフェアな態度というのは、真実に忠実になることだと信じている。不当に貶めることが不誠実なのはもちろんだが、実態以上に褒め称えるのも、対象の存在を本当には見つめていない態度だと考える。


「誠実な本」と表現したのは、このあたりに河野さんのとても真面目なスタンスを感じたからである。河野さんは愚直に栗城さんの実像を描き出そうとしている。その結果、浮かび上がるのが、実は意外なほどに愚直で不器用だった栗城さんの姿である。


「愚直で不器用」というのがマイナスポイントかというと、まったく逆。栗城さん本人の著書『一歩を越える勇気』や『NO LIMIT』からはなんのリアリティも感じられなかったのだが、『デス・ゾーン』で描かれる、エベレストにある意味愚直に通い続ける栗城史多の姿には人間味を感じたし、共感できる部分も少なからずあったのだ。


河野さんは栗城さんになかば裏切られるようなかたちでテレビ取材を中断するはめになった経緯があるという。栗城さんに対しては複雑な思いがあったらしいのだが、本書の取材で栗城さんのさまざまな面を知るにつれ、あらためて栗城さんのことを好きになれたと語っていた。


好きになれるとまではいかないが、私の読後感もそれに近い。とにかく不思議で、わけがわからず、うさんくさくもあり、共感できる余地はほぼなかった栗城史多という人物はいったい何者だったのか。本書を読んだことで、それが実感をもってかなり理解できるようになったように思う。



*著者の河野啓さんにインタビュー取材をしました。記事は1月発売の『BE-PAL』に載る予定です。


【2021.4.11追記】

BE-PALのウェブで記事が読めるようになりました。こちらです。






2019年5月22日水曜日

澤田実さん、寂しいです




遭難するような人ではないと思っていたので、不意打ちをくらったようで本当にショックです。


2年前、澤田さんについて書いた文章があります。結果的に公開されずじまいだったのですが、自分としても自信作で、なにより、澤田実という登山家の魅力をとてもよく表現できたと思っているので、ここに公開します。







***************


首都圏に住む登山歴数年以上の人は、この顔に見覚えがあるんじゃないだろうか? 「あっ、カモシカの人だ!」と気づいたあなた、あなたは鋭い。東京・高田馬場にある登山ショップ「カモシカスポーツ」に行くと、いつもニコニコと人なつっこい笑顔で立っている店員さん。それが澤田実さんである。


「でも久しぶりに見た気がする……」と感じたあなた、あなたはさらに鋭い。澤田さんは3年前にカモシカスポーツを辞めている。現在は山岳ガイドとして活動しているのだ。


澤田さんのガイド資格は、「日本山岳ガイド協会認定・山岳ガイド・ステージⅡ」というもの。技術レベルでいえば国際山岳ガイドに次ぐもので、国内では取得するのがもっとも難しい資格。やさしそうな見た目とは裏腹に、アルパインクライミングから山岳スキー、沢登りなど難しい登山を得意としているのが澤田さんの持ち味だ。


ガイドを始める前から、登山家としてもその名を知られていた澤田さんだが、その山遍歴はとにかく多彩である。





まずは高所登山。これまでヒマラヤ、アラスカ、アンデス、アフリカ、カムチャツカなど、海外の高峰に数多く登頂。ナンガ・パルバットやエベレストといった8000m峰にも登っている。





国内の雪山にも足繁く通う。なかでも北アルプスの黒部横断登山はライフワークといえるほど、さまざまなコース、さまざまなスタイルで挑戦している。





そしてクライミング。本場ヨセミテでのロッククライミングのほか、北アルプス錫杖岳や瑞牆山などで新ルートの開拓もしている。





沢登りにも強い。日本最大の滝といわれる立山・称名滝全4段を通して初めて登ったのはこの人だ。





山岳スキーに強いのも澤田さんの大きな持ち味。スキーを利用して、黒部横断を11時間で成し遂げてもいる。





こんなことまで。「小川山レイバック」という有名なクライミングルートを「ギター初登」。音楽も得意な澤田さんは、途中のテラスで尾崎豊を熱唱した。




こうして並べてみると、ほとんど登山の全ジャンルをこなしているといってもいいほど。しかもそのいずれもハイレベルで。このマルチプレイヤーぶりは日本の登山界では際立っている。それはガイドという仕事にも大いに生かされているようだ。







「どれがいちばん好きかって? うーん、ひとつには決められないなあ……」


高所登山からスキー、沢登りまで、まんべんなくハイレベルにやっている人ってあまりいないと思うんですが。


「面白そうだなと思うことをそのときどきにやってきただけなんですよ。山って、それぞれに、いちばんいい季節、いちばん合った登り方があるじゃないですか。そのいちばんおいしいところを選んでいったら、結果的にいろいろやることになっていたということなんです」


澤田さんが登山を始めたのは大学に入ってから。愛知県出身の澤田さんは、「北海道になんとなく憧れがあって」北海道大学に進学。そこで探検部に入部したことで登山と出会った。


探検部というのは、山だけでなく、川下りや洞窟探検、海でのダイビングなど、さまざまな活動を行なう。部の活動ではないが、澤田さんは、1年休学して150日ほどかけて日本徒歩縦断(北海道宗谷岬~九州佐多岬)ということも行なっている。





大学探検部時代、北海道天塩川をイカダで河口まで下った


いろいろやったなかでも「登山がいちばんバリエーション豊かで面白い」と感じた澤田さんは、卒業後も就職せず、山で生きていくことを決意。山小屋やスキー場など、山でのアルバイトを見つけて働くようになる。しかし、こうした山での仕事は意外と登山には行けないことがわかり、当時はクライマーの職場として人気があった窓拭き会社のアルバイトに転身。同時に上京して山岳会に入り、実力のある仲間を得た澤田さんの登山熱は爆発していく。


1994年にアラスカのデナリ(6190m)に登り、90年代は毎年のように海外登山に出かける。ヒマラヤ8000m峰も登るようになり、その実力と大学で地質学を学んだ経験を買われて、エベレストの山頂で化石を探すというテレビ番組の企画にも起用された。「化石探しが目的だったんですが、いい化石が見つからないうちに山頂に着いちゃった(笑)」





1997年に登ったナンガ・パルバット(8126m)


このころの澤田さんの生活は完全に山中心。窓拭きの仕事はかなり自由がきいたため、長期山行や海外登山にもしばしば出かけている。厳冬期2月の単独黒部横断にも挑戦し、11日間でこれを達成している。この時期の剱岳は非常に厳しく、登られた記録があまりない。そこにあえて挑戦した澤田さんは、山岳会の記録にこう書いている。


「休みが取れないことをうまい口実に敢えて避けてはいなかっただろうか。誰もやらなかったのならば、山のためにフリーター生活をしている僕が行かなくてどうするのか」


2004年には、スペインで行なわれた山岳スキーの世界選手権にも出場。4人チームで、ほかのメンバーは、松原慎一郎(山岳ガイド)、横山峰弘(トレイルランナー)、佐藤佳幸(元アドベンチャーレーサー、現アドベンチャーカメラマン)という強力なもの。





2004年の山岳スキー世界選手権


このレースで澤田さんは、海外の強豪選手のスピードに衝撃を受ける。このノウハウと装備を日本の山に持ち込んだら、それまで想像もつかなかったすごいことができるんじゃないか。そして黒部横断ワンデイという、当時としては途方もない発想にいたる。





黒部横断を11時間18分で達成


超軽量スキーとデイパックに、レーシングスーツで身を包んだ、冬山登山の常識を飛び越えた異様な風体の男が冬の黒部を疾走。11時間強という、それまで考えられなかったタイムで横断を達成した。







そして2004年にカモシカスポーツのスタッフとなる。家族ができ、不安定なアルバイトのままではいられなくなった末の決断だったが、自分の経験が生かせる職場は楽しく、好きなものに囲まれた毎日で、最新の道具事情にも詳しくなった。


接客業を経験したことも大きい。それまでは嗜好を同じくする仲間としか付き合ったことがなかったのだが、登山ショップには、ハイキングからクライミングまで、さまざまな趣味嗜好のお客さんが来店する。自分の発想にはまったくなかった相談を受けることもある。そんな経験を通じて、山を見る目も広がっていった。


気がつくと、ショップ勤務も10年になろうとしていた。カモシカスポーツの顔のひとりとして定着していた2014年、澤田さんはカモシカスポーツを辞め、山岳ガイドへの転身を決断する。


「やっぱり僕は山にいたかったんですよ。ショップは休みが限られますから、時間の自由がきかないし、長期の登山も行きにくい。もっと山にいる時間を増やしたい――その条件に合って、自分の経験も生かせる仕事はなにかなと考えたときに、出てきた答えが山岳ガイドでした」


もっと山に行きたい。そういう自分の欲求から選んだ新たな道だったが、ここにきて、マルチプレイヤーとして活躍してきた経験が生きている。さまざまな山、さまざまな登り方に対応できるのだ。この3月には、かつて自身が11時間で行った黒部横断コースを、お客さんに請われて2泊でガイドした。こういう、あらゆる技術と経験の複合技が必要なコースをリードできるガイドは多くない。


現在は年に200日近く山に入る毎日。ガイドの仕事だけでなく、自分の登山を磨くことも忘れていない。この冬には、10日ほどかけて穂高の継続登山をしてきた。「目標にしていた岩壁は、天気が悪くて逃げまくっちゃいましたけど(笑)」。


どんな山でも楽しい。そう語る澤田さんの表情は、カモシカスポーツでもおなじみだった、ニコニコとして人なつっこい笑顔のままだった。

***************






やりきったと思える人生を送れて幸せだったと思っていてほしいです。が、思い残すことはあったはず。ご本人とご遺族が安らかな日々を送れる日が来ることを願って。


2017年2月22日水曜日

PEAKSでインタビューされました




『PEAKS』の長寿インタビュー連載「Because it is there...」に自分のインタビュー記事が載りました。人の取材はいくらもやってきましたが、取材される側にまわったのは初めてに近く、なんだかへんな気分。記事を読んでも、「へー、こんな人がいるんだ~」と、不思議な違和感というか距離感を感じています。これが、自分を客観視するということなのでしょうか。


インタビューしていただいたのは、寺倉力さん。Fall Lineの主幹編集を務めている編集者&ライターで、私が編集ライター業においてベンチマークとしている人です。寺倉さんはバックカントリーメディアの第一人者であり、私は寺倉さんをマネしてそれのクライミング版になればよいのだなと、いつも指標にさせてもらっているのです。


寺倉さんの手がけるものは常にクオリティが高く、私が雑誌作りの指標としているのがFall Lineであり、ガイドブック作りの指標が、昔、寺倉さんが作ったスキー場ガイド「スキーマップル」です。これはとてつもない本で、ガイドブックはこうあるべしという本なのです。まあ、そんな人なので、インタビューは安心しておまかせしました。


とりあえず、自分で自分の記事を読んだ感想は;

・おれ、顔怖えー
・おれ、オッサンになったなあ…
・探検部の話ってやっぱりキャッチーなのかな


「怖い」とか「近寄りがたい」とかいうことは、たまに言われるのですが、写真を見て、なぜそう言われるのかよくわかりました。これは怖いわ。自分ではこんな難しい顔している自覚はまったくないのです。記事中、冬山の格好をしている写真なんかは、それこそこれから命を賭けた危険な登攀に向かうような顔をしていますが、このとき私はなんにも考えていませんでした。ぼーっと風景を見ていただけです。


あとは探検部。記事では半分が大学探検部時代の話になっています。インタビューのときはほかの話もいろいろしたのですが、探検部の話がこれだけ取り上げられるということは、やっぱり探検部の話っておもしろいんですかね。自分が体験したことは自分にとってはわりと当たり前なので、あんまりおもしろいとも思えないのですが、外から見るとかなり特殊環境だったのでしょうか。そういうことが客観視できてよかったです。


雑誌的にはPEAKSの創刊裏話などもっと書いてほしかったんですが、そちらはあまりおもしろくなかったんでしょうか……。次回のブログではそのへんちょっと書いてみようかな。




2016年10月13日木曜日

山岳ガイドが憧れの職業

伊藤 伴。日本最年少にしてエベレスト、ローツェの連続登頂を成し遂げた男---その2


今年5月、エベレスト日本人最年少登頂記録を作った大学生、伊藤伴さんのインタビュー記事です(最年少記録はその直後に南谷真鈴さんに塗り替えられてしまいましたが)。


いちばん印象的だったのは、将来の夢を聞かれて「山岳ガイドになりたい」と答えているところ。


時代は変わったなあと思うのです。


昔は、「植村直己さんのような冒険家になりたい」とか「世界的なクライマーになりたい」という夢を語る若者はいても、「ガイドになりたい」という人はまずいなかった。そのころ(私が若い頃だから25年くらい前)は、山岳ガイドというと、登山にのめり込みすぎてまともな社会生活を送れなくなった人が生活のために仕方なくやる職業、というイメージが強かったんです。プロ意識も低そうで、とても憧れるようなものではありませんでした。


でも今では、19歳の若者が将来の夢として山岳ガイドをあげるのも十分ありえる話だ。伊藤さんの師である近藤謙司さんとかかっこいいもんね。私の知っているところでは、長岡健一さんとか花谷泰広さんとかも同じ。彼らは「仕方なく」ガイドをやっているのではなく、プロとして意欲的に取り組んでいる。そして大きいのは、経済的にきちんと成り立たせているところ。昔のガイドのようにその日暮らしでは憧れようもないですからね。


10代のときにフランスでガイド修行をして資格も取った江本悠滋さんが言うには、フランスでは山岳ガイドが少年の憧れ職業のひとつだそうです。自分もそうなりたくてガイドの道に進むことにしたと。日本もそういう社会にしたいと昔から言ってました。


そういう過去を思い返すと、時代はずいぶん変わった。伊藤さんの言葉はその象徴のように聞こえたのでした。

2016年2月16日火曜日

岡田准一インタビュー

昨日15日発売の『岳人』に、岡田准一さんのインタビュー記事を書きました。岡田さんは、3月に公開される映画『エヴェレスト 神々の山嶺』に主演しているので、それに合わせた企画というわけです。


もともと岡田さんは個人的にけっこう好きな俳優で、昔、『SP』というドラマを毎週見ていました(このドラマ、深夜枠だったんだけど、かなりクオリティ高い番組でした)。それから、岡田さんは趣味で登山やボルダリングをやるという噂が昔からあって、それは本当なのか? ということにも興味がありました。


しかし、インタビューの持ち時間はわずか30分。その間に写真撮影もしなくてはならず、話が聞けるのは実質20分というところ。それじゃあなにも聞けないよ……。その後、編集部が交渉してくれて、1時間になりました。ただし、アウトドア系3誌(岳人、山と溪谷、ランドネ)の合同インタビュー45分+個別インタビュー各誌5分というかたち。


30分よりはマシだけど、余裕はほとんどない。通常のインタビューでは軽く雑談から入って口を温めて、簡単な質問から徐々に深い質問に移っていくという流れをとるのだけど、今回は最初から全開でいくしかないな。ということで、質問項目とその流れを完璧に作り込んでインタビューに臨みました。


結果としては、限られた時間にしては深い話もできて、満足のいく取材になりました。登山やクライミングをやっているというのも本当のようでした。印象的だったのは、「これまでどんな山を登ってきたか」という質問に、岡田さんが「最近では西穂や瑞牆に登りました」と答えたところ。ここ、山にそれほど詳しくない人だったら「西穂高岳や瑞牆山に登りました」と答えるはずなんです。山やってる人ならではの略称がさらっと出てきたところに、本気度を感じましたね。


通常のインタビュー記事であれば、取材時に「西穂」「瑞牆」と略してしゃべったとしても、原稿にするときには「西穂高岳」「瑞牆山」と正式名にするところなのですが、今回はあえてそのままにしました。岡田さんの「やってる感」を『岳人』の読者には感じてほしかったからです。


のっけからそれだったので、これは山の話でいけると踏み、想定していた以上にエベレストや登山の話を掘り下げる方向で質問をしていきました。映画自体の普通の話はほかのところでも読めますしね。岡田さんも「こんなこと話していいのかな」と言いつつ、山での爆笑話をしてくれたりしたので、よかったんじゃないでしょうか(残念ながら原稿には入れられませんでしたが)。


まあ、でも、インタビューの時間制限はホントに厳しくて、終了時間が迫ってくると、岡田さんの後方に座っているスタッフが「あと10分」とか「あと3分」とかスケッチブックに書いたカンペを出してくるんですよ。それは岡田さんからは見えないんだけど、私たちにははっきり見えるわけです。あれはあせった。あんなの初めてでした。


というのも、岡田さんはこの日、私たち含めて10誌以上の取材を受けることになっていました。スタッフが持っていた時間表をちらっと見たのですが、朝から夜まで5分単位でスケジュールがぎっしりなんですよ。インタビューして撮影して、着替えてまた別のインタビューへ……。そしてそのたびに同じことを聞かれるはずなんです(「映画の見どころは?」とか「エベレストでの撮影はどうでしたか?」とか)。疲れてるはずなのにそんな素振りも見せずに答えてくれた岡田さんに感謝です。


今回はいわば「番宣」記事なので、上っ面の話に終始してしまう可能性もあるなと思っていたのですが、それは杞憂に終わりました。映画の裏話や山の話で盛り上がったのはもちろん、俳優としての演技の話が個人的に非常に面白く、その話だけもう1時間くらい聞きたいと思ったほど(掲載雑誌の趣旨からして深く突っ込むことができず残念)。結果的に4ページの文字数におさめるのに苦労したほどでした。いい話だったのに泣く泣く落とした話も3つありました。23日に発売で最後発になる『ランドネ』でそこが生かされていればいいのだけど。


で、やっぱり気になるので、『岳人』と同じく15日発売の『山と溪谷』を夕方に立ち読みしてきました。結果! 原稿の内容ほとんど同じ! うわ~、マジかよ~。こうなるとイヤだなと思って、原稿を作るときに3誌で調整しようかともチラッと思ったんですが、なんか談合めいていやらしいような気もして、結局ほとんどやらなかったのです。後悔。


でも、5分の単独取材時間(+撮影時の立ち話7分ほど)に核心となり得る質問を用意していたので、そこで聞いた話をできるだけ厚く原稿に盛り込みました。そこはヤマケイにもランドネにも載ってないぞ!




あ、あと、今月の岳人、このインタビュー記事のほかに、めずらしく学生時代の昔話を書いています。なんの話かというとUFOの話です。そちらもどうぞ。