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2017年5月2日火曜日

ウーリー・ステック、エベレストで遭難死




一昨日から私のフェイスブックやツイッターのタイムラインが、ウーリー・ステック遭難死のニュースやコメントで埋め尽くされています。「著名登山家エベレストで死亡」と、テレビのニュースでもやっていました。これは異例なことです。登山家としてのステックの存在の巨大さを表していると感じます。


ここ10年ほどの世界の登山界で、ステックが突出した存在であったことは間違いないでしょう。彼は、アイガー北壁を2時間ちょっとで登ったり、エルキャピタンの「ゴールデンゲート」をほぼオンサイトする技術の持ち主でありながら、高所でも抜群の強さを見せていました。近ごろ、強いアルパインクライマーは6000~7000m級のテクニカルな山を指向することが多いのに対して、ステックは常に8000m峰をねらっていました。K2西壁とかマカルー西壁とかの夢の課題をやれるとしたら、ステックが間違いなく第一候補だったわけです。


この春、ステックがエベレストとローツェの継続をやるという話はなんとなく知っていました。しかし、エベレストとローツェの継続登山というのはすでに何人もやっていることなので、あまり興味を持っていませんでした。ろくに調べもせず、「ステックは今年は休養の年なのかな?」なんてうっすら思っていただけだったのです。


しかし今回あらためて知ったのですが、ステックは、エベレスト西稜から入って、エベレスト~ローツェのラウンド縦走をしようとしていたのでした。彼のオフィシャルサイトに予定コースの写真が載っています。




休養の年だなんて思っていて申し訳なかった。これは猛烈に難しい縦走で、何十年も前から、だれもが思いつくけどだれもできなかった課題なのです。「世界最難の縦走」と言っていいと思います。これをやれるとしたら、やはりステックしかいないでしょう。


5年前、栗城史多さんがエベレストにトライしたとき、こんなツイートをしたことがあります。


エベレスト西稜を無酸素ソロで登ることがどれほど不可能に近いことかは、ヒマラヤ登山をやっている人ならだれだってわかるはずなのです。そこをルートに選んでいるということは、山頂まで行く気はないのだなと判断するしかありませんでした。


ただ、このとき、数人だけ、このルートをやれるかもしれない人が頭に浮かびました。その筆頭がステックでした。


今回、ステックは、その西稜を登って、さらに、ローツェまで縦走するという、夢の課題にトライしようとしていたのです。彼ならやれたかもしれないし、この縦走を完成させたら、ステックの輝かしい登攀歴の終盤を飾る金字塔になったはず。


ステックもすでに40歳。この登山を自身の集大成のつもりで臨んでいたのかもしれない。それを考えるととても残念です。ご冥福をお祈りします。





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2015年12月10日木曜日

アディダス・ロックスター

今ごろですが、ただいま発売中の『PEAKS』12月号(1月号が12月15日発売なので、発売期間はあと4日!)に、9月末のドイツ取材の記事を書いています。&撮っています。


取材したのは、アディダスが主催する「ロックスター」というボルダリングコンペ。
この手のコンペとしては、世界でも最大規模で、近年注目されているコンペです。


確かに、徹底的にショーアップされていて、イベントとしての完成度はとても高いと感じました。

・会場は横浜アリーナみたいなところ。傾斜のある観客席なので、どこからも見やすい
・照明や音楽が洗練されている
・セット替えの時間にはアマチュアコンペやダンスパフォーマンス、ライブ演奏などがあって飽きさせない
・1位と2位の優勝決定戦(スーパーファイナル)は、同じ課題を同時に登って先に完登したほうが勝ちという方式。見ている側に誰が勝ったかわかりやすい
・充実したアイソレーションエリア。そもそも「アイソレーション」という言葉は「隔離」という意味があって選手を囚人のように扱っているかのように連想させるので、アイソレーションという言葉自体を使っていない。「アスリートラウンジ」と呼ばれている


ワールドカップなども運営がずいぶん洗練されたとはいえ、ロックスターに比べれば地味な感じがしました。
こう言うとクライミングの見世物化とも聞こえるのですが、これは選手自身が望んだスタイルとのこと。実際「この大会は選手の扱いが抜群にいい」という声を選手から聞きました。だから出場したのだと。
粛々と行なわれるコンペより会場が盛り上がる大会であってほしいとも。


今回はアディダスが経費を出してくれている取材なので、話を聞いた人はポジティブなコメントしかしないのは、まあ当たり前。
ただ、そのへんを割り引いてもよくできたコンペイベントだと思いました。
記事も、この手のタイアップ取材ものにしてはほとんど自由に作らせてくれて、納得いく仕上がりになりました。


今回は撮影もわたくし。
監督・脚本・撮影=自分みたいな記事です。
文章よりも写真のほうが出来がよく、むしろそっちを見てほしかったのですが、
スペース等の都合で載せられなかったものがたくさんあってもったいないので、ここに載せておきます。


adidas ROCKSTARS 2015




2015年7月31日金曜日

3泊5日でネパール・ランタン谷に行ってきました

カトマンズの空港から見たガネッシュ・ヒマール。左から4峰、2峰、1峰、5峰(だと思う)


日曜深夜出発・金曜早朝帰国という駆け足でネパールに行ってきました。
ネパールを訪れたのは初めて。
川名匡ガイドがランタン谷に支援物資を届けに行くのにおともしました。


ネパールに行ったこともなく、ランタン谷にもなんの縁もゆかりもない私ですが、『山と溪谷』7月号でネパール地震の記事を作ったときに、現地に行ったことがない自分が記事を作っていることに隔靴掻痒というかもどかしさを痛切に感じ、一度ネパールに行きたいと思っていたのです。地震の状況が知りたいということではなく、単純にネパールを見てみたいと。
そんなときに川名ガイドが同行者を募集していたので、衝動的に行くことにしてしまったというわけです。





通常1週間くらいかけて歩いていくランタン谷ですが、今回はヘリコプターを使ってカトマンズから往復2時間。現地滞在はわずか30分ほどという弾丸行程でした。



ランタン谷では土砂崩れで村がひとつまるごと埋まってしまい、山岳地としてはロールワリンと並んで地震の被害がもっとも大きかった場所です。被害者数は数百人におよび、外国人旅行者も100人くらい埋まってしまったようです。

左の灰色の部分が土砂崩れ。この下に村があったそうです。右の緑の部分は村の畑


ヘリから見た風景はすさまじいもので、集落がひとつ完全に消滅していました。行方不明者の捜索などとうてい不可能とひと目でわかるような規模の土砂崩れです。対岸の斜面は高さ100mくらいまで(もっと?)爆風で大木がすべてなぎ倒されていました。


この奥にもうひとつ村があるのですが、土砂崩れで道も遮断されてしまったために、現在は陸の孤島状態。支援物資はそこに持っていったというわけです。

新品のダウンジャケットやレインジャケット、テントなどを渡してきました


この2時間以外は基本的にカトマンズにいました。報道では、ビルや世界遺産の寺が崩壊したりなどインパクトある映像がよく流れていたので、カトマンズの街が半ば崩壊したようなイメージを持っていましたが、思っていたより普通でした。とくに被害のひどい一角をのぞけば、街を歩いていても気づかないほど。まあ、もともとごちゃごちゃしていて今にも壊れそうな建物が多いせいというのもありますが。



ここは地震のせいなのかもともとボロかったのか判断つかない

それよりも印象に残ったのは猛烈な渋滞とないに等しい交通マナー。信号はないかあっても停電しているので、交差点では四方から車とバイクがわれ先に突っ込んできてカオス状態。みんな車間15cmくらいですり抜けていきます。よくぞまあこれで事故が起こらないものだよなと思うんですが、見なかっただけで実際には起こっているんだろうな。





でもまあ、渋滞は地震以前からカトマンズの名物であり、この写真も通勤ラッシュだったりするのです。当たり前だけどほとんどの人々は通常生活に戻って日々を送っているようでした。