2022年1月2日日曜日
2020年11月8日日曜日
よど号は終わってる
めずらしく登山と関係ないネタ。
私の祖父は50年前のハイジャック事件「よど号」の乗客だった。私はそのときまだ2歳半くらいだったのだが、無事帰還を祝って親戚が集まったのはうっすら記憶に残っている。私の人生でもっとも古い記憶がたぶんこれ。
本来、私の年齢ではよど号事件を覚えている人はほとんどいないはずなのだが、そういう特殊事情により、私は例外的によど号事件に関心があった。
昨日、そのよど号をテーマにしたトークイベントが開かれた。
北朝鮮にいるハイジャック犯も電話出演するという。これは見てみたいと思って、ツイキャスチケットを購入した。
見終わった感想は
最悪
のひと言だった。
まず、トークイベントとしてグダグダである。登壇者が言いたいことを長々演説するだけで、議論になっていない。司会もう少し仕事しろというところだ(2部は多少マシだった)。
次に、よど号の話がほとんど出てこない。イベントの紹介文にはこうある。
"半世紀もの間、彼らは何をし、何を考えたのか。関係者、識者、そしてピョンヤンからの彼らの電話も受けて、トークイベントを展開します。"
だが実際には、トランプとバイデンがどうのとか、菅政権がどうしたとかの話が大半で、よど号事件の話が深まることはまったくなかった。ハイジャック犯本人も電話で出演したが、意味不明のことを延々がなるのみで、完全に終わっている。みんなよど号事件になんかもう関心はないのだろう。
結局のところ、
「よど号50周年を肴に、好きな政治ネタで盛り上がろう」
という、内輪のしょうもないイベントであった。
1200円返してくれ。
2020年10月29日木曜日
堀内一秀さん、ありがとうございました
ライターの堀内一秀さんが亡くなってしまった。自分にとっては兄貴みたいな感覚の人だったのでとても悲しい。膵炎が急激に悪化したということだが、直前まで普通に生活していて、翌日には近ごろ取り組んでいた視覚障害ランナーの伴走の予定もあったというのだから、本当に突然のことだったらしい。
僕が堀内さんに初めて会ったのは、まだ学生だった1993年。アドベンチャーレースのレイドゴロワーズに誘ってもらったとき。奥秩父で夜間縦走のトレーニングをしたり、三浦半島でシーカヤックの練習をしたり、必要な装備調達にあちこち行ったり、アドベンチャーレースのイロハを教えてもらった。本番のマダガスカルでは、アスリート然とした屈強な海外勢にビビったけど、オレたちは知能で勝負しようと、堀内さんとタバコ吸いながら一生懸命地図読みしたっけ(でも完走できず)。
堀内さんはその後もレイドに挑戦し続けた。日本でアドベンチャーレースというと田中正人さんが有名だが、堀内さんは田中さんより2年も早くレイドゴロワーズに参戦し始めている。日本にアドベンチャーレースの種をまいたのは堀内さんであるという事実はここに指摘しておきたい。自己アピールがきらいな堀内さんは自分ではついぞそんなこと言わなかったけど。
僕は94年に就職したため、レイドには出られなくなった。当初は僕も再挑戦の意欲満々だったのだが、日々の忙しさの前にその意欲をだんだん失っていった。一方で堀内さんは挑戦し続けている。その姿はまぶしく映ると同時に、こんなことで意欲を失っていく自分を情けなくも感じた。
堀内さんはレイドに一段落つけたころ、僕が働いていた会社(山と溪谷社)の『Outdoor』編集部で仕事を始めた。アドベンチャーレースの兄貴に仕事場で会うのはなんとなく気恥ずかしいものがあった。その後、僕は会社を変わり、Outdoor編集部もなくなり、僕は編集者としてライター堀内さんに仕事を発注する立場になったりもしたが、僕にとって堀内さんはあくまでアドベンチャーレースの兄貴。仕事としての節度を保つ自信がなく、編集部のほかの人に「堀内さんて人がいるよ」と紹介するだけで、自分ではあまり仕事をお願いしたことはなかった。
それでも、何度か頼んでしまったことはある。それはいつもピンチのとき。「こんなこと堀内さんにしか頼めない」という案件のときだ。いちばんひどかったのは、朝9時ごろに電話して「きょうの17時までに1000字のコラムを3本書いてほしい」というもの。堀内さんは「今から犬の散歩に行くから帰ってから書くよ」と余裕である。ほ、ほ、堀内さん、明日の17時じゃなくて、今日の17時なんですけど……と言うと、「わかってる、わかってる」と言って、本当に17時前にコラムが3本送られてきた。内容は完璧であった。
仕事面においてはこんなことばかりだったので、堀内さんには助けてもらったという記憶しかない。いつかは恩返ししたいと思いつつ、その機会は失われてしまった。とても申し訳なく思っているが、堀内さんにそのことを言うと、「え!? 恩返し? いいよ、いいよ」と言いそうだ。コラム3本の件だって、「ああ~、そんなことあったな」くらいにしか覚えていないかもしれない。
堀内さんは恩着せがましいところや、年下の人間に対してマウントをとろうとするようなところがまったくない人だった。僕以外にも、年下の人間や若い女性から妙に慕われていたのは、悪い意味でのオッサン的性質が全然なかったことが(酒乱をのぞき)大きな理由であるはずだ。今日に至るまで僕がろくな恩返しができていなかったのは、そういう堀内さんの性格に甘えてしまっていた部分が多分にある。
きょう、お棺におさまっている堀内さんの顔をまじまじと見て、日本人にしては鼻が細くてシュッと高いことにあらためて気づいた。堀内さんは髪と髭ボウボウのキリストのようなルックスに隠されていたが、じつはけっこうな男前である。僕が初めて会ったときはすでにキリストだったが、まだ若かったこともあって顔つきのシャープさは隠しようもなく、さらに若いキリストじゃないころの写真などを見ると、えっというくらいのイケメンだ。まったくの宝の持ち腐れとしかいいようがない。
あまりにも突然のことで、まだご冥福をお祈りするような気持ちにもなれず、ぽっかりと穴が開いてしまったまま、思い出すことをだらだら書き綴ってしまった。お世話になったことへのお礼もなにもできないまま亡くなってしまったことがただただ悲しい。堀内さんには、思い残すこともなく、楽しい人生だったと思っていてほしい。それが堀内さんらしいし、そうであったら僕もうれしい。
【堀内さんの著作】
2020年10月23日金曜日
2019年1月3日木曜日
2018年7月7日土曜日
森山編集所は存在しません
うちひとりからは、「森山編集所の所長さんでしたか!」と言われました。いや、それはただのブログのタイトルであって、会社とかじゃないし、屋号でもないし、実態は単なる個人事業主なんです。所長も所員も存在しないんですよ。
そもそも、このブログタイトルは、室井登喜男製作所にインスパイアされてつけました。室井登喜男というのは、日本にボルダリングブームをもたらしたクライマー。彼が、自分のビデオとか書籍などを制作するときに使っていた名義が、この「室井登喜男製作所」だったのです。
最先端のクライマーが、それこそ「田中五郎商店」みたいな名前を使っているのが逆にカッコいいなあと印象に残っていて、自分も「森山編集所」という古くさいタイトルをあえてつけたというわけです。
が、3年ほどこのタイトルでやっていながら、自分的にあんまりしっくりきていないのも事実。そのうちブログタイトルは変更してしまうかもしれません。
2017年2月28日火曜日
PEAKS創刊前夜の話
先日の『PEAKS』のインタビュー取材のときに、寺倉さんから創刊のころのことを聞かれ、久しぶりに当時を思い出しました。パソコンをあさってみたら、最初に書いた企画書が出てきたので、昔話とともに紹介してみようと思います。
「登山雑誌、定期刊でやることになったから」
と、編集長の朝比奈耕太さんから電話を受けたときのことはよく覚えています。2009年4月初旬、松本のロイヤルホストの駐車場でした。そのとき私は松本在住の山岳カメラマンに写真借り&打ち合わせに来ていて、それが終わってさあ帰ろうというときでした。
当時、私は枻出版社に入ってちょうど一年。会社にも慣れてきて、自分の専門である登山のムックを夏前に出そうと動いていたときでした。山岳カメラマン氏には、それ用の写真の相談に来ていたのです。
「発売は5月21日ということで」
朝比奈さんはそう続けます。冗談言わないでください。あと1カ月半しかないじゃないですか。いや、発売10日前には校了していないといけないから、制作期間は1カ月。定期誌を1カ月で立ち上げられるわけないでしょ。普通は1年、短くても半年はかけますよ。
もちろん私はそう答えたのですが、「もう決まったので」と、取り付くシマがありません。いや、絶対無理だって。朝比奈さんだってわかってるでしょう。それでもやるって言うなら、おれはおりますよ。私はかなりエキサイトして電話口にそう吐き捨てました。
「とりあえず、なにができるか明日会議しましょう」
朝比奈さんがそう言って電話は終わりました。
枻出版社というのは、こういう急な決定や方向転換が多い会社で、この一年間、それに振り回されたことも少なくなかった私は、「もうやってらんねえ」と頭に血が上って、荒っぽく車のドアを閉めました。車を走らせ始めても、ムカつきがおさまらず、明日なんて言ってやろうか、辞表をたたきつけて帰ろうか、そんなことばかり考えていました。
中央高速を諏訪あたりまで来ると、ムカつきも一段落して、だんだん落ち着いてきました。……定期雑誌か。いくらなんでもできるわけないよな。定期誌といったらタイトルが必要だよな。そこからして白紙だもんな。どうすんだよ……。
そのうち車は小淵沢か韮崎あたりまで来ました。……やるとしたら、今進めてるムックをベースにするしかないよな。とはいえデザインはどうしたらいいのかな。ムックと定期誌じゃデザインの考え方も全然ちがうよな。デザイナーはピークスのだれになるのかな。
*ピークスというのは枻出版社の子会社のデザイン会社で、枻出版社の刊行物のデザインはここが手がけることになっています。
……そういえばピークスって、綴りなんだっけ。P・E・A・C・Sか。そうそう、PEAKじゃなくてPEACなんだよな。確か4つの会社のイニシャルの集合っていってたな。……PEACSがデザインする雑誌だからPEAKS! ダジャレか。くだらねえ~。
……けど、悪くないかもな……。P・E・A・K・S。ピークスか。山の頂上ってピークだもんな。
……あれ? これ、いいんじゃね? PEAKSって雑誌、ほかに……ないよな。えーと……うん、聞いたことないな……。え? こんな直球でいいの?
……いや、これだよ。これでいいよ。これでいいじゃん!
たぶん、この段階で双葉か甲府昭和あたりを走っていました。
枻出版社に入る前から、私はずっと、新しい登山雑誌を作るならなんてタイトルがいいか考え続けていました。でも、ピンとくるタイトルを思いついたことはありませんでした。考えつくのは、『Mountain Life』とか『Mt.Trip』とかヘボいものばかり。
私が登山雑誌のタイトルに必要だと考えていた要素は3つありました。
1)ひと目で山の本だとイメージできること
2)短いこと
3)カタカナであること
1)は説明不要かと思います。ひねった内容で攻めたいならともかく、ボリュームゾーンに訴えたいならこれは必須かと思うのです。
2)は、会話のなかでひとことで言えることを重視していました。たとえば「マウンテンライフ」だと長すぎて、ひんぱんに口にするには面倒です。すると、人はなんらかの略称で呼ぼうとする。そのときに「なんて略すればいいかな」と考えさせるのがいやでした。それはわずかな引っかかりですが、口にする人にストレスであることは間違いありません。そのストレスはわずかなれど、でも、そのわずかなストレスを億劫がってタイトルを気軽に口にできなくなるのです。一方で、略さないでフルネームで呼ぶ人もいるでしょう。すると、人々の間で雑誌は明確な像を結ばず、ということは、意識にしっかり定着しない。それは避けたいと思っていました。
3)は、旧来の雑誌とはちがう新規性を感じさせたかったからです。それまでにあった登山の雑誌は、『山と溪谷』とか『岳人』とか『山の本』とか、日本語タイトルばかりでした(昔は『アルプ』とかもありましたが)。それらとはちがう、新時代の山の雑誌である。ということを表現するには、カタカナ(外来語)が望ましいと思っていました。
私は車を走らせながら、PEAKSをこの1~3の観点からも検討しました。PEAKSはそのどれもを、完璧にクリアしました。
タイトルが決まった瞬間、「これ、できるかも」と、不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。あれだけ絶対無理だと思っていたことが、タイトルが決まったら、なんとかなるような気がしてきたのです。
同時に、PEAKSというタイトルに合わせて、雑誌作りに必要な要素がどんどん勝手に浮かんできました。想定読者層はどんなところにおけばいいか、どんな企画をやればいいか、デザインはどういう方向性で作ればいいか……。雑誌の大枠が頭の中で自動的に組み上がっていき、立体的な企画として立ち上がってきました。
甲府を過ぎたあたりからは、もう完全にやる気になっていて、考えることは、企画の内容や制作の段取りなど、具体的なことばかりになっていきました。帰宅したのは23時か24時ごろだったと思いますが、そのまま新雑誌の企画書を書きました。それがこれです。
明けて翌日の会議、辞表のかわりに、私はこの企画書をたたきつけました。会議の出席者は朝比奈さんと、ヤマケイ時代からの同僚、ドビー山本(山本晃市)。自信満々で出したPEAKSというタイトルは「いいじゃん」と受け入れられ、朝比奈さんはすぐさま社長のもとに報告に行きました。PEAKSというタイトルと聞いて社長は「そうきたか」とニヤッとしたそうで、B案もC案も必要とせず、すぐGOとなりました。
そのあとは、準備していたムックの企画を定期誌用に作り替え、新規の記事立案、連載等の準備、広告営業先のリストアップなどなど、嵐に巻き込まれていきました。
厳しい毎日が始まりましたが、タイトルロゴの作成は面白かった思い出です。PEACSデザイナーチームが、30個くらいのロゴを作ってくれました。それをテーブルの上に広げて、どれにするかを話し合うのです。そのなかに「お!」と目に止まるものがありました。以下のようなものです(私が記憶で再現したもの。本物はもっと完成度高かったです)。
これまでのメディアで知られていないだけで、それぞれに情熱をもって山登りをしている若者はじつはたくさんいます。
サラリーマンでありながら年間100日近くも山に通っている人、山好きが高じて山小屋に転職してしまった独身女性、さらには、高山植物の保護に情熱を傾ける自然公園管理官、新しい山小屋のあり方に日々アイデアを巡らせている若主人、そして、ヨーロッパのすぐれた登山カルチャーを日本にも導入したいと奮闘する若手ガイド、世界一の評価を受けながら国内ではほとんど知られていないクライマーなどなど……。
『PEAKS』は、そうしたこれからのロールモデルとなるべきさまざまな人を登場させることを通じて、山登りの新しい魅力を伝えます。次代の登山カルチャーを作り出すこと――それが『PEAKS』のミッションです。
2017年1月8日日曜日
2016年12月25日日曜日
アウトドアメーカーが食品?
アウトドアメーカーが食品事業というと聞いたことがなく、さすがユニークなことをやるなと思っていたんですが、現物を手に取っていろいろ眺めていたら、あっ! と気づきました。これまでもあったじゃん。しかもオレ、よく買ってたじゃんと。
2016年1月17日日曜日
登山は、数ある選択肢の中から最良のものを選び出せるかどうか
結局登山は、体が動くかどうか以前に、数ある選択肢の中から、最良のものを的確に選び出せるかどうかである。(中略)選択肢がたくさんあって、どれを選んでも問題のない山は、簡単な山。的確に選択できれば問題ない山が、中級の山。唯一の選択肢すら多少のリスクを含んでいるのが、難しい山、ということになるのだろうか。
(2015年10月号「今夜も焚き火を見つめながら」服部文祥)
つい最近、雑誌に「登山の実力を決めるのは、体力・技術・判断力の3要素」というようなことを書いたばかりなので、かなりピンときました。
服部さんは判断力のことを言っているのだけど、これが第一であることは、そのとおりだよね。
でもガイドブックのグレード表記には、体力と技術の指標は書いてあっても判断力の指標は書いていない。
そこがいちばん重要なんだけど、数値化はしにくいからなあ。
私もずっと同じように考えていたのだけど、
最近、やっぱり体力も重要だと思うようにもなりました。
体力がないと、正しい判断ができなくなる。
体が疲れると、考える能力が奪われるわけです。
登山経験が豊富なベテランが遭難するときは、こういうことなんじゃないでしょうか。
40代になってから、体力とは意識的に維持しないと衰えていくのだということを身をもって知りました。
判断力はあるつもりなんだけど、疲れてそれを生かせないような経験も何度かしたので、今年は体力増強をテーマにやっていきたいと思っています。
2016年1月1日金曜日
2015年4月1日水曜日
ブログはじめました
さて、その初エントリー、なにを書けばいいのかなと考えたんですが、まずは、自分がなぜいまの仕事をしているのかを書いておくことにしました。
「なぜ山のメディアをやっているのか」。
それにはふたつ理由があります。以前に書いた文章で、ちょうどそれをうまく説明しているものがあったので、ここに引用します。
まずは、『PEAKS』2012年4月号に書いた文章。
高校を卒業するまで、僕は山登りがきらいだった。小学校の遠足で行った丹沢の大山。列をなしてひたすら退屈な歩きが続く。こんなもの、なにがおもしろいのか。高校の部活に入ったら、隣の部室が山岳部だった。彼らは砂をつめたザックを背負って、校舎の周りを黙々と歩いている。ちょっとどうかしてる。そんなふうに眺めていた。
そんな自分が、たった一回の経験で山歩きの魅力に開眼したのが、神津島なのである。それは大学探検部での初の合宿だった。僕ら新人は、1年上の先輩とチームを組まされて、山のなかに放り出される。ルールはこうだ。わたされた全島地図には、10カ所くらいにポイントが記されている。これを翌日の昼までに全部まわってきて、一番速かったチームが勝ち。持ち物は食料と寝袋のみ。テントは禁止。夜はそのへんでどうにかしろというわけだ。
スタートしてすぐ、先輩が道の途中で立ち止まった。「行くぞ」と言って、わきのヤブのなかに突入していく。ええっ!! あまりのカルチャーショックに言葉がない。道がないところを歩くなんて発想は、それまでの人生にまったくなかったものだ。
その後はすべてこの連続である。地図を見て、行けそうなルートを探し、場合によってはヤブをかき分けてショートカットする。飛び出した先は、宇宙空間のような砂漠だったり、深く切れ込むゴルジュ帯(険谷)だったり、深い森だったり。コンパクトながら変化に富んだ神津島のさまざまな表情が次々に現れ、まったく飽きることがない。夜は、森の中で居心地のよさそうなところを見つけてゴロ寝。自分たち以外にはだれもいない野外の空気がダイレクトに感じられる。こんな気持ちのいい夜は経験したことがない。僕は一発で山歩きに魅了されてしまった。
それまで自分が山登りに抱いていた感情はなんだったんだろう。以来、いまに至るも信じていることがある。神津島でこのゲームを体験すれば、絶対に、だれでも山好きになるはずだと。これをやってみておもしろくなかったという人がいたら、そっちのほうがちょっとどうかしてる。
自分で進路を決め、工夫して苦労してたどり着いた先に広がる見たこともない風景。そんな山歩きを教えてくれた神津島。僕がいまだに山雑誌を作り続けているのは、ここで経験した楽しさをまだ全然、人に伝えきれていない――と感じているからなのである。
登山というと、もっさい印象をずっと持っていたんだけど、神津島で体験した山歩きは全然違ったわけです。それは頭と手と足を総動員するエキサイティングで知的なゲームだった。これは本当に新鮮な発見でした。
もうひとつの理由は、枻出版社を退社する際に同僚にあてたメールにうまくまとまっておりました。一部要約して引用します。
僕が学生時代、世の中はとんでもないスキーブームでした。大学のクラス40人中、スキーをやっていないのは2人だけ。そのうちのひとりが僕でした。
あるときクラスの女の子から言われたひとことを今でも覚えています。
「森山くんはなんでスキーやらないの?」
うるせーな、オレの勝手だろう。じゃあ聞くけどなんでオマエは山やらないんだ。それと同じだよ。……と言いたくてしかたなかったんだけど、もちろん言えませんでした。そんなこと言ったら「は? 山? この人、頭おかしいんじゃない?」と思われること確定。そんな時代だったんです。
その後ヤマケイに入って『山と溪谷』の編集者になったんですが、その当時は中高年登山が大ブーム。記事は中高年登山者を念頭において作ることがほとんど。「ヒザ痛を克服」とか「紅葉を愛でる旅」とか「健康登山」とか。まだ20代だった僕には欲求不満バリバリだったわけです。
いつかこの世の中を変えてやる。山登りが若者にとっても普通のレジャーであり、特殊な趣味ではない時代に。できたら、サーフィンのように、山やってるというだけでなんとなくカッコよく思われるようにまでなったらもっといい。そんな世の中にしたい。
そして当時のクラスの子に「え? まだ山やってないわけ?」と言い放つ(笑)。というのが、僕が山雑誌をやり続けた原動力なんです。
なぜ自分がいまの仕事をしているのかと考えると、その理由はすべて上のふたつに収斂することに、あるとき気づきました。1)自分でルートを決める登山はおもしろいということを知らしめたい。2)若い世代にも山の魅力を知ってほしい。――このふたつ。
2はこの数年でけっこう実現できたような気がしています(バブル時代を思うとまさに隔世の感だ)。でも1は? 神津島で感じたあの感動はまだまだ伝えられていない。だから今後は、そこを伝える努力をしていきたいと考えているところです。
登山はエキサイティングで知的なゲームなのだということを。