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2022年8月3日水曜日

「話す技術」と「書く技術」はまったく別物である

ある政治学者がいる。この人は知的な風貌に加え、つねに落ち着いた物腰、そしてFMパーソナリティのような深みのある声の持ち主である。昔からテレビ番組などでコメントを聞くたびに、説得力あるなあと感じていた。


しかしあるとき、この政治学者の言っていたことを、いつもほとんど覚えていない自分に気づいた。「あの人なかなかいいこと言ってたよ」と人に話を振り、「どういうこと?」と聞かれても、うまく説明できないのだ。「え~っと、あれ? どういうふうに言ってたっけ……?」


そんなことを何度か経験したあと、さらに気づいた。「じつはあの人、大したこと言っていなかったのでは……?」


よくよく注意して聞いてみると、「国際平和を実現するためには戦争をしないことが重要だ」とか、「日米関係でもっとも重視しなくてはいけないことは、日本とアメリカの立場である」みたいなことを、専門用語を交えつつ話を複雑にしながら、その持ち前の説得力ある風貌としゃべり方で語っていただけだったのである。


これは自分だけの発見かとも思ったが、そうではなかった。知り合いのライターがこの政治学者を取材したとき、取材現場ではひと言ひと言説得力抜群で、うんうんうなずきながらインタビューを終えたのだが、いざ文字起こししてみると、その内容のなさに愕然としたというのだ。そのライター曰く「あれは不思議な体験だったよ。取材中に感激していた自分はなんだったんだろう……」


この政治学者とは別の話で、取材中での同じような体験は私にもある。


ふたりの登山家の対談企画で、登山家Aは弁舌爽やかでよくしゃべる。それに対して登山家Bは言葉数が少なく、話したとしても、もごもごとしていてよくわからない。「これはAの圧勝になってしまうな……」。対談企画は、ふたりの発言の量と内容が均衡するのが理想である。ひとりの発言ばかりに偏った記事はいい記事とはいえないが、そんな記事にならざるを得ないことを私は覚悟した。


ところが、文字起こしをして対談の内容を精読して驚いた。あんなにキレのよかったAの発言は、文字で見ると思いのほか内容が薄く、逆に、まったく心に残らなかったBが意外なほどに深いことを語っていたことに気づいたのである。


Aは発言量は多いものの、よく聞くと同じ内容を繰り返していたり、テーマから外れたりすることも多く、そういう部分はある程度カットすることになる。逆にBの発言は、"えー" とか "うーん" などをカットして語尾を整えれば、ほぼそのまま使えた。しかも内容が濃い。結果的に、量的にも内容的にも、両者かなりバランスのとれたいい対談に仕上がった。



このふたつのエピソードから学んだことは、口頭表現と文字表現はまったく別物であるということ。


口頭で人に何かを伝えるとき、伝わるものの総量を100とすると、言葉だけで伝わるものは10もないといわれる。残り90は、声の調子や速度、大きさであり、または身振り手振りであり、表情や視線、服装や髪型を含めた外見などであったりする。話す内容よりも、話し方や見た目のほうがはるかに重要であり、人の心に残る9割はそちらであるというのだ。


一方、文章では、その90がほぼすべてカットされ、10しかなかった言葉のみに、受け手の全注目が集まることになる。となると、受ける印象がガラッと(ときには180度)変わるのも当然ではないだろうか。



じつはこの話、もっと深い結論に達することができそうだと思って書き始めたのが、ここまで書いてきて、これ以上はイマイチ展開できなくなってきたので、ひとまずはここで終わり。


2022年7月4日月曜日

わかりやすいことはいいことだ

こういう文章を読んだ。


価値というのはモノに内在しているという、長らく続いたモノを中心としたマーケティングの支配的思想が、サービス概念によって、価値は共創的に生まれると考えられるようにもなってきたように、マーケティングというものを「企業が顧客に働きかける活動」というものから、「企業と顧客間との相互行為である」というものとして、もっと思想を変えていかなければならないのだろう。


私はこれを読んだとき、文章の意味がわからなかった。もう1回読み返してもよくわからない。そこで3回目、文章構造に注意しながら時間をかけて読み直し、さらに4回目にして、ようやく、言わんとしていることがなんとなく想像できるようになった。


なんだかとても既視感のある文章だなと感じ、ちょっと考えた末に、高校時代の国語でよく見た文章に似ていると思い当たった。


私は国語がとにかく苦手で、好きでもなく、授業やテストが苦痛だった。問題文の意味がわからないのだ。どうやったらわかるようになるかの筋道も想像できず、なんのために自分はこんなことをやっているか理解もできないままに学生時代を終えた。


自分で言うのもまったく口幅ったいのだが、私の文章はわかりやすいと言われることが多い。これまた口幅ったいが、自分でもそう思う。なぜそうなのか、理由ははっきりしている。私が文章を書くときにいちばん気を配っていることが、わかりやすく書くことだからである。だからわかりやすくなるのは当然。むしろわかりやすくなっていなかったら、私の最大努力は実を結んでいないことになるので悲しい。


自分はなぜこんなにわかりやすさに固執するのかなと考えると、それは高校時代に苦しめられた恨みに起因している。あんな苦しい文章は読みたくないし読ませたくない。そんな思いがずっと心の底にある。わかりやすさを磨かせる強いモチベーションになったという意味では、国語の授業は私の糧になったともいえるのかもしれない。


まあ、その結果、私の文章は格調や味に欠け、ともすると安っぽく、ときには頭が悪そうにさえ見えるようになってしまった。しかし、文章の第一義は意味を伝えることにある。できるだけ多くの人に、できるだけ素早く伝達を達成できるもののほうが、文章として高性能といえるのではないか。国語の授業ではむしろこういう技術を勉強するべきではないのかと強く主張したい。


ところで、冒頭の文章を私がリライトしてみたら以下のようになった。元の文章で理解しきれないところもあるので、これで意味が合っているのかどうか、80%くらいの確信しかもてないけれど、どうだろうか。読解合ってるかな??


"モノ”を中心とする伝統的なマーケティングでは、価値は物に付随するというのが一般的な考え方であった。ところが、”サービス“という概念が普及した結果、価値は受け手と共に創りあげられるものと考えられるようになってきた。同じように、マーケティングも、「企業が顧客に働きかける活動」から、「企業と顧客との相互行為」としてとらえるようになっていかなければならないのだろう。



*私の高校時代に、わかりにくい文章を書く筆頭格として悪名高かったのが評論家の小林秀雄。ところが40代になってから、数十年ぶりに小林秀雄の文章を読んだところ、その格調高い言葉のチョイスと流れるように理解できる論理展開に驚いた。私が高校時代に苦しんだのはなんだったんだろう。



2022年7月1日金曜日

盗用とか無断転載とか著作権のもろもろ

あるYouTube動画に私が撮影した写真が無断で使われていて、クレームを入れたら動画は削除されたということがありました。こういうことたまにあって、以前もブログ相手にクレーム入れたりしたことがあったな。


私が編集仕事を始めたときに先輩から教えられたことってたくさんあるのだけど、「盗用をしない」というのは、そのなかでもトップクラスに重要なことのひとつでした。他人の文章や写真、イラストなどを無断で使ったことが発覚したら、その人の編集者人生・ライター人生はその時点でほぼ終了するーーというのが、業界の当然の認識だったのです。

しかしこれは出版や新聞、テレビなどあくまでマスコミ業界内の常識であって、一般の人にそこまで厳しい認識は求められていなかったと思います。ところがインターネットの登場によって、現在は1億(世界なら80億)総表現者時代に。すべての人に著作権の知識や認識が求められるようになってしまいました。


著作権というのは非常に難しい概念で、私も基本を理解するまでに10年くらいかかりました。新人に教えるにしても、手を変え品を変え、さまざまな事例を体験させながら、数年かけてようやっと理解してもらえるような代物なのです。

編集部に入ってきたばかりの新人が、記事中の写真すべてをネットでコピった写真で構成していることに校了間際の水際で気づき、深夜にあらゆる人に電話をかけまくって総動員状態で作り替えたりしたこともありました。当の新人にはもちろんキツイお灸をすえましたが、最初は「えっ、ネットからとってきちゃダメなんですか?」と真顔で言ってました。こいつが人一倍ダメだったという可能性もありますが、出版社に入ってくる人でも最初はこんなもんです。


こういう体験があるので、私自身はインターネット上での盗用には比較的寛容なほうだと自認しています。だって1億(もしくは80億)人に著作権のこの難しいルールを守らせるなんて無理だから。大きな問題が生じないかぎりは黙認でいいと思っているし、実際そうしてきたものもたくさんあります。

そもそも、現行の著作権法は時代に合っていないのです。基本的に紙・フィルム時代の表現を想定した内容になっており、これだけ多くの人が毎日大量の発信をし、表現の手段も多岐にわたり、しかもコピーが圧倒的に簡単になった時代にはまったく対応できていないのです。現代のインターネット表現において混乱や矛盾が生じまくってしまうのは当然のこと。


とはいえ、無法状態でいいと思っているわけではなく、個人的には以下のような基準を設け、ここに抵触するものにはクレームを入れるようにしています。

1)表現そのものよりも、明らかに金儲けが目的であるもの

2)著作者や、著作物に関係する人の尊厳を傷つけるもの

3)コピー作品が原作より影響力をもってしまう場合

今回の動画は2に抵触しました。1にも該当する可能性はありますが、そこは実情がわからないので不問。



ところで著作権について話をし始めると、どうしても理屈っぽくなってしまいがちです。「~をしてはいけない」という話ばかりで、「じゃあ、どうすればいいのよ!」という気持ちにもなります。そこで、いちばん重要なポイントをひとつだけあげておきます。


他人が作った表現物を使うときは、作者の許可をとる


これです。

これをやりさえすれば、トラブルを起こしてしまうことはほぼありません。

もちろん手間がかかりますよ。使用許可をくれない人だっているかもしれない。でもそこを怠ると、後々、思わぬトラブルに巻き込まれることがあるってことです。

個人的には、こんな面倒なことをしなくても、もっと気軽にコピー利用ができる新しい時代のルールや法律ができてほしいなと思っています。でも現状そうはなっていないので、最低限のルールは守らないといけない。ましてやプロであるなら(=金をとっているなら)、最低限では全然ダメで、最大限守らないとね。




【おまけ情報】

ここで激しくオススメの本を紹介しておきます。著作権の本を何冊読んでも一向に理解できなかった諸々の事柄が、この本を読んで私はすべて一掃されました。


改訂版 著作権とは何か 文化と創造のゆくえ


著作権の本って、「著作権とは、財産権、人格権、隣接権から構成されており~」なんて説明から始まるものが多いのですが、この本はまったく違います。「アンディ・ウォーホールのキャンベルスープの絵は権利侵害に当たるのか」とか「マッド・アマノのコラージュは著作権侵害に当たるのか」など、実際に問題になった実例をもとに、著作権なるものの勘所をじつにわかりやすく面白く解説してくれています。

なにより私が目を開かされたのは、著作権法の「真の目的」。著作権というと、著作者の権利を守ることばかりが注目されますが、法律の真の目的はそこではなく、創作行為をより活発にすることにあるのだというのです。パクられ放題の世の中だと、バカバカしくなって創作などする人がいなくなってしまうので、そうならないために著作者の権利を守る。順番が違うのです。

この根っこを理解させてくれるところが、この本の最大の価値かなと思います。ここさえわかっていれば、あらゆる裁判の判例もなぜそういう判断になるのか概ね理解できるようになるし、自分の身の回りの事例もこの根っこから延長して判断できるように私はなりました。

私はこの旧版を持っていて、編集部の新人に著作権について教えるとき、まずはこれを読めといつも推薦していたのですが、今本棚を探したら見つからない。だれかに貸したまま借りパクになっていると思われます。

とにかく、ここまで読んできて、著作権に興味をもった人には、この本を読むことを超絶オススメします!


2022年6月2日木曜日

アルパインクライミングとバリエーションルートと本チャンの違い

ロープやクライミングギアを使うなど、普通の登山と比べて難しい登山行為をなんと呼ぶか。いろいろ呼び方はあるのだけど、そのそれぞれが人によって少しずつ認識がズレていることを感じる機会がしばしばあるので、ここで整理してみようと思う。



アルパインクライミング

急峻な岩場や雪、氷などが出てくる難しい山を登ること。



マッターホルンやアイガーなど、ヨーロッパアルプスの山がまさにこれに当てはまります。アラスカやロッキー山脈、南米のアンデス、ニュージーランドのサザンアルプスなどもそうですね。ヒマラヤでやっていることも大きくとらえればアルパインクライミングといえるのですが、8000mなど標高が高くなってくると独特の行動様式やスキルが必要になってくるので、そこは「高所登山」として分けて考えるほうがよいと思います。

日本でアルパインクライミングに相当するのは、まずは冬の岩壁登攀。「冬壁」などといわれるやつです。剱岳や穂高、谷川岳、八ヶ岳などが代表的。

剱岳の岩壁や岩稜は、夏でもアプローチにそこそこの雪上技術を要求されるので、アルパインクライミングといっていいと思います。一方で、瑞牆山のマルチピッチルートなどは氷雪要素ゼロなのでアルパインクライミングではない。夏の北岳バットレスや谷川岳一ノ倉沢などもアルパインとはいいにくいけど、わずかに簡単な雪渓があったりもするので微妙なラインといえなくもない。――という感じ。


瑞牆山のマルチピッチルート


夏の谷川岳一ノ倉沢


これは夏の剱岳八ツ峰




バリエーションルート

ノーマルルートの対概念。

登頂しやすい一般的なルートがまず存在することが条件で、それ以外の登路をバリエーションルートと呼ぶ。

たとえば槍ヶ岳でいえば、もっとも登りやすいノーマルルートは、槍沢(もしくは飛騨沢)~山頂。それに対して北鎌尾根はバリエーションルート。登山道がなく、北鎌尾根でもない場所を千丈沢かどこかから適当に登ってもそれはバリエーションルート。

ここには、雪や氷があることとか、クライミング技術が必要とかの条件はありません。その意味では、沢登りは多くの場合、バリエーションルートに当たります。「多くの場合」と書いたのは、まれに、山頂に達するにもっとも容易なルートが沢登りになる山もあるからです。


ここで説明のために極端な例をあげましょう。

下の写真は私が昔登ったアフリカの岩山ですが(サントメ・プリンシペ民主共和国のピコ・カン・グランデ663m)、私たちが初登頂であり、いちばん簡単そうなところから登ったので、やってることはクライミングそのものではありますが、「バリエーションルートを登った」とはいえません。

近ごろ、欧米のクライマーが数パーティ訪れて私たちよりはるかに難しいルートで登頂に成功しています。彼ら彼女らが登ったのがバリエーションルートということになります。




逆の極端な例をあげると、高尾山北面の樹林をヤブこぎして山頂に達するのはバリエーションルートといえます。




本チャン

古い山ヤにしか通じない言葉かも。これはゲレンデの対概念です。

昔は、ゲレンデと呼ばれる近郊の岩場でクライミング技術の練習をしてから、剱や穂高、谷川岳などのルートに向かうのが一般的でした(関東では三ツ峠や越沢バットレス、関西では六甲堡塁岩などがゲレンデとして有名)。

「ゲレンデは卒業して、そろそろ本チャン行くか!」

なんて会話が行なわれていたものです。要するに、本チャン=本番という意味ですね。

ただし、フリークライミングの普及にともなってゲレンデという呼称がほぼ死語になったので、その対概念たる本チャンも自動的に死語となりました。

――となるのが本来であるはずなのだけど、なぜか本チャンだけは今でもけっこうしぶとく使われているようです。山岳会で登山を覚えた人とかが使っているのかな?




以上のことからまとめると

・アルパインクライミングは登山のカテゴリー

・バリエーションルートは登山ルートの種別

・本チャンはゲレンデの対義語

ということ。

それぞれまったく別のレイヤーの話なのです。


なのだけど、これを全部同じ意味でとらえている人も少なくないようです。私も言葉を扱う仕事をしていなければ、そんなにこだわらなかったと思いますし、難しい所を行くチャレンジングな登山を「アルパイン」とか「バリ」とか「本チャン」とかの言葉でざくっとひとまとめに言い表すのが便利であることも確か。

ただし、もともと意味が異なる用語なので、正しく使うにこしたことはない。人それぞれに認識のズレがある用語を使っていると、コミュニケーションにもズレが生じるし、これから登山を始めようとする人が混乱してしまうこともあるだろうしね。。



2022年4月14日木曜日

『さよなら、野口 健』感想


この本、面白かった!

一冊を通しての感想は、とにかく「野口健、めちゃくちゃ!」ということ。

気まぐれで、意味不明にすぐキレ、感情的でありながらも計算高く、一方で、情に厚い部分もあり、不可能を可能にする行動力には目を見張り、放ってはおけない人間味というか可愛げもある。この本で書かれている人物像が実像なのだとすると、そのへんにはそうそういない、きわめて奇矯な個性だといえる。私は読んでいてスティーブ・ジョブズを連想してしかたがなかった。

以下、感じたことを思いつくままに列挙しておこう。



■野口健、めちゃくちゃ

良くも悪くも野口健、すごい! もうその印象に尽きる。ここまでむちゃくちゃな人だとは知らなかった。それはたとえば以下のようなものだ。


・大スポンサーがついたエベレスト遠征を「どうしてもピンとこない」という理由で中止

・当時の総理大臣、橋本龍太郎に初対面でイヤミを突きつける(この逸話は私も知っていた)

・事務所からの独立に際して、「この人がすべてを仕切ってくれるから電話して」と、ある弁護士を小林さん(本書の著者)に紹介するが、小林さんが電話すると「野口さんなど知らない」と言われる(しかし事態はうまくいく)

・同じ選挙区で立候補している、党が異なるふたりの政治家を両方公然と応援する

・急にフリーズして執筆途中の原稿データが消えてしまったパソコンをピッケルで破壊

・別の会社に転職した小林さんの名刺を「こんなものは認めん」と言って食べる

・植村直己の妻の公子さんにエベレスト出発前に験担ぎの儀式をしてもらったという、著書や講演会でよく語られている有名なエピソードがあるが、それはほぼ事実ではなかった

・富士山の環境保護に関する記者会見に地元首長を招待。会見場では首長たちの席はなぜか壇上になっており、戸惑う首長をよそに、「野口健氏と各市町村、がっちりタッグ」などと報道されてしまう


もうわけわからないけど、とにかくすごいよ、野口健。こうした「トンデモ人物伝」としてだけでも、本書は楽しめるのではないだろうか。


■是々非々

野口さんに関する文献といえば、「すごい」と称賛するものか、「ニセモノだ」と批判するもののどちらか。しかし本書は、野口さんのダメなところもいいところも、どちらもイーブンに記している。私はここにとても好感をもった。人というのは、そもそも一面的には判断できないものだ。どんな人にだっていいところがあるし、悪いところがある。そこを誇張することも隠すこともなくさらけ出しているのが本書のいいところだと感じた。


■文章が読みやすい

元マネージャーが書いた本だというので、それなりに読みづらいものかと思いきや、とても文章が達者でスルスルと読める。私はほぼ1日で一気に読んでしまった。文章には勢いがあり、読ませる力がある人なのだと思う。本書中でも語られているが、著者の小林元喜さんはもともと小説家志望だったのだという。なるほど納得である。


■ただし構成はややまとまりなし

最後、叙述が駆け足になった印象あり。8~9割くらいまではいいテンポで進んでいたのだけど、最後、バタバタッとエンディングに向かってまとめた感があり、読後感が消化不良でもったいなく感じた。あと、本書を通じて時系列がいまいちわかりにくかったりして、一冊の本としての構成は少々雑に感じる。


■著者の小林さんもクセ者である

小林さんは、学生時代に作家の村上龍の実家にアポなしで突撃して執筆の手伝い仕事を獲得したり、石原慎太郎の自宅にまたもアポなし突撃して、公式サイト制作の仕事を獲得したりもしている。このこと自体がちょっと普通じゃなく、このあたりは野口さんにそっくりだ。さらに、元マネージャーというが、途中で3回もやめている。仕事はできるようだが激情家でもあるようで、野口さんとは似たもの同士だったのかもしれない。


■著者の事情を語る部分は好みが分かれるかも

本書は野口健の人物伝ではあるが、同時に、著者の小林さんの人生の記録ともなっている。そのため、野口さんとは関係がない小林さんの私生活についても、けっこうな字数を費やして記されている。本に奥行を与える必要な記述と私は感じたが、「おまえの人生には興味ないよ」と、余計な部分に感じる人もいるかもしれない。



いずれにしろ、野口健に少しでも関心のある人なら興味深く読める一冊になっていると思う。一気に読める勢いがあるのでおすすめである。

あと、「面白い」だけではなく、考えさせられたこともあった。それについてはイマイチ考えがまとまっていないので別の機会に。





2020年4月28日火曜日

感情に訴えかける言葉は難しい

【この記事は玉城デニー知事を批判する意図はまったくないことを先にお断りしておきます】


「収束後に笑顔で沖縄を訪れてください」玉城知事、GW訪問自粛を再度呼び掛け - 毎日新聞


このニュースをテレビで見ていた妻が「笑顔で訪れてくださいはおかしくない?」と言いました。私はとくに気にしないで見ていたのですが、言われてみればそのとおりだ。


これは、コロナウイルス感染拡大防止のため、ゴールデンウイークに沖縄に来ないでほしいと玉城知事が訴えるコメントを報じたものなのですが、その前の文章を含めるとこう言っています。


”どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することを控えていただき、収束後には是非、笑顔で沖縄を訪れてください。”


妻が言うには、「笑顔で訪れてください」ではなく、「笑顔でお迎えしたい」というべきだと。沖縄に来ないでほしいということに重ねて、笑顔で訪れてほしいとまで要望するのはやや傲慢に聞こえてしまうというのです。



「どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することを控えていただき、収束後には是非、笑顔で沖縄を訪れてください。」

 ↓

「どうか今は来沖を我慢していただき、沖縄に帰省することも控えていただけないでしょうか。収束後には必ず、笑顔でお迎えすることをお約束いたします。」



確かに後者のほうが爽やかで好感度が高く聞こえる。


まあ、私は気づかなかったくらいで微妙な違いではあるのですが、気づく人は気づくし、聞く人に与えるニュアンスの違いがあることは確か。


日常の会話ではどちらでもいいような違いですが、要望やお詫び、センシティブなテーマのときなどには、こういう微妙な違いに気を配れるかどうかが、問題の解決を左右することもあります。私はお詫び文を書くときには、助詞は「が」がいいのか「を」がいいのかレベルで吟味することもあります。それによって人に与える印象が変わってしまうこともあるからです。


たかが言葉ですが、されど言葉。自分も言葉を扱う者として気をつけたいところです。





*テレビのニュースでは、上記のコメントしか放映していませんでしたが、実際は玉城知事はそれに続いて「その時は最大限の『うとぅいむち』、おもてなしで皆様をお迎えさせていただきます」と言っていたそうです。玉城知事はおそらくこのへんのニュアンスの違いをある程度意識していたであろうことと、報道の切り取りの危うさを感じました。


2019年8月17日土曜日

わかりやすい文章にするためのたった3つの簡単なコツ

あおりタイトルです笑


知り合いとツイッターで法律文のわかりにくさについてやりとりをしていたところ、思いついたことがあったので書いておきます。わかりにくい文章とその改善策についてです。


私が以前勤めていたころの『山と溪谷』編集部では、プロライターはあまり起用せず(起用したくとも登山のプロライターがほとんどいなかった)、登山家や山小屋の人、カメラマンなどに原稿を書いてもらうことがほとんどでした。彼ら彼女らは文章の専門家ではないので、文章にはそれなりに難があります。そこを編集者が手を入れて読みやすく整えるということをしていました。


そんなことを毎月、何年もやっていると、ある一定の傾向が見えてくるもの。文章を書き慣れていない人がやってしまいがちな問題点。


いろいろありますが、もっとも単純かつもっとも頻度が高いものを挙げるとすると、以下の3つになります。


・文章が長い
・語順がおかしい
・接続詞が多い


以下解説します。





文章が長い


”秋の唐松岳はダケカンバやナナカマドの紅葉だけでなく、頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海や劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽、街灯りと満天の星空など秋ならではの素晴らしい光景が期待できる。”


これは実際に私が受け取った生原稿の一文です。途中で「ん?」と思って前に戻って読み返したりしませんでしたか。問題はいくつもあるのだけど、まずは一文が長すぎるのです。


この文章の構造はこのようになっています。


秋の唐松岳は
・ダケカンバやナナカマドの紅葉(だけでなく)
・頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海(や)
・劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽
・街灯りと満天の星空
など秋ならではの素晴らしい光景が期待できる。


秋の唐松岳には4つの魅力があると言っているわけですね。しかし、「秋の唐松岳は」と始まった文章が結論を言うまでに4つの要素を入れてしまっているので、読み手はなんの話だったのか途中でわからなくなってしまうのです。


この場合のいちばん簡単な修正法は、文章を短く切ることです。


たとえばこんなふうに。


”秋の唐松岳の魅力は、ダケカンバやナナカマドの紅葉だけにあるわけではない。頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海、劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽、街灯りと満天の星空など、秋ならではの素晴らしい光景も期待できる。”


だいぶ読みやすくなったんじゃないでしょうか。もともとの文章が言葉足らずなので、(の魅力)とか(にあるわけ)などの補足が必要で、後半では、助詞「や」や読点「、」を数カ所調整もしていますが、読みやすくなったもっとも大きな理由は、文章をふたつに分けたことにあります。


一般的に、わかりやすい文章を書くには一文を50字以内にとどめたほうがよいといわれます。これは経験的にもそんな感じかなと思います。作家を目指しているとかでもないかぎり、文章は50字といわず短いほどよいです。長い一文を誤解なく読ませるには技術が必要だからです。


試しに、私がここまで書いてきた一文の平均文字数を数えてみたら、約37字でした。20字台がもっとも多くて9文、次に30字台の6文。それに対して、例に出した原稿の一文は98字。この長さをスルッと読ませるにはそれなりに工夫が必要です。


【まとめ】
ひとつの文章はできるだけ短く!(50字以内が目安)





語順がおかしい


”富士ノ折立からは、剱岳が残雪をいただいた内蔵助カールの後方に顔を出す。”


これはおかしいところたぶんすぐわかると思います。


"富士ノ折立からは、残雪をいただいた内蔵助カールの後方に剱岳が顔を出す。”


こうすればよいわけですよね。簡単な修正ですが、こういうの非常に多いです。


なぜこうなってしまうかというと、書き手の頭のなかには剱岳がもっとも印象的な光景として残っているからです。なので、真っ先に「剱岳が!」と言いたくなってしまう。まずそれを言って落ち着いてから、補足的な状況描写を書くと、上の文のようになってしまうというわけです。


この文章はこういう構造になっています。


(富士ノ折立からは)
・剱岳が
・残雪をいただいた内蔵助カールの後方に
顔を出す


「剱岳が」も「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」も、どちらも「顔を出す」につながります。


こういう場合は、「短い言葉ほど近くに置く」という原則を守るだけで、俄然誤解が少なくなります。「剱岳が」のほうが「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」より文字数が少なく短い。そういう言葉ほど、つなげたい言葉の近くに置く。これ、とても単純な原則ですが効果絶大です。


一方、上の文章がこういう構造だったらどうでしょう。


(富士ノ折立からは)
・残雪をいただいた剱岳が
・内蔵助カールの後方に
顔を出す


もともとの文章では「残雪をいただい」ているのは内蔵助カールですが、今度は剱岳が「残雪をいただい」ている状況を書きたい場合。


1)富士ノ折立からは、残雪をいただいた剱岳が内蔵助カールの後方に顔を出す。

2)富士ノ折立からは、内蔵助カールの後方に残雪をいただいた剱岳が顔を出す。


この場合は1のもともとの語順のほうが明らかに誤解が少ないですよね。誤解が少なくなる理由はいくつかあるのですが、「短い言葉ほど近くに置」いていることはそのひとつであります(短いといってもこの場合はわずか1字ですが。それでも重要です)。


このあたりのことは、本多勝一氏の『日本語の作文技術』という本に非常に詳しくかつわかりやすく載っています。私は学生時代にこの本を読んで、とても影響を受けました。このこと以外にも、わかりやすい文章を書くためのコツが満載なので、激おすすめしておきます。



【まとめ】
長い言葉ほど遠くに、短い言葉ほど近くに置く!





接続詞が多い


「そして」とか「しかし」とか「ところで」とか「だから」とか「したがって」とか「ところが」とか「それから」とか「あるいは」とか「また」とか「なぜなら」とか「すなわち」とか。


接続詞って息つぎみたいなもので、なんとなく使われているケースが多いのです。よくよく考えるとそこに意味はないんだけど、「なんとなく」使うと、「なんとなく」文章がまとまったような気がして、つい使ってしまうんですよね。


これはたくさん使ったからといって文章がわかりにくくなるというわけでは必ずしもないのですが、文章がギクシャクして読みづらくはなります。


とくに個人的に注目しているのは「また」。「これは○○である。また、あれは××である」などと使われるアレです。好きな人はほんとによく使うけれど、これは意味のない接続詞の筆頭格で、経験的に9割の「また」は不要です。「また」を外すことで前後の「てにをは」を整える必要がある場合もありますが、そのまま外してしまっても問題がないことも多いです。そして、「また」を外したほうが、往々にして文章のリズムはよくなります。


たとえばこういう文章。


”花崗岩と砂礫の斜面は、雨後や霜が付いている時は滑りやすいので特に注意が必要だ。また下山時も同様である。”


この原稿を私はどうリライトしたのかなと思って、誌面を見てみたら、こうなっていました。


”花崗岩と砂礫の斜面は、雨後や霜が付いているときは滑りやすいので特に注意が必要だ。下山時も同様である。”


後者のほうがすんなり読めませんか(そうでなかったらすみません)。そもそも前者の「また」は、ほとんど機能してないよね。


「また」には、文章のリズムを悪くするほかに、文章を堅苦しくするという効能もあります。ここで「又」なんて漢字を使えばダブルでその効果が期待できます。クレームや抗議文などで相手を脅かしたいときには多用するといいのかもしれませんが、日常文章では使わないのが吉です。


もちろん、接続詞には使わないとならないものもあります。「しかし」とか逆説の接続詞なんかはその代表格。そのほかにも、文章のリズムを整えるためだけに使いたくなることもあります。私自身が、リズム整えのための接続詞を多用してしまうほうです。


ただし一般的には、接続詞はできるだけ使わないようにしたほうが文章は読みやすく、すっきりするはずです。「できるだけ使わないぞ」と意識すると、使いたくなったときに、文章の意味を通すために別の表現を考えざるを得なくなります。たいていの場合は、ちょっと考えると別の表現が見つかるんですよ。これは文章トレーニングにすごく効果的だと思います。実際、私は他人の文章をリライトすることでこれを毎月繰り返しているうちに、表現の引き出しがすごく増えました。だからおすすめなのです。


接続詞を使わないですむ表現がどう考えても見つからない場合。このときこそが、接続詞を使うべきときなのであります。こういう、ここぞというときに放つ乾坤一擲の接続詞は、逆にすごい切れ味を持ちますので。


【まとめ】
「また」は使用禁止!





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ところでツイッターにも書いたのですが、「一文が長い」ということでこれまでもっとも印象に残っている文章があります。「号泣議員」として有名になった野々村竜太郎氏のブログなのですが、その長さはまさに超弩級。すごいです、どうぞ。


”特に本日、裁判を受ける義務を果たすために、テレビ局やラジオ局、新聞社、通信社、週刊誌や漫画・アニメ等出版社、インターネット新聞・テレビやブログ・ツイッター・フェイスブック等、フリージャーナリスト等全てのマスコミ、報道機関等に関係される皆様が第一回公判では300人以上も押し掛け、自宅や家族宅の生活圏に近付かないのは勿論、何人たりとも皆様と出会わず撮影されず取材強要されず無事に出廷し帰宅するためにも、是非とも何人たりとも皆様が押し掛け出廷や帰宅の妨げをされませんように、テレビ局やラジオ局、新聞社、通信社、週刊誌や漫画・アニメ等出版社、インターネット新聞・テレビやブログ・ツイッター・フェイスブック等、フリージャーナリスト等全てのマスコミ、報道機関等に関係される皆様に対しまして、コメントや会見は一切致しませんし、建造物侵入等自宅や家族宅の訪問やインターホンを鳴らしたりカメラを操作・名刺や手紙等を投函・待ち伏せ、付きまとい、張り込みや監視する行為等、制作者・著作者・著作権者でございます私のブログや写真、映像、YouTube、Facebook等を無断無許可で転載や引用、紹介等する行為、私や家族を記事や放送等で名誉毀損・信用毀損・侮辱・誹謗中傷等全ての人権侵害や「誤報」・迷惑行為・加害行為、公益・知る権利・報道の自由・公平で公正な「事実や真実」を伝える報道のためでもなく憲法第14条の精神も知らず、主に誹謗中傷や名誉毀損等人権侵害を行うことで出廷前に私や家族を社会的に抹殺することで視聴率・購読数・閲覧数・スポンサー便宜等営利目的や自分達の仕事・報酬のために、資本力や同じ人間の所業ではない常軌を逸した異常な組織的人海戦術に物を言わせることで公平で公正な「事実や真実」を隠蔽したりグレン・ホワイトの実験、ディパヤン・ビスワスやルビー・ドラキアの報告結果等の応用を悪用した編集や情報操作等、事件と無関係の事柄や、裏付け・検証の行われていない公平で公正な「事実や真実」と異なる報道、私を無断無許可で撮影する全ての行為やその撮影された写真や映像を記事や放送で使用する全ての行為、3時間以上にも及ぶ私の会見映像や無断無許可撮影した映像等を私や家族を社会的に抹殺するためにご都合主義に基づいた編集等を施した上で、名誉毀損・信用毀損・侮辱・誹謗中傷等全ての人権侵害と私が思料したり、事件と直接関係ない記事や放送等での使用、私に取材強要する等接触や暴行、話し掛けや強要、追い回しや脅迫などの全ての迷惑加害行為、その取材等の際の音声を記事や放送で使用する全ての行為等を固くお断り申し上げ、ご遠慮されますよう、お願い申し上げます。”



なんと約1100字、一気の長文です。この間、「。」はひとつもありません。これほどの長さの一文には滅多にお目にかかれません(なんですが、判決文とか法的文章には珍しくないんですよね。なんと2000字という一文まであると聞きました。正確な伝達がもっとも必要とされる文章でなぜそうなのかは本当に謎です)。


この文章には「無駄に漢字が多すぎる」という問題もあり、突っ込みどころ満載。リライト素材としては20年に一度級の超大物。これを見つけたときは、ふらっと釣り(ネットサーフィン)に出かけたら、500kgのマグロがかかってしまったような感覚でした。これをわかりやすい文章に直すのは相当に骨が折れますが、リライターとしては腕が鳴るところであります。




2018年11月10日土曜日

角幡唯介、ノンフィクション本大賞受賞


ノンフィクション本大賞2018 - Yahoo!ニュース

角幡唯介が、Yahoo!ニュース本屋大賞「ノンフィクション本大賞」を受賞した。本屋大賞といえば、いまやある意味、芥川賞や直木賞よりも価値がある賞。今年から新設されたノンフィクション部門の大賞第一号が角幡というわけだ。私は角幡が書く文章の大ファンであるので、受賞はとても喜ばしい。


以前、このブログで角幡の文章の魅力について書いたことがある。そちらもぜひ読んでいただきたいのだが、じつは本当に読んでほしいのは、最後に紹介している角幡自身のブログの文章である(タイトルはここには記せない)。


『外道クライマー』書評




実際に会う角幡は、どちらかというと表情の変化がないほうで、しゃべりも訥々としており、あまり切れ者という印象がない。ところが著作から受けるイメージはキレキレであり、そのギャップにとまどう。どちらが角幡の真の姿なんだ。


7年前、角幡が2作目の著作『雪男は向こうからやって来た』を出したときに、『PEAKS』にその紹介記事を書いたことがある。これも角幡の人物と文章のギャップについて書いていた。この文章はいまでも自分的に気に入っていて、埋もれさせるにはもったいないので、PEAKS編集部の許可を得ずにここに再掲します。






<以下再掲>

 もう15年くらい前になるけれど、角幡唯介とクライミングに行ったことがある。先にばらしてしまえば、角幡は大学探検部で私の後輩にあたる。私はすでにOB、角幡は入部して間もないころで、岩場で会ったのが初対面だった。

 このときの印象は「野人のような男だな」という一点につきた。とにかく目つきが鋭い。いまよりやせていて顔つきももっとシャープだったと思う。そんなハングリーむき出しのような風貌が強く印象に残っている。

 そして日本語で会話をした記憶がない。憶えているのは、「ウオッ、ウオッ」という、うなるような相槌だけだ。それだけ聞くとほとんど類人猿のようで、本人には失礼な話だが、でも、自分にとってはそういう印象しかなかったのは本当なのだからしょうがない。

 その後は会う機会はほとんどなく、たまに人伝てに噂を聞く程度だった。しかし伝わってくる話は、やっている活動の内容にしても言動にしても、猪突猛進というイメージのものばかりで、私の第一印象を裏付けるだけだった。行動力は人一倍ありそうだけれど、知的なタイプではないのだろう。だからその後、上級生になってクラブのリーダーに就任したと聞いたときはちょっと意外に感じた。

 角幡は大学を卒業して朝日新聞の記者になった。これにはもっと驚かされた。当時の朝日新聞といえば、日本一入社するのが難しい会社のひとつだ。獣を思わせた肉体派の男が、いったいどうやって入ることができたのか。私にはわからなかった。

 角幡は、朝日新聞に入社する前、破天荒な人物として知られるあるクライマーと、登山経験皆無に近い女性歌手との3人で、ニューギニアまでヨットで渡り、ジャングルを踏破し、トリコーラという標高5000m近い山の北壁を初登攀するということをやっている。後年、ひょんなことからその女性歌手と知り合った私は、壮大な冒険行でありながら、どこか珍道中ともいえるその旅の実態を聞いたことがある。私にとっての角幡像は、エリート記者よりそちらのほうがしっくりくるものがあった。

 そして昨年の『空白の五マイル』である。それを読んで申し訳なく思った。こんなにも緻密で論理的な仕事ができる男だったとは。なにより、まったく非日常なテーマながら、ふつうの読者に刺さる言葉をきちんと選び出し、決してマニアに走らない。そのバランス感覚に本当に感心した。これは野人どころか、かなり頭がキレるやつでないとできない話だ。

 それは今回の本にも共通している。雪男がテーマというと、多くの人は「大丈夫か、こいつ?」と思うにちがいない。安心してほしい。角幡は雪男の信者ではない。むしろ懐疑的なスタンスだ。そんなものにどうしてこれだけ多くの人が惹かれ、人生をかけてまで探そうとするのか。それを元新聞記者らしい多面的な取材と人物描写で説いてくれている。

 昨年、穂高に行ったときに山中で偶然、再会した。久しぶりの角幡は、とてもやさしい笑顔を見せるようになっていて、もちろん日本語もしゃべっていた。しかし体は格闘家のようになっていた。「クマみたいだな」と思った。

 野人からクマ。格が上がったのか下がったのかわからないけれど、少なくとも野人イメージはもう消えた。だから許してくれ、角幡。

PEAKS 2011年12月号 p.97より>








この『PEAKS』12月号、たまたま別の記事で角幡のインタビューが5ページにわたって掲載されています。当時角幡が住んでいた東長崎のボロアパートで取材が行なわれ、柏倉陽介が撮影した印象的な写真が使われています。そちらも注目です。





↑一瞬混乱するかもしれませんが、私のツイートではなく、ライターの森山「伸也」のツイートです(血縁関係はありません)。穂高で角幡に会ったとき、私はこの伸也くんと一緒だったのです。ちなみに、当該の号に載っているインタビューは伸也くんが書いているものではありません。彼によるインタビューはそれより前、2011年2月号に載っています。




なお、ニューギニア冒険の話は、この本に詳しいです。著者の峠恵子さんが件の「女性歌手」です。この本、冒険界きっての奇書といわれるくらいとんでもない本で、峠さん自身も相当ぶっとんでいます。本を読んでいると、3人のなかで角幡がいちばん常識的な人間に見えるくらいです。





2017年11月22日水曜日

「校正」と「確認」は違うぜよ

【メディア業界の専門的な話です】

最近、というかここ7~8年くらい、「校正確認」という言葉を見聞きする機会が増えました。記事を作る際に協力してもらった人や企業・団体などに、内容に問題がないか確認してもらう作業のことを指しています。しかしこの言葉、違和感がありまして、個人的には使わないようにしています。


なぜかというと。


「校正」というのは、誤字や脱字など、文章上のミスを正す作業を指します。「生年月日が違ってます」とか「価格が間違ってます」とか「こんなこと言ってません」とか、そういう事実を正す作業は、「校正」ではなく、たんなる「確認」であるからです。


ところが、だれが言い始めたのか、私の周りでは日常的に聞きます。編集者などに「校正確認すんでますか」と聞かれるたびに、「ええ、『確認』ずみです」などと、意地を張って校正という言葉を使わないようにしたりしているのですが、あまりの多さに面倒で流すときもあります。


そんな細かい言葉の問題にこだわらなくてもいいのかもしれないけれど、こだわりたい理由があります。それは、「校正確認お願いします」と頼むと、「えっ、あんたが書いた文章のミスをおれが正さなきゃいけないの?」と受け取る人がいるから。「そんなやついないよ」と思う人は、日常的に校正という言葉を使っていて、校正という言葉に対する感覚が麻痺しているのでしょう。普通の人は日常で校正なんて言葉は滅多に使わないので、「校正お願いします」と言われたら、辞書どおりの意味にとってしまうものです。


だから、「校正確認」やめようぜ、という話でした。「校正確認撲滅委員会」でも立ち上げようかな。同志募集。


*これ、もしかしたら私の周りだけで起こっている事象かもしれません。同じ出版・メディア業界でも、私の付き合いのないところでは「なんじゃそりゃ、そんな変な言い方しないよ」というところが大半という可能性もあります。



2017年9月22日金曜日

雑誌とウェブの文章の違い

近ごろウェブに文章を書く機会が増えた。雑誌と決定的に違うのが文章量の制限。雑誌は文章量のしばりというのはかなり厳しく、1行単位できっちり合わせていかないといけない。「3000字」という原稿があったとしても、それはWordとかで文字カウントした3000字ではなく、「16字×187行」だったりするわけである。この場合、許される誤差はプラスマイナス7文字程度となり、かなり精度の高い文字数管理が必要になる。写真のキャプションなんかは1文字2文字単位で字数調整をしなくてはならないこともしばしば。一方ウェブは、おおまかな目安はあっても、基本的にアバウトであり、3000字の依頼のところを5000字書いてもそんなに問題はない。雑誌原稿の場合、文字数を気にして端折った説明にならざるを得ないことも多かったので、書きたいだけ書けるのはいいなあと感じている。だけれども、こちらに慣れてしまうと文章が冗長になりがちという落とし穴があることにも最近気づいた。雑誌原稿のように制限があると、限られたなかでいかに密度濃く伝えられるかということに心を砕く。それはしんどい作業ではあるのだけど、考えて工夫せざるを得ないだけに、表現の幅や語彙は増えたような気がする。新聞などは雑誌よりもっと文字数制限が厳しいので、そこで日々文章を書いている新聞記者が簡潔でわかりやすい文章を書けるようになるのは当然のことといえよう。ところが、新聞記者あがりの作家・角幡唯介が言っていたのだけど、新聞記者をやっていると、文章があまりに簡潔になりすぎて、味わいのある文章とか長い文章が書けなくなってしまうのだという。となると、制限はあったほうがいいのか、ないほうがいいのか、どちらなんだ。ということがよくわからなくなったところで本日の文章は終わり。(732字)

2017年5月15日月曜日

『本の雑誌』はいい匂い





『本の雑誌』という雑誌に、座談会が掲載されました。


この雑誌、椎名誠さんらが創刊した雑誌で、私の妻が愛読していました。その関係上、自宅にもそこらにバックナンバーが転がっているため、なじみはあったのですが、掲載されたのは初めて。本人よりも妻がテンション上がったようで、ライターとしての家庭内評価は確実に上がったようです。


届いた掲載誌の封を開けると、紙とインクの匂いがふわーっと香りました。昔よく嗅いだ記憶のある、懐かしい本の匂い。なぜか最近の本では嗅いだ覚えがありません。紙とインクを昔ながらのものを使っているのでしょうか。これがなんともいえないいい匂いで、鼻をくっつけてくんくん嗅いで恍惚としていました。新聞とか本の匂い嗅いでこういうことしていた人多いんじゃないでしょうか。私なんぞはそのうち、たまらなくなって新聞紙食べてしまったことさえあります(少年時代)。こういうインクにはシンナーとか中毒性のある成分が入っているんでしょうか?


匂いのことを妻に言ったら、「本の雑誌はそうなんだよ!」と言っていたので、たまたまではないのでしょう。まさか、使うインクや紙を匂いで選んでいるとか!? 座談会の原稿のまとめも的確なもので、さすが本をテーマにした雑誌だなーと思ったのでした。



2017年1月30日月曜日

私のきらいなネット記事4つの条件

日々、インターネットを眺めていて、「こういうのはイヤだ」と感じる記事の条件がいくつかあります。それは以下のようなものです。


1.目次がある

こういうやつです。

目次


別に目次自体がきらいなわけではありません。本などの目次は便利です。いやなのは、目次を作るまでもないほど短い記事に目次があること。目次を見て「おっ」と思った項目に飛んだら文章3行だったなんてげんなりです。でもよくあります。




2.「続きを読む」

タイトルに興味をもってページを開いたら、冒頭の文章が3行くらいだけあって、「続きを読む」とか「本文を読む」とかいうクリックボタンがついているもの。PV稼ぎが目的なんだと思いますがうざいです。


1ページの文章量が600字くらいしかなくて、それが6ページ続くなんてやつも同じです。新聞とか出版社系などオールドメディアのサイトに多いです。「公称○万部」とかいって本当はその半分以下というカルチャーに慣れ親しんでいた精神がなせるわざなのでしょうか。




3.意味のないイメージ写真

こういうやつです。


もちろんイメージ写真すべてがダメなわけではありません。ここぞと計算して使われる適切なイメージ写真は、本文のイメージをまさに何倍にも増幅してくれる効果があります(小説の挿絵などもそうです)。


私がいやなのは、本質的になくてもよい、「なんとなく」の写真です。そう感じる写真は、ほとんどが以下のどちらかだと思います。

1 表現技術が足りないことによって、イメージとしての写真が機能していない
2 「写真を入れるとSEO的によい」として入れているもの


このへんよく知らないのですが、写真や目次を入れるというのは、SEO的に有利に働くんですよね。たぶん。だからイメージ写真も目次も必要ないのに入れるんですよね。でもそれは読み手には何も必要ないわけで。必要ないものを見せられてうざく感じるのは当然でしょう。


ちなみに上のイメージ写真はぱくたそというフリー素材サイトからお借りしました。このサイト自体はとても便利なのですが、便利すぎるから安易な写真使用も増えてしまっているのだと思うのです。本当はいいイメージ写真って撮るの大変なのだよ。




4.「いかがでしたか?」

いかがでしたか? こういうサイトってイヤですよね?


というまとめ方をしてる記事。別に「いかがでしたか」という言葉にはなんの罪もないのだけど、こういうまとめ方してる記事、やたら多いと思いませんか。どいつもこいつもいかがでしたかで大格みたいでうざいなーと思っていたら、先日、インチキ記事を量産して炎上→サイト閉鎖となったDeNAパレットの事件でわかりました。こういうテンプレートになっていたんですね。




「イヤだな」と感じる代表的な条件をいくつかあげてみましたが、これらにはひとつの共通点があります。それは「読者のことを考えていない」ということです。自分の都合でやっていることばかりなのです。そりゃー読み手としてはうざく感じて当然じゃないでしょうか。


自分が書くものはこういうことはしないようにしようと、反面教師としてふんどしを締め直しているのです。






【追記】

もうひとつ思い出した! タイトルに「○○の5つの条件」とか「○○が知っているたったひとつの真実」とか付けてるもの。それを皮肉ってタイトルも変更しました(元は「私のきらいなネット記事の条件」)。


このへんを強烈に皮肉った最高のブログ記事があります。この人のライティング能力は天才的です。



2016年12月13日火曜日

人名はフルネームが基本だ

カメラマン 中西氏が語るαシリーズの魅力と解説

こんな告知を見ました。


「中西氏」ってだれ? カメラで中西というと、中西俊明さん?(山岳写真家です)と思ってしまったけど、中を見たら中西学という、私が知らない人でした。


雑誌編集部にいたときに、ライターや部下の原稿によく指摘をしていたのが、「人名はフルネームで書け」ということ。2回目以降は下の名前を省略して「中西氏」でもいいけれど、初出はフルネームが基本。これは不特定多数の人に読ませる文章の基本原則なのです。


でもなぜか下の名前を省略してしまう人が多い。本当に多い。なぜそうしてしまうかというと、書いている自分がよく知っている人だから。わざわざ下の名前まで書かなくてもわかるだろと、無意識のうちに略してしまうのです。だけど、それを読んでいる人が(たとえば)中西学さんを知っているとはかぎらないわけです。つまり、これをやってしまうということは読者のことに意識がおよんでいない証なのです。


なんか説教くさくなってしまったけど、職業柄、このことはものすごく気になります。人名はフルネームで書こうぜ!

2016年9月21日水曜日

わかりやすい文章は武器だ

本日話題になった衝撃的な記事。サッカー専門誌で、当事者に取材せずに創作でインタビュー記事が作られていたという告発だ。

サッカー専門誌「エア取材」横行か――作家の検証と告発


それに対して、告発された側の雑誌編集長がすぐさま反論。取材経緯を細かく説明することで、事実無根であることを主張している。

『エアインタビュー疑惑』という捏造記事について


主張は真っ向対立。いったいどちらが真実を語っているのかさっぱりわからない。雑誌作りにおける不祥事というのは、職業柄ある程度見当がつくことが多いけれど、この件に関してはまるでわかりません。


ただ、ふたつの記事を読んで感じたことがひとつ。


前者の記事が論旨が明快でわかりやすいのに比べて、後者の反論記事はいまひとつ内容がすっと頭に入ってこない。話をごまかそうとして不誠実に書いている印象はないのだけど、ちょっとわかりにくくもどかしい。そのもどかしさはかすかなイラつきにつながり、わずかでも自分をイラつかせたことによって、話の真偽とは関係なく、感情的にそちらに味方したくなくなってしまう。


今回のふたつの記事は、いまのところ論証している事実の強さに差はないように思えるのだけど、このわかりやすさの差によって、前者に肩入れする読者のほうが多いような気がする。


前者は入念に準備した乾坤一擲の告発。それ対して後者は、急遽一日で書かざるを得なかった反論なので、文章の完成度的に不利な立場であるのは同情すべきところ。しかしそれにしても、もう少しわかりやすく書けなかったかな……。


わかりやすい文章を書けるというのは、大きな力であるのだなあと思った一件でした。

2016年4月3日日曜日

『外道クライマー』解説

もう本当にすばらしい。おれもこういう文章を書いてみたい。いや、『外道クライマー』のことではありません。その巻末に掲載されている「解説」のことである。筆者は角幡唯介


こみいった話をするする理解させる叙述力、品のある言葉のチョイス、絶妙のさじ加減に抑えたジョーク、すべてがすばらしい。登山や冒険の奥底の魅力というのは言葉ではとても表せないモヤモヤとしたものなのだけど、角幡の手にかかれば明快な理屈になってしまうので、本当に不思議だ。というか、うらやましい。


ここのところ、もうすっかりこの男の文章のファンである。こっそりマネさせてもらっているが、彼の新作をあらためて読むと、やはり全然およばないことに気づく。


角幡の文章をひとことで表すと、「端正」という言葉がいちばんしっくりくる。非常に的確な言葉だと思うのだが、残念ながらこれも私の言葉ではない。高野秀行の言葉である。さすがに文章でメシを食っている人は言葉のチョイスが違う。


高野と角幡は大学のクラブの先輩と後輩にあたるのだが、なんだかPL学園野球部で、先輩の清原や桑田、後輩の前田健太などの天才にはさまれた世代の上重聡のような心境だ。一応おれも甲子園(商業誌)には出たし、自分ではそこそこイケてるつもりだったのだがなあ。


つい最近、その『外道クライマー』を買って、冒頭の一章と巻末の解説だけ読んだ。どちらもたいへん面白く、これから先の読書を期待させてくれた。その解説だけ、ネットで読めるようになっていたことに気づいた。


『外道クライマー』スーパーアルパインクライマー宮城 - HONZ


本に掲載されている解説と同じ文章(のはず)。ぜひ読んでみてほしい。


私的に最高に気に入っているのは、最後の1行である。本を読まないと意味がわからないかもしれないが、もう最高。角幡はこの1行を書きたいがために、えんえん文章を書き連ねてきたんじゃないだろうか。いや、きっとそうだ。強烈なオチになってます。


似たような1行オチで、私が絶品級に気に入っている文章がある。それがこれだ。


おちんちん


こうして記すのをはばかられるタイトルだが、これは角幡がつけているタイトルだから私にはどうしようもない。タイトルはひどいけど(でもこれでいい)、ブログに書くにはもったいないような名文です。ぜひこちらもお読みください。






2016年3月19日土曜日

編集人生最大のリライト

先日、平山ユージさんの文章のことを書いたときに、リライトについて少しふれた。これについて思うことがあるので書いておこう。


私が以前編集をしていた『山と溪谷』という雑誌は、私がやっていた当時は書き手の7割がアマチュアだった。プロのライターは3割。いや、もっと少なかったかな? 執筆をお願いする人は、登山家であったり、カメラマンであったり、山岳会の書ける人であったり。ショップや山小屋の人に書いてもらうことも少なくなかった。


彼ら彼女らの書く文章は、当事者であるだけにビビッドで臨場感があるのが最大の魅力。それに対してプロライターの書く文章は読みやすく整っているけれど、よほどうまい人でないと「熱」が伝わりにくい。当事者が書くのと取材したプロが書くのとどちらがいいのか。これは私の中で結論は出ていない。ケースバイケースということなのだと思う。


それはともあれ、アマチュアの書く文章というのは、「文章」としては当然、難が多い。それを読者にわかりやすく整えるのが、当時の『山と溪谷』編集部員の大きな仕事だった。つまりリライトである。


私がこれまで行なったリライトで最もすごかったものは、ある山小屋の主人に書いてもらった原稿である。2500字という依頼だったのだが、送られてきた原稿は箇条書きが10行! 当然、これではどうしようもないので、私は主人に電話をかけた。


「原稿いただきました! ……が、さすがに少なすぎて記事にならないので、もうちょっとふくらましていただけないでしょうか?」

「やっぱりあれじゃだめですか……」

「ええ……。こちらでフォローもできるんですが、それにしても、もうちょっと分量がないと……」

「いろいろ考えたんですが、あれくらいしか思いつかなくて、編集部でなんとかならないでしょうか」

「(ううっ!)いやー……。なにかもうちょっとエピソードなどあればなんとかなるんですが、10行ではさすがに……」

「そういえば、先日取材で来られた○○さん(編集部の同僚)が、いろいろ聞いていかれました」

「(その話を聞いてこちらで書いてくれってことか)ああ……、はあ……」


こんなやりとりをしばらく交わした末、これ以上文章を書いてもらうことは難しそうだと判断した私は、思い切ってインタビューに切り替え、10ポイントの箇条書きについて、詳しい話を掘り下げて聞くことにした。それをもとに自分で作文しようと決断したのである。


取材で訪ねたという同僚に聞いた話も参考にして、私はリライト(?)にとりかかった。主人は素朴な人柄で、ひとりで小屋を切り盛りしているという人物。へんにこなれた文章にしてしまうと違和感があると考え、わざとぎくしゃくした文章を作ったりもした。結果、素材(主人と小屋のエピソード)がよかったこともあって、なかなかいい文章が仕上がった。


確認のため、主人にファクスで送る(90年代はファクスと郵便が原稿やりとりの中心手段だった)。主人の返事はこのひとこと。


「すばらしい校正ありがとうございました」


これって校正というのか? と思いつつ、その主人に憎めない人柄を感じていた私はそのまま校了。思わぬ苦労はしたけど、なにか清々しい思い出となった。


その文章、後年、単行本化されて以下の本に掲載されています。どこの小屋の文章か探してみてください。わかるかな?




ちなみにこれ、1月にひとつの山小屋を取り上げて、そこで働いている人に書いてもらうという連載でした。地味なモノクロページだったのですが、どういうわけか読者の反響がよかったのです。やっぱり当事者の書く文章には力があるということの証だったのでしょうか。


……プロでない書き手の文章一般のことを書こうと思っていたのだけど、山小屋主人のリライトの思い出が強烈すぎて長くなってしまったので、また今度。

2016年3月2日水曜日

ウェブ記事について思ったこと

軽量・快適・機能的。多彩な顔ぶれのMILLET(ミレー)新作ライトウェイト・バックパックから目が離せない


ボケーッとネットサーフをしていてなんとなく目にとまったこの記事。「なんかまた宣伝用の中身がスカスカな記事なんだろうな」と思っていたらさにあらず。いい記事でした。


ミレーの30リットルクラスのザック3種類を紹介しており、それぞれの違いをていねいに解説しているのです。言葉をつくし、写真もちゃんと撮り、最終的にそれぞれに合った用途も提示してくれています。


これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは「うらやましい」ということ。ひとつの道具にこれだけの文章量を尽くして説明できる場は雑誌にはほとんどないのです。通常、雑誌で道具を解説するときに確保できる文章量は、これの10分の1くらいでしょうか。


だから雑誌の登山ライターは、そのかぎられた字数のなかにできるだけの情報を工夫して入れ込もうとするのです。でもやっぱり量を尽くさないと表現できないことは間違いなくあって、その点、必要と思えばいくらでも(といってもある程度の上限はあろうけど)書けるウェブ記事はいいなあと。


とくにこの記事みたいに、似たような道具の違いを表現するには、これくらいの情報量はやっぱり必要だと思うのです。これだけ言いたいことを思う存分書き切れる量があったら気分いいだろうなあ。


そしてエラそうな言い方になってしまいますが、この記事を書いている人の説明は的確だと思いました。おそらくはミレーから提供を受けているPR記事なんだと思うのですが(ちがったらすみません)、宣伝ありきの内容ではなく、ちゃんと役に立つ記事になっています。書いているのがザックをよくわかっている人なんだと思われます(このサイトの内情も書いている人も全然知りませんが)。


ふたつ苦言を呈すると、


ひとつはタイトル。「目が離せない」というのはちょっと安っぽい……。いや、本当に「目が離せない」と思ったんなら、迷わず使えばいいと思うんです。ただその場合は、目が離せなくて興奮している熱が本文にも乗り移っているはず。この記事からはそういう熱は感じなかったので、その場合は別の言葉を探したほうがよかったのでは。中身も安っぽい記事だったらマッチしているんですが、よくできた記事だけにもったいないと思いました。


もうひとつは本文ラスト。

「ただ、メリット・デメリットというのも人によっては逆転しうる可能性もあり、あくまでもひとつの目安として、最後には必ず実際に自分で背負った感覚を大事にしてくださいね」

惜しい! 惜しいよ! 

これありがちな締め方なんだけど、いいこと書いてきながら最後がこれだと、ぶち壊しになってしまうと思うんですよ。「いろいろ書いてきましたが、結局は個々人の感覚なんで……」と言われると、「じゃあ、これまで読んできたのはなんだったの?」という感覚に読者はとらわれてしまうんです。ここは自分の意見を言い切って終わってほしかったな。


なんかえらそうですみません!