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2019年5月22日水曜日

澤田実さん、寂しいです




遭難するような人ではないと思っていたので、不意打ちをくらったようで本当にショックです。


2年前、澤田さんについて書いた文章があります。結果的に公開されずじまいだったのですが、自分としても自信作で、なにより、澤田実という登山家の魅力をとてもよく表現できたと思っているので、ここに公開します。







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首都圏に住む登山歴数年以上の人は、この顔に見覚えがあるんじゃないだろうか? 「あっ、カモシカの人だ!」と気づいたあなた、あなたは鋭い。東京・高田馬場にある登山ショップ「カモシカスポーツ」に行くと、いつもニコニコと人なつっこい笑顔で立っている店員さん。それが澤田実さんである。


「でも久しぶりに見た気がする……」と感じたあなた、あなたはさらに鋭い。澤田さんは3年前にカモシカスポーツを辞めている。現在は山岳ガイドとして活動しているのだ。


澤田さんのガイド資格は、「日本山岳ガイド協会認定・山岳ガイド・ステージⅡ」というもの。技術レベルでいえば国際山岳ガイドに次ぐもので、国内では取得するのがもっとも難しい資格。やさしそうな見た目とは裏腹に、アルパインクライミングから山岳スキー、沢登りなど難しい登山を得意としているのが澤田さんの持ち味だ。


ガイドを始める前から、登山家としてもその名を知られていた澤田さんだが、その山遍歴はとにかく多彩である。





まずは高所登山。これまでヒマラヤ、アラスカ、アンデス、アフリカ、カムチャツカなど、海外の高峰に数多く登頂。ナンガ・パルバットやエベレストといった8000m峰にも登っている。





国内の雪山にも足繁く通う。なかでも北アルプスの黒部横断登山はライフワークといえるほど、さまざまなコース、さまざまなスタイルで挑戦している。





そしてクライミング。本場ヨセミテでのロッククライミングのほか、北アルプス錫杖岳や瑞牆山などで新ルートの開拓もしている。





沢登りにも強い。日本最大の滝といわれる立山・称名滝全4段を通して初めて登ったのはこの人だ。





山岳スキーに強いのも澤田さんの大きな持ち味。スキーを利用して、黒部横断を11時間で成し遂げてもいる。





こんなことまで。「小川山レイバック」という有名なクライミングルートを「ギター初登」。音楽も得意な澤田さんは、途中のテラスで尾崎豊を熱唱した。




こうして並べてみると、ほとんど登山の全ジャンルをこなしているといってもいいほど。しかもそのいずれもハイレベルで。このマルチプレイヤーぶりは日本の登山界では際立っている。それはガイドという仕事にも大いに生かされているようだ。







「どれがいちばん好きかって? うーん、ひとつには決められないなあ……」


高所登山からスキー、沢登りまで、まんべんなくハイレベルにやっている人ってあまりいないと思うんですが。


「面白そうだなと思うことをそのときどきにやってきただけなんですよ。山って、それぞれに、いちばんいい季節、いちばん合った登り方があるじゃないですか。そのいちばんおいしいところを選んでいったら、結果的にいろいろやることになっていたということなんです」


澤田さんが登山を始めたのは大学に入ってから。愛知県出身の澤田さんは、「北海道になんとなく憧れがあって」北海道大学に進学。そこで探検部に入部したことで登山と出会った。


探検部というのは、山だけでなく、川下りや洞窟探検、海でのダイビングなど、さまざまな活動を行なう。部の活動ではないが、澤田さんは、1年休学して150日ほどかけて日本徒歩縦断(北海道宗谷岬~九州佐多岬)ということも行なっている。





大学探検部時代、北海道天塩川をイカダで河口まで下った


いろいろやったなかでも「登山がいちばんバリエーション豊かで面白い」と感じた澤田さんは、卒業後も就職せず、山で生きていくことを決意。山小屋やスキー場など、山でのアルバイトを見つけて働くようになる。しかし、こうした山での仕事は意外と登山には行けないことがわかり、当時はクライマーの職場として人気があった窓拭き会社のアルバイトに転身。同時に上京して山岳会に入り、実力のある仲間を得た澤田さんの登山熱は爆発していく。


1994年にアラスカのデナリ(6190m)に登り、90年代は毎年のように海外登山に出かける。ヒマラヤ8000m峰も登るようになり、その実力と大学で地質学を学んだ経験を買われて、エベレストの山頂で化石を探すというテレビ番組の企画にも起用された。「化石探しが目的だったんですが、いい化石が見つからないうちに山頂に着いちゃった(笑)」





1997年に登ったナンガ・パルバット(8126m)


このころの澤田さんの生活は完全に山中心。窓拭きの仕事はかなり自由がきいたため、長期山行や海外登山にもしばしば出かけている。厳冬期2月の単独黒部横断にも挑戦し、11日間でこれを達成している。この時期の剱岳は非常に厳しく、登られた記録があまりない。そこにあえて挑戦した澤田さんは、山岳会の記録にこう書いている。


「休みが取れないことをうまい口実に敢えて避けてはいなかっただろうか。誰もやらなかったのならば、山のためにフリーター生活をしている僕が行かなくてどうするのか」


2004年には、スペインで行なわれた山岳スキーの世界選手権にも出場。4人チームで、ほかのメンバーは、松原慎一郎(山岳ガイド)、横山峰弘(トレイルランナー)、佐藤佳幸(元アドベンチャーレーサー、現アドベンチャーカメラマン)という強力なもの。





2004年の山岳スキー世界選手権


このレースで澤田さんは、海外の強豪選手のスピードに衝撃を受ける。このノウハウと装備を日本の山に持ち込んだら、それまで想像もつかなかったすごいことができるんじゃないか。そして黒部横断ワンデイという、当時としては途方もない発想にいたる。





黒部横断を11時間18分で達成


超軽量スキーとデイパックに、レーシングスーツで身を包んだ、冬山登山の常識を飛び越えた異様な風体の男が冬の黒部を疾走。11時間強という、それまで考えられなかったタイムで横断を達成した。







そして2004年にカモシカスポーツのスタッフとなる。家族ができ、不安定なアルバイトのままではいられなくなった末の決断だったが、自分の経験が生かせる職場は楽しく、好きなものに囲まれた毎日で、最新の道具事情にも詳しくなった。


接客業を経験したことも大きい。それまでは嗜好を同じくする仲間としか付き合ったことがなかったのだが、登山ショップには、ハイキングからクライミングまで、さまざまな趣味嗜好のお客さんが来店する。自分の発想にはまったくなかった相談を受けることもある。そんな経験を通じて、山を見る目も広がっていった。


気がつくと、ショップ勤務も10年になろうとしていた。カモシカスポーツの顔のひとりとして定着していた2014年、澤田さんはカモシカスポーツを辞め、山岳ガイドへの転身を決断する。


「やっぱり僕は山にいたかったんですよ。ショップは休みが限られますから、時間の自由がきかないし、長期の登山も行きにくい。もっと山にいる時間を増やしたい――その条件に合って、自分の経験も生かせる仕事はなにかなと考えたときに、出てきた答えが山岳ガイドでした」


もっと山に行きたい。そういう自分の欲求から選んだ新たな道だったが、ここにきて、マルチプレイヤーとして活躍してきた経験が生きている。さまざまな山、さまざまな登り方に対応できるのだ。この3月には、かつて自身が11時間で行った黒部横断コースを、お客さんに請われて2泊でガイドした。こういう、あらゆる技術と経験の複合技が必要なコースをリードできるガイドは多くない。


現在は年に200日近く山に入る毎日。ガイドの仕事だけでなく、自分の登山を磨くことも忘れていない。この冬には、10日ほどかけて穂高の継続登山をしてきた。「目標にしていた岩壁は、天気が悪くて逃げまくっちゃいましたけど(笑)」。


どんな山でも楽しい。そう語る澤田さんの表情は、カモシカスポーツでもおなじみだった、ニコニコとして人なつっこい笑顔のままだった。

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やりきったと思える人生を送れて幸せだったと思っていてほしいです。が、思い残すことはあったはず。ご本人とご遺族が安らかな日々を送れる日が来ることを願って。


2016年10月22日土曜日

デトノアイソメに行きたい

仕事の筆が進まないので、珍しくブログ記事の連投を。


昨日登った八海山の西側には、気になる地名がたくさんあります。


まずはこれ。


なんだこりゃ? 地名なのか? それともなんかの記号みたいなものなのか? でも国土地理院の地形図に表記されているので、れっきとした地名と判断するしかない。


いったい「デトノアイソメ」とは何なのだろうか。漢字で書くとたとえば「出戸乃愛染」? いや、切る場所が違うのかもしれない。デ・トノ・ア・イソメでさしずめ「出殿阿磯目」あたりか。山の中だから磯目はないか……。


とにかくわけがわからない。山の地名には変なものがときおりあるが、これはかなりレベルが高い。同じ新潟の早出川にあるガンガラシバナに匹敵する。「わけがわからない」というだけで、私はそれに対する興味が抑えられなくなってしまう。なぜ「デトノアイソメ」なのか知りたい。そしてデトノアイソメをこの目で見てみたい。


以前、越後駒ヶ岳と中ノ岳を登ったときにもめちゃくちゃ気になっていたけれど、今回、地図を見ていて久しぶりに思い出した。思い出して稜線上から撮った写真がこれ。


画面中央、沢の合流点となっているところがおそらくデトノアイソメ。うーん、行ってみたいぞ! 気になりすぎてネット検索したところ、行っている人はやっぱりいて、現場には別に何もないらしいけれど。





次に、八海山と中ノ岳を結ぶ稜線上にあるこれ。


稜線上にV字に切れ込んだコルになっている。こういう地形に「ノゾキ」と名付けられるケースは他にもあるので、ここは「オカメ・ノ・ゾキ」ではなく、間違いなく「オカメ・ノゾキ」だろう。それにしてもなぜオカメなのだ。オカメがコルから崖下を覗き込んでいる姿が頭に浮かんでしまう(ところでオカメってなんだ)。


ここは名前だけでなく、地形的にもかなり強烈で、ものすごいV字コルになっている。北アルプスにあったら絶対にオカメキレットと呼ばれていただろう。

このアングルからだとわかりにくいけれど、稜線のいちばん低い場所がオカメノゾキ


越後三山縦走のコースでもあるけれど、このオカメノゾキの区間はハードなことで有名。なにしろオカメノゾキの標高は1240mくらい。1778mの八海山入道岳から500m以上下って、その後、中ノ岳までは一転して怒涛の800mアップ。こんなハードなアップダウン、南アルプスにもありません。

オカメノゾキから中ノ岳への800m超アップ。もはや壁のよう。見ただけで吐きそうです


この区間、私はまだ歩いておりません。一度は行ってみたいのだけど、覚悟がいりそうだな〜。





ほかに、越後駒ヶ岳のすぐ近くにも「フキギ」なんていうピークがあります。


ここは地形的にもかなり特異です。フキギから西(左)に延びる稜線と、そのすぐ下の沢(オツルミズ沢)の関係性をよく見てください。こんなへんな地形見たことない。名前だけじゃなくて、この地形を自分の目で見てみたい。





さて、越後三山周辺ではないし、国土地理院図にも表記がないのだけど、いまのところ私が知っている「変地名」のなかで最強と目されるのが、奥秩父金峰山近くにある「チョキ」です。標高1883mのピークなんですが、なぜチョキなんだ。山名でチョキなんてありなのか。そもそもどういう字を書くんだ。猪木? これじゃイノキか。いや、チョキと読むこともできるぞ。まさかパーはあるのか。それならばグーも絶対に欲しい……。


変地名は、それだけでさまざまな想像(妄想)を広げてくれる素晴らしいものでもあるのです。



2016年2月19日金曜日

服部文祥、初の文学賞受賞

サバイバル登山家として知られる服部文祥さんが、梅棹忠夫山と探検文学賞なる賞を受賞した(受賞作品は『ツンドラ・サバイバル』)。


梅棹忠夫というと、探検界ではカリスマのひとりであり、私も学生時代には著書をよく読んだ。なので、文学賞としてはマイナーだが、知り合いの受賞には感慨深いものがある。


が、これまで全5回の受賞者5人のうち、これで3人が知り合い(第1回の角幡唯介、第3回の高野秀行)。山と探検文学界どんだけ狭いの!


さらに、この賞の創設には、山岳編集者としての私の師、神長幹雄さんが深くかかわっている。神長さんは、私が『山と溪谷』の編集部に配属になったときの編集長であり、雑誌編集の心得はほとんどこの人から学んだ。


もっとも印象深い教えは、

「校了日にオレの机に校了紙を置いてくれさえすれば、普段は何していたっていい。会社に来なくてパチンコしていてもかまわない」

というもの。


20代で若かった私は、この言葉にいたく感じ入り、現在に至るまでこの教えを忠実に守っている(いまは会社員じゃないけど)。


……と、教えを忠実に守った私がダメであることからもわかるように、神長さんという人は、本当にダメな人なのであった。もうダメダメなのである。


高野秀行さんが受賞したとき、この神長さんから受賞の連絡があったらしい。神長さんが私の元上司であることを知って、高野さんが連絡してきた。


高野「神長さんってどんな人なの?」
森山「え? どんな人って?」
高野「いや、受賞の連絡をもらったんだけど、なんだか異常に恐縮してるんだよ」
森山「どういうことですか?」
高野「『こんな小さな賞で申し訳ないんですけれど……』とか、『賞金も本当に些少で、こんなので受けていただけるか……』とか、そんなことばっかり言うんだよね」
森山「ああ……。なんかわかります」
高野「だんだん詐欺じゃないかと思えてきてさあ」
森山「あっはっは。そういう人なんですよ、神長さんって。その恐縮には何も意味はありません」
高野「そうなの」
森山「そうです。ところで賞金っていくらなんですか」
高野「50万」
森山「えーっ、些少じゃないじゃないですか」
高野「そうそう、本当なら喜んで受け取りたいんだけど、神長さんがあまりに怪しいから、50万取られることになるのかと思えてきてさあ……」


高野さんはとりあえず安心して受賞することにしたのだが、授賞式までにも、なんかまたすったもんだがあったらしい(具体的なことは忘れてしまった)。


これだけじゃあ、神長さんのダメぶりは全然伝えられない。まだまだいろいろあるのだけど、仕事の合間にふと書き始めたブログで、もう仕事に戻らなきゃいけないので、とりあえずここまで。


愛すべきダメオヤジ、神長幹雄物語。また機会をあらためて書いてみたい。






服部さんの受賞ニュースを書くつもりだったのに、いつの間にか神長さんの話になっちまった!




2015年4月22日水曜日

巨星船戸与一墜つ


作家の船戸与一さんが亡くなった。

冒険小説の名手、直木賞作家の船戸与一さん死去


船戸さんは大学探検部の大先輩にあたる。
私が学生時代、OBの集まりに顔を出すとたいてい船戸さんがいた。
船戸さんは無頼を絵に描いたような人だった。
風貌からしてまともな社会人でないことはひと目でわかったし、物言いも乱暴そのもの。
その船戸さんに劣らないやくざなOBである恵谷治さん(現在は北朝鮮がらみでテレビでもよく見かけるフリージャーナリスト)と組んだツートップはとにかくヒドく、学生たちからおそれられていた。


たとえば、その場で活動計画を説明すると、このふたりがボロカスに文句をつけてくる。
「そんなもんが探検といえるのか」
「おまえにとっての探検とはなんだ」
「考えが甘いんだよ」
いきなり頭から酒をかけられたやつもいる。
もうクソオヤジ以外の何物でもない。


ただし、好き勝手に放言はするが、「こうしろ」と言うことはなかった。
当時すでに売れっ子の冒険作家であり、海外辺境の経験なら学生よりはるかに上だったのに。
罵倒はするくせに指図は一切しなかったのだ。
「金は出すが口は出さない」
そういうポリシーで一貫していた。
それは船戸さんだけではない。ほかのOBもクソオヤジかダメオヤジばかりであったが、私は彼らのこういうところが大好きだった。
山岳部がOBの言うことにがんじがらめになっているのを見ていただけに、このクソオヤジたちは私の誇りでもあった。


いつか自分がOBになったとき、おれもこうあらねばならない。
そう思わせてくれたことに感謝しています、先輩。
心からご冥福をお祈りします。