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2020年10月29日木曜日

堀内一秀さん、ありがとうございました

ライターの堀内一秀さんが亡くなってしまった。自分にとっては兄貴みたいな感覚の人だったのでとても悲しい。膵炎が急激に悪化したということだが、直前まで普通に生活していて、翌日には近ごろ取り組んでいた視覚障害ランナーの伴走の予定もあったというのだから、本当に突然のことだったらしい。


僕が堀内さんに初めて会ったのは、まだ学生だった1993年。アドベンチャーレースのレイドゴロワーズに誘ってもらったとき。奥秩父で夜間縦走のトレーニングをしたり、三浦半島でシーカヤックの練習をしたり、必要な装備調達にあちこち行ったり、アドベンチャーレースのイロハを教えてもらった。本番のマダガスカルでは、アスリート然とした屈強な海外勢にビビったけど、オレたちは知能で勝負しようと、堀内さんとタバコ吸いながら一生懸命地図読みしたっけ(でも完走できず)。




堀内さんはその後もレイドに挑戦し続けた。日本でアドベンチャーレースというと田中正人さんが有名だが、堀内さんは田中さんより2年も早くレイドゴロワーズに参戦し始めている。日本にアドベンチャーレースの種をまいたのは堀内さんであるという事実はここに指摘しておきたい。自己アピールがきらいな堀内さんは自分ではついぞそんなこと言わなかったけど。


僕は94年に就職したため、レイドには出られなくなった。当初は僕も再挑戦の意欲満々だったのだが、日々の忙しさの前にその意欲をだんだん失っていった。一方で堀内さんは挑戦し続けている。その姿はまぶしく映ると同時に、こんなことで意欲を失っていく自分を情けなくも感じた。


堀内さんはレイドに一段落つけたころ、僕が働いていた会社(山と溪谷社)の『Outdoor』編集部で仕事を始めた。アドベンチャーレースの兄貴に仕事場で会うのはなんとなく気恥ずかしいものがあった。その後、僕は会社を変わり、Outdoor編集部もなくなり、僕は編集者としてライター堀内さんに仕事を発注する立場になったりもしたが、僕にとって堀内さんはあくまでアドベンチャーレースの兄貴。仕事としての節度を保つ自信がなく、編集部のほかの人に「堀内さんて人がいるよ」と紹介するだけで、自分ではあまり仕事をお願いしたことはなかった。


それでも、何度か頼んでしまったことはある。それはいつもピンチのとき。「こんなこと堀内さんにしか頼めない」という案件のときだ。いちばんひどかったのは、朝9時ごろに電話して「きょうの17時までに1000字のコラムを3本書いてほしい」というもの。堀内さんは「今から犬の散歩に行くから帰ってから書くよ」と余裕である。ほ、ほ、堀内さん、明日の17時じゃなくて、今日の17時なんですけど……と言うと、「わかってる、わかってる」と言って、本当に17時前にコラムが3本送られてきた。内容は完璧であった。


仕事面においてはこんなことばかりだったので、堀内さんには助けてもらったという記憶しかない。いつかは恩返ししたいと思いつつ、その機会は失われてしまった。とても申し訳なく思っているが、堀内さんにそのことを言うと、「え!? 恩返し? いいよ、いいよ」と言いそうだ。コラム3本の件だって、「ああ~、そんなことあったな」くらいにしか覚えていないかもしれない。


堀内さんは恩着せがましいところや、年下の人間に対してマウントをとろうとするようなところがまったくない人だった。僕以外にも、年下の人間や若い女性から妙に慕われていたのは、悪い意味でのオッサン的性質が全然なかったことが(酒乱をのぞき)大きな理由であるはずだ。今日に至るまで僕がろくな恩返しができていなかったのは、そういう堀内さんの性格に甘えてしまっていた部分が多分にある。





きょう、お棺におさまっている堀内さんの顔をまじまじと見て、日本人にしては鼻が細くてシュッと高いことにあらためて気づいた。堀内さんは髪と髭ボウボウのキリストのようなルックスに隠されていたが、じつはけっこうな男前である。僕が初めて会ったときはすでにキリストだったが、まだ若かったこともあって顔つきのシャープさは隠しようもなく、さらに若いキリストじゃないころの写真などを見ると、えっというくらいのイケメンだ。まったくの宝の持ち腐れとしかいいようがない。


あまりにも突然のことで、まだご冥福をお祈りするような気持ちにもなれず、ぽっかりと穴が開いてしまったまま、思い出すことをだらだら書き綴ってしまった。お世話になったことへのお礼もなにもできないまま亡くなってしまったことがただただ悲しい。堀内さんには、思い残すこともなく、楽しい人生だったと思っていてほしい。それが堀内さんらしいし、そうであったら僕もうれしい。



【堀内さんの著作】









2019年7月1日月曜日

海外登山技術研究会に登壇しました




先週6月23日、日本山岳・スポーツクライミング協会が開催している「海外登山技術研究会」というイベントに登壇してきました。


このイベントは、澤田実さんが中心となって企画されてきたものですが、5月に亡くなってしまったので、急遽私に代役の依頼がきたというものです。講演的なものは苦手意識があるし、澤田さんの代役というのも正直荷が重いと思ったのですが、話が来たのがイベントまで2週間ちょっとというタイミング。迷っているヒマはないと思い、思い切って即断で引き受けました。


テーマは「無補給登山の可能性」。昨年、トランス・ジャパン・アルプス・レースを無補給で完走した望月将悟さんを主役に、「無補給」なる行為の意義や可能性について掘り下げようというものです。


澤田さんがこのテーマで何を表現しようとしていたのか、正確にはわかりません。が、なんとなく想像できるものはあります。


レースといえど、食料や燃料をすべて自分で持ち運ぶ行為は、まさに登山そのもの。そこに望月さんのような先鋭的なフィジカルを掛け合わせれば、これまでに考えもつかなかったようなことが可能になるのではないか。かつてヨーロッパの山岳スキーレースに刺激を受けて、冬の黒部横断でそれまでの常識を超えたような登山を実践した経験をもつ澤田さんであるからこそ、望月さんのチャレンジに特別な可能性を感じ取ったのではないか……。そういう方向なら話せることもあるだろうと。


そんな基本線に沿って、スライド使いながら30分ほどしゃべりました。詳しい内容は省きますが(トークの情報量ってすごく多くて、文字再現すると30分ほどでも1万字くらいになってしまうのです)、ひとつ、自分でもいいこと言ったなと思うのがこれ。




登山の原初的動機ってこれじゃないかと私は考えています。「行けなかった所に行く」ために、さまざまな技術や登り方を開発・発展させてきた歴史が登山にはあります。


エイドステーションや荷物のデポを前提とした山岳レースは、肉体的パフォーマンスを純粋に追求するには適した場ですが、レースの運営体制やコースが変われば、同じパフォーマンスは発揮できなくなってしまう。一方、デポや他人のサポートを前提としない望月さんの無補給スタイルならば、仮にコースが無人の原野を行く400kmに変わったとしても対応できるわけです。


どんな条件、どんなコンディションが出てきても突破できるような術を身につけることが登山の原初的目的であるとするならば、望月さんが目指したことはまさに登山の源流。


で、重要なことなんですが、源流がよいのは、たんなる懐古趣味とか伝統主義ということではなく、行ける場所の範囲が広がることにあります。だって、他人の助力なしに400kmの山岳コースを6日間で踏破できる能力があるわけですよ。それができるのならば、これまでは思いも付かなかった場所や課題すら視野に入ってくる可能性が広がるのではないかと思うのです。




ーーというようなことを、会場ではしゃべりました。


すると、望月さんは最前列で、「なるほど!」というような顔をしていました。いやいや、あなたのことですよと、ツッコミを入れる場面ですが、望月さんはキラキラした目で他人事のようにうんうんとうなずいているのです。


望月さん、まともに話したのはこのイベントがほぼ初めてでしたが、無邪気というか子どものような人でした。「これやりたい!」「おおーっ! やろうやろう!」という感じ? 「子どものよう」というと失礼にあたるのだとすれば、純粋というか。私がしゃべったような理屈っぽい動機で無補給チャレンジをやったのではなく、ただただ「それは面白そうだ」と感じて無補給をやったというのです。


この感じ、思い当たる人が他にもふたりいます。平山ユージさんと三浦雄一郎さん。彼らは、自分がやりたいと思ったことに一点の曇りももたず、子どものように全力で突き進めるメンタルをもっています。望月さんも同じ人種だった。話していて、ユージさんと三浦さんが思い浮かんでしかたなかった。


この人たちは、理屈抜きに直感で本質を突く能力をもっているところも共通しています。たとえばユージさんのレッジ・トゥ・レッジ。詳しい説明は省きますが、このことって、それまでのクライマーが全員、心のどこかに引っかかっていたことではありながら、見て見ぬふりをしてきたことであるのです。が、ユージさんはビッグウォール経験数回でこのことに気づき、裸の王様を指摘するがごとく、「だってそのほうがよくない?」と、まったくもってストレートにレッジ・トゥ・レッジを実践しました。これは世界のクライミング史に残る意識革命だったと私は思っているのですが、望月さんの無補給トライにも似たようなものを感じます。一流は、理屈抜きに一撃でコトの本質を見抜く能力を持っているのだと。


イベントでもしゃべりましたが、じつはこの無補給思想、トランス・ジャパン・アルプス・レースが始まったころすでにあったのです。




これは、トランス・ジャパン・アルプス・レース創始者である岩瀬幹生さんがレースを始める前、ひとりで日本海~太平洋トライを重ねていた20年くらい前に書いた記録の一節です。


レースが回を重ねるにつれて、途中の山小屋などで食料を補給することはほぼ前提となっていきましたが、創始者が最初に思い描いたのは無補給であったわけです。


「このこと、知ってましたか?」と望月さんに聞いたら、「いや、初めて知りました」と明るく答えました。やはり望月さんは直感で源流に行き着いていたのだ。





慣れないトークショー、しかも急遽代役ということで、かなり緊張して臨みましたが、まあまあしゃべれたかな。会場には私の妻(望月ファン)も来ていたので出来を聞いてみたら「すごく聞きやすかった。見直した」と言っていたので、まあよかったのでしょう。2週間背負っていた肩の荷が下りた気分です。




2017年8月17日木曜日

TJAR写真集外伝・高橋香と岩崎勉の熱走


先日発売された写真集『TJAR』の巻末に、トランスジャパンアルプスレース(TJAR)とはなんたるかという文章を書きました。


その最後のほうに、こんなことを書いています。


だれもがレースの主役であり、その証として、ゴールを果たしたときに、優勝者よりも周囲の感動を呼ぶ人も少なくない。


これだけ読むとなんだかきれいごとのようにも聞こえますが、ここを書いたときには、あるふたりの人物を頭に浮かべていました。


ひとりは、2006年の第3回大会で完走を果たした高橋香さん。もうひとりは、2016年の第8回大会で完走した岩崎勉さんです。




伝説のラストラン、高橋香


高橋さんは、2004年の第2回大会に初出場して、無念のリタイヤ。8日目の21時32分、制限時間まであと2時間半のところで心が折れ、井川でレース続行を断念しています。


どうしても完走を果たしたい高橋さんは、2年後の第3回大会にもエントリー。この大会は、出走者6人のうち4人が早々に脱落する波乱の大会になりました。高橋さんも前回よりは速いペースで進んだものの、南アルプスを越えて井川に下りてきたときには、すでに最終日8日目の朝8時。それまでのペースを考えると、制限時間内の完走は微妙という時間でした。


しかしここから高橋さんは、周囲が驚く激走を見せます。このとき、選手に密着していたカメラマンの柏倉陽介や運営の方から届く報告に、私は心動かされました。


「高橋さん、井川に現われました。今日中のゴールは難しいかも…」

「高橋さん、すごい勢いで走ってます!」

「コンビニで買い物中。元気そうです!」

「現在××地点。これ、もしかしたらいけるかも!!」

「19時25分、大浜海岸に着きました!!!」


このときの優勝者は、同じ日の10時48分にゴールした間瀬ちがやさん。これは現在のところ唯一の女性優勝という貴重な記録なのですが、私は高橋さんがゴールしたときのほうが感激しました。間瀬さんには申し訳ないのですが、それだけ、最後の高橋さんの走りは鬼気せまるというか、どうしても完走したいという執念を感じさせるものだったのです。まさに熱走。


今回、写真集の文章を書くために過去の記録を見返していて、高橋さんがこのラストランをどれだけがんばっていたのかという裏付けを発見しました。井川から大浜海岸まで、高橋さんの所要時間は約11時間。現在とはチェックポイントの位置が違うので正確な比較はできませんが、これは、昨年、4日23時間52分という驚異の新記録で優勝した望月将悟さんの区間タイムとあまり変わらないのです!


ふだんの高橋さんはもの静かで、情熱を内に秘めるタイプでした。その高橋さんが見せた完走への執念。そこに私は感動したのです。


ところが、翌年、高橋さんは奥多摩で行なわれていたレース中に、心臓発作で帰らぬ人となってしまいました。この知らせには本当に驚いたし、今でも残念でなりません。


ご両親・ご家族は、高橋さんが情熱を傾けたTJARを知りたい、なにか力になりたいという思いから、その後、レースの手伝いなどをされていました。このことにも、私は胸が熱くなるものがありました。




10年越しの完走、岩崎勉


もうひとりは岩崎勉さん。


2014年、南アルプス兎岳で(森山撮影)



岩崎さんは2006年の第3回大会に出場している、TJARの歴史のなかでもかなり初期メンバーのひとりです。これまで4回出場をしていますが、なかなか完走を果たすことができていませんでした。


2006 菅ノ台でタイムオーバー
2008 不参加
2010 選考会で出場資格を得られず
2012 タイムオーバーとなったが走り続け、8日23時間23分でゴール
2014 西鎌尾根で、救援者支援のためレース離脱


高橋香さんが激走を見せた2006年は、中央アルプスを越えたところでタイムオーバー。2012年は、8日間という制限時間を超えても、自身のチャレンジとして走り続けて太平洋に到達。このときすでにレースは終了しており、深夜でもあることから、海岸にはだれもいないだろうと予想していたけれど、多くの人が待っていてくれて感激したといいます。


台風の直撃を受けた2014年は、運営からの要請を受けて、自らレースを離脱。大荒れの北アルプス稜線上で、救援者の支援にまわりました。この直前には、コース上でうずくまっている選手を見つけ、安全を確認したので先に進んだものの、どうしても気になり、戻ったりもしています。本当にいい人なのです。


2016年大会の最終日、ネットでレースの動向をチェックしていた私は、その岩崎さんが、時間内にゴールできそうなところを進んでいることを知ります。がんばれ!! 思わず画面越しに応援の声をかけそうになりました。


そして17時48分。




どうですか、この最高の表情。私はこれを見たとき、涙が出そうになりました。TJARのゴールシーンというのは、だれもが最高の顔をしているのですが、わたし的には、この岩崎さんの顔がTJAR史上ベストです。


で、そう感じたのは私だけではなかったようです。


ここに私が大好きな一枚がありまして、残念ながら写真集には使えなかったのですが、ぜひ見てもらいたいので掲載しておきます。




ゴールに向かって砂浜にデカデカと書かれた「イワサキ」ロード。みんなが岩崎さんのゴールを心待ちにしていて、その瞬間がついにやってきた。もし私が岩崎さんだったら、これを見たら泣いちゃうと思います。


この年の大会は、望月将悟さんが大記録で優勝したのですが、少なくとも私にとっては、その優勝シーンよりも感動したゴールがこれでした。そしてそれは、私だけではなかったはずだと思うのです。






……と、選手の話を書き始めたらやっぱり長くなってしまいました。ともすればきれいごとに聞こえるわずか3行の文章の背後には、こういうストーリーがあったのです。


きっと、私の知らないところで、私の知らないストーリーもたくさんあると思います。写真集のゴールシーンを見ていたら、そんなことを感じました。思いが迫ってくるような見応えある写真の連続。






ということで、『TJAR』写真集、ぜひ見てみてください。高いのでなかなか手を出しにくいですが、ビクトリノックスの原宿神宮前店で、8月27日まで写真集見本の展示をしています。貴重な立ち読み可能な場所です。ほか、パネル写真の展示もしています。







さらに。
ただいま、北~中央~南アルプスのコース上にある山小屋全39軒に、写真集を背負って届けるというプロジェクトも敢行中です。1冊1.7kgあるので、「これ、手持ちで全部届けるのは無理だろ!?」と言っていたのですが、TJAR出走経験者が12人も協力してくれることになりました。これ以上ない強力な飛脚の登場により、今シーズン中に全冊配布を終えられそうです。一部の小屋にはすでに置かれています。ここも貴重な立ち読み可能な場所ですので、登山で寄った際にはぜひ見てみてください。





写真集「TJAR」 | tjar photo book on the BASE

TJAR Photo Book Facebookページ

2017年7月25日火曜日

TJAR Photo Bookできました

ここのところなにかと忙しく、ブログの更新もすっかり間があいてしまいました。この間、前回・前々回に書いた栗城史多さんの記事がプチ炎上状態でたいへんでした。会う人会う人から「読みましたよ」と言われ、ついには「栗城史多」で検索すると、このブログが1ページ目に表示されるという事態に。


じつはこの間、栗城史多さん本人にも会いました。あるメディアが興味をもってくれて、取材をしようとしたのですが、記事化は断られ、「会うだけなら」ということで、本当に会うだけ会って、1時間半ほど話をしてきました。


感想としては、前回・前々回のブログはとくに修正の必要はないな、ということ。そして、取材として受けてもらえない以上、これ以上こちらにはできることはないので、この件は自分的には終了というか、一段落という感じです。




で、まるで別件。


この間、すごい本の制作にかかわっておりました。15000円の写真集です。トランスジャパンアルプスレースという、世界一過酷な山岳レースを4人のカメラマンが追ったものです。箱入りハードカバー/布張り金箔押し/オールカラー160ページという、出版社勤務時代にもやったことのない超豪華な製本。私は巻末の文章執筆を担当しました。



2002年に始まったこのレース、当時から興味を持っていて、自分自身、取材をしたり、関係者に会ったりしたことも何度もあります。レースにかかわっている人たちがとにかく純粋で、レース云々もさることながら、その人間的魅力に惹かれました。おっと、ここを書き出すと10000字くらい止まらないので、そのへんの詳しいことはまた別の機会に。


写真集の発売は8月11日(山の日)。
発売に合わせて、出版イベントをやります。収録写真のパネル展示やスライドショー、トークタイムなどもやりますので、興味のある方はぜひお越しください。



日時:8月11日(金・祝・山の日) 10時~16時

会場:ビクトリノックスジャパン株式会社 1Fショールーム
   東京都港区西麻布3-18-5

スケジュール
10:00 オープン
10:30 カメラマンあいさつ&トークショー
12:00 スライドショー
13:30 TJARについてQ&A(岩瀬幹生・飯島浩ほか予定)
15:00 選手・主催者トークショー
16:00 閉会
*10時開場〜15時入場終了/16時閉会


予約や入場料は不要で、好きな時間に来て好きな時間に帰っていただいていい、フリー入場スタイルです。会場では写真集の展示即売のほか、収録写真のパネル展示などもありますので、好きに見ていってください。イベント内容については変更等もありえますので、最新状況は以下でチェックしてみてください。



写真集はただいまこちらで予約受付中。15000円の本を中身も見ないうちから予約する人はかなり稀だと思いますが、こちらもどうぞ見てやってください。



【追記】
タイトルに「できました」と書いてしまいましたが、まだできておりません。ただいま絶賛印刷・製本中であります。校了したというだけで、現物はわれわれもまだ見ていないのです。



2016年3月4日金曜日

BEYOND TRAIL マイトリー・カルナー


『BEYOND TRAIL マイトリー・カルナー』という写真集を買いました。


トレイルランニングをテーマにした写真集で、一昨年、マッターホルンで行方不明になった相馬剛さんというトレイルランナーをテーマにしたものです。


いわゆる私家版というかたちなので、書店などでは買えません。藤巻翔という知り合いのカメラマンが作っているらしいというのは、なんとなく風の噂で聞いていましたが、先月末に完成したというわけです。


藤巻くんというのは、アウトドアスポーツに強いカメラマンで、なんというか、「熱」を感じる写真を撮る男です。その熱を通じて、被写体の心の内が聞こえてきそうな写真というのか。ファインダーを通して人の心に焦点を当てているかのような彼の写真は、私はかなり好みなのです。


写真集は、藤巻くんだけでなく、計11人のカメラマンの作品が集められています。中身も見ないうちから、これは買いだなとポチってしまいました。


期待に違わず、とにかく気合いの入った写真が並んでいました。現在の日本のトレイルランニングのベストカットがここに収録されています。私はトレイルランニングはやらないし、とくに詳しくもないけれど、それでもグッとくるとても上質な本です。3000円は全然惜しくありませんでした。




で、本を手に入れるまで知らなかったのですが、山本晃市という男が編集を担当したようです。この男、じつは山と溪谷社でも枻出版社でも、机を並べて仕事をした仲で、しかも同い年。非常によく知っている男です。本の作りにまったく素人くさいところがなかった理由がこれでわかりました。


もっぱら「ドビー山本」の名で知られている彼がこの世界にかかわり始めたのは13年前。山と溪谷社で『アドベンチャースポーツマガジン』という雑誌を作り始めたときでした。


ドビー自身はトレイルランニングなぞまったくやらないただの酒飲みなのですが、たぶんこの世界の人たちの純粋さに感じるものがあったんでしょうね。トレイルランニングなんてだれも知らないような時代から、ひとりでこつこつと雑誌を作っていました。


どマイナーな雑誌だった『アドベンチャースポーツマガジン』を、かなりな広告収入が入る雑誌にまで育て上げた末に山と溪谷社を去ることになったのですが、ドビーなきあとの山と溪谷社ではこの雑誌をうまく運営できなかったようで、ほどなくしてなくなってしまいました。


彼は自分アピールをする男ではないので、あまり知られていないかもしれませんが、現在のトレイルランニングメディアの土台を作ったのは間違いなく彼です。それは雑誌を作っただけではない。彼は人材育成にも長けていたのです。


この写真集にも名を連ねている柏倉陽介や亀田正人といった、今をときめくアウトドアカメラマン。彼らは、ドビーがいなかったら今カメラマンをやっていたかどうかわかりません。彼らが大学を出たばかりで仕事のないフリーターのようだったころ、ドビーは自宅に泊めてメシを食わせてやりながら雑誌仕事を手伝わせていました。


そのうち、どうもふたりは写真が撮れるようだと気づいたドビーは、積極的に誌面で彼らの写真を使いました。当時としては大抜擢といっていい使い方だったと思います。そこで自信をつけた柏倉と亀田は、プロのカメラマンとして活動するようになっていったのです。


このふたりだけではない。11人のカメラマンのひとり、宮田幸司もそうです。スポーツカメラマンだった宮田さんをトレイルランニングの世界に引き込んだのはドビーでした。藤巻翔だってそのひとりといえると思います。


つまり、現在のトレイルランニング写真に欠かせないカメラマンの多くは、ドビーが育てた、あるいはドビーが発見した人材なのです。カメラマンにかぎらず、ドビーはそういう、人を巻き込む力に長けた男でした。




この写真集には、13人のトレイルランナーが文章を寄せてもいます。石川弘樹、鏑木毅、横山峰弘、山本健一、望月将悟、奥宮俊祐などなど……。いずれも、ひとりでもキャスティングできれば、雑誌の特集が成立するようなトップランナーばかりです。その人たちがこれだけそろって私家版の一冊に協力しているのは、第一に相馬剛さんのためでしょうが、ドビーが手がけていなければあり得なかったことだとも思うのです。


ドビーは見た目からはあまり想像できませんが、ドラマチックなビジュアルセンスに優れた男で、彼の作る誌面はいつも躍動感がありました。この本もそうです。ジェラシーを感じます。おれもぼけっとしてられないなと刺激を受けました。


写真集の詳細はこちらに。

Fuji Trailhead

ぜひ見てみてください。






【3月14日追記】

とてもすばらしい話を聞きました。


この写真集の印刷・製本を行なっているのは、大日本印刷と三共グラフィックという会社なのですが、これは、大日本が『アドベンチャースポーツマガジン』、三共は、ドビーがアドスポのあとに枻出版社で作っていた『トレイルランニングマガジン(タカタッタ)』の印刷・製本を行なっていた会社なのです。


両社は、この写真集の趣旨に賛同し、通常ではありえない「共同印刷製本」を行なったそうです。そんなの聞いたことがない。


本というと、書き手やカメラマン、出版社ばかりがクローズアップされて、印刷業者にスポットがあたることはまずないのですが、本の制作の裏側で彼らが果たしている役割は、きっと一般の人が想像する10倍くらいあります。


とくに、写真の発色などは職人ワザといえる領域で、どこ(具体的にはだれ)が手がけるかによって、「これ同じ写真?」というくらい変わってきます。写真を生かすも殺すも印刷業者次第。それくらい重要なパートなのです。


そんな彼らが異例のタッグを組んだというのは、なにかとてもグッとくる話でした。