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2022年2月24日木曜日

日本で2番目に高い山って知ってる?

 

2番だって、いいじゃないですか 「日本No.2協会」立ち上げ:朝日新聞デジタル


日本で2番目に高い山・北岳(3193m)を擁する山梨県南アルプス市の有志がこういう団体を立ち上げたそうです。気持ちはよくわかる。なにしろ、標高第1位の富士山に比べて、北岳の知名度は悲しいくらい低いのだから。登山をやっていない人で「日本の標高2位の山は?」という問いに即座に答えられる人ってどれくらいいるんだろう。

このニュースを読んで、昔書いた記事を思い出した。以下がそれです。




東京・新宿の街を歩いていたときのこと。すぐ目の前を4、5人の男子高校生が歩いている。

「日本でさあ、2番目に高い山ってどこだか知ってる?」

都会の雑踏で、ふつうの高校生が発したこのひとことがいきなり耳に入ってきた。風景のひとつとしてしか目に入っていなかった高校生の存在が突然、気になってしかたがない。なんて答えるんだ? 僕は接近の度合いを強めた。

「知らね」

……やっぱり知らないよね。

答えたひとりが、クイズの主に聞く。

「で、どこなの?」
「いや、オレも知らない」
「じゃ、なんで聞くんだよ」
「いやあ、知ってるかなあと思ってさあ……」

キ・タ・ダ・ケだよ!

日本で2番目に高い山は南アルプスの北岳、標高は3193m。僕はそうしゃしゃり出ていきたい衝動を必死でこらえた。そのうちすぐに、高校生の話題は新しいケータイのことに変わっていった。

金メダリストの名前は多くの人が覚えているが、銀メダリストはすぐ忘れられてしまう。世の中はそんなものとわかってはいる。富士山の知名度にくらべて北岳のそれが比較にならないほど低いことも充分理解できる。しかし……。

北岳はもうちょっと注目されてもいい山ではないかと思うのだ。槍ヶ岳や剱岳の圧倒的な個性にはさすがに及ばないことは、南アルプスファンの僕でも認めざるを得ない。しかし白馬岳や穂高と比べてどうなのかといえばほぼ同等と考えている。穂高には高山植物の豊富さで圧勝だし、白馬岳にはコースのバリエーションで上回る。それに甲斐駒ヶ岳や間ノ岳など南北方向から北岳を見てほしい。ひときわ鋭く突き立った山容にびっくりするだろう。なにより、標高は北アルプスの山すべてをしのぐのだ。

個人的には、北岳という名前がよくないと思っている。あまりにも無個性にすぎやしないか。槍ヶ岳や剱岳、白馬岳などのオリジナリティにくらべてどうだ。どこかの裏山みたいな名前ではないか。国内2番目に高い山がこれだけ知られていないのは、この名前も大きく影響しているに違いないのだ。

ところで、南アルプスで北岳に次いで高い山はどこだかご存知だろうか。

間ノ岳である。

……ちょっと、南アルプスの山のネーミングをしたやつ出て来いと言いたい。「なにかの間にある山」って感じで(名前の由来は本当にそうらしい)、北岳以上にどうでもよさ満点ではないか。

実際にどうでもいい感じのピークならそれでもいい。しかし、北岳の山頂に立ったら南を見てほしい。目の前にそびえる堂々たる量感の山にだれもが目を奪われるはずなのだ。北アルプスでいえば薬師岳のような存在感。しかも標高は国内4番目なのだ。

ツートップが平凡すぎる名前であることが南アルプスの不運と信じている。しかし内容は薄っぺらではないことは保証する。新宿の高校生には求めないけれど、せめて山好きの人にはそれを知ってほしいのである。




これはPEAKSの南アルプス特集の冒頭に載せたエッセイの一部です。この話を「エピソード1」として、南アルプスの特徴を表す個人的エピソードを3つ書きました。ちなみに「2」は「巨大タンカー・赤石岳」、「3」は「高山裏のオヤジ」です。

この記事、締切直前に猛スピードで書きとばしたものなのだけど、なぜかよく書けていて、いまでもお気に入りの記事のひとつなのです。編集部内では「これ実話?」なんて疑われたけど、100%実話!

ちなみに文中に出てくる間ノ岳、この記事が出た数年後に標高が3190mに改訂されて、奥穂高岳と並ぶ国内第3位に昇格しております。



記事が掲載されている本はこれ

2021年7月10日土曜日

6月の北アルプスは危ない

 

穂高で滑落して九死に一生を得た人の動画をYouTubeで見た。やっぱり6月の穂高は危ないなとあらためて思ったのだが、ほぼ同じ時期、ほぼ同じ場所で、自分も過去にかなりヤバい体験をしたことを思い出した。


動画の人は、穂高岳山荘まではなんとかたどり着いたのだが、山荘からの下りで滑落してヘリ救助になっている。まさにそこ! ほぼ同じ時期! まるでデジャビュかと思うほど条件は似通っている。


そのときの顛末を過去にPEAKSに書いたことがある。6月の穂高がどんな感じなのか知るにはそれなりにわかりやすい文章だと思うので、PEAKS編集部の許可を得ずに以下に掲載します。



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6月25日


僕はひとりで涸沢まで登ってきた。あいにく天気はよくなく、断続的に雨が降っている。平日ということもあり、涸沢カールにはだれもいない。テントのひと張りもない。


灰色の空をバックにした穂高の稜線にはガスがからみつき、威圧的な姿を見せている。いつも夏に見ていた華やかな印象とはまったく違う。岩と雪のモノトーンの世界。だれにも頼ることができない圧倒的な大自然が醸し出す妖気に、僕は気圧されていた。


「もう6月末なんだから、軽い装備でライト&ファストにいこう」と、しゃらくさい考えでいた僕の足下はリーボックのローカットシューズ。ピッケルもアイゼンも持っていない。さすがに不安になって、涸沢ヒュッテで軽アイゼンを借りた。


穂高岳山荘に向かって登りだす。遠目にはゆるく見えた雪の斜面は、取り付いてみると意外に傾斜が強い。残雪というと、太陽光でゆるんだグサグサの雪しか知らなかった僕は、雪が意外に硬いことにも面食らった。


やわらかいリーボックの靴はソールにエッジがなく、クロックスのように丸まっている。いくら雪面に蹴り込んでも安定せず、いまにも滑り出しそうだ。小さな4本歯の軽アイゼンはこの傾斜ではほぼ無力。これはたまらん。トラバースして、もう雪が消えていたザイテングラートに逃げた。ああ、ひと安心。


天気はいっこうに回復せず、雨脚は強まってきた。あの広い涸沢カールに僕ひとり。威圧的だった穂高はさらに大きく、高圧的なまでに僕にプレッシャーをかけてくる。時間はもう4時だ。


穂高岳山荘がほぼ同高度に見えてきた。逃げ切れたか。そう思ってちょっとしたふくらみを乗り越えたら、山荘と僕の間は幅100mくらいの急な雪の斜面になっていた。さっきよりずっと傾斜が強い。ここをトラバースしていけというのか。そんなわけないだろう。


ほかに道があるはずだとあたりを見回してみるが、さらに傾斜がきつい雪の壁か岩場があるのみ。どう見てもここしかない。


斜面の下を覗き込む。はるか下に涸沢ヒュッテが1cmくらいの大きさで見えている。1000mくらいはあるのか。スリップしたらあそこまで止まらないだろう。幸い、フォールラインに岩は見当たらないが、1000mも滑っていく間、生きていられるのかはわからない。


周囲には人影はゼロ。トラバースの一歩を踏み出すかどうかは、すべて自分の判断だ。家族の顔が頭をよぎる。ミスしたらすまない。覚悟を決めてトラバース開始。ふにゃっとヨレる靴の足裏に、全身の神経を張り巡らせる。3分の2くらいまで渡ってきたところで、集中力が切れてきた。まずいぞ。最後まで集中しろ。


穂高岳山荘が建つ石段の片隅にようやく足が掛かった。倒れ込むようにゴールテープを切った。もう動けない。極度の放心状態。山荘に入っても言葉がうまく出てこず、山荘スタッフが心配している。でもいいのだ。おれは生き残ったぞ!


下りはどうしたって? 来た道を下るなんてことはもちろんできない。大キレット方面に向かい、南岳から下山した。しかしそっちはまるで記憶にない。ザイテングラートよりはるかに難しいはずの道なのだが、天気は回復したし、稜線上には雪が全然なかったのだ。リーボックは超快調であった。まったく、一筋縄ではいかないぜ、残雪期。

PEAKS 2014年5月号より)


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思うんですが、6月の穂高や剱岳って、一年でいちばん危ない時期なんじゃないでしょうか。6月って、すでに街は夏みたいで半袖短パンで過ごしているし、同じ3000m級の山でも南アルプスや八ヶ岳は、もうほぼ夏と同条件で登れてしまいます。


しかし北アルプスは違います。まだ雪が豊富に残っていて、つまり、「早めの夏山」ではなく、「遅めの雪山」なわけです。そこに夏山気分の軽装で行ってしまい、進退窮まるわけです。当時の私がまさにそうでしたし、今回滑落した方も、装備を見るかぎりそんな感じでした。


6月って、梅雨ということもあって登山者の数が少なく、この時期の北アルプスの危険性が指摘されることはあまりなかったように思います。であるからこそ情報が少なく、登山者の意識と現場のコンディションのギャップが大きくなりやすい。そこに、事故が多発する原因があるように感じます。





上に転載した文章は、PEAKSの記事では後半部分。前半では、めちゃくちゃ快適に登れた5月の体験を書いています。残雪期は、装備とコンディション次第で登山の困難度がものすごく変わる難しい季節なのだ……ということを伝えるのが狙いの記事です。




6月の北アルプスで使える道具


2021年2月16日火曜日

枻出版社が民事再生に

 

倒産速報 | 株式会社 帝国データバンク[TDB]

私の古巣のひとつ、枻出版社が民事再生になってしまった。ニュースが公になる前日にPEAKS編集部から聞いて知っていたし、年末にPEAKSやランドネが別会社に売却されたときのほうが驚きはむしろ大きかったのだが、元社員としてはやはり苦いものを感じる。

昨日、その債権者説明会があったので行ってきた(原稿料が2カ月分凍結されたので私も債権者)。説明によると、ここ数年、売上が急速に減少していたところに、予期せぬコロナ禍が致命傷になったようだった。

現在は出版不況の時代。そのなかでもっとも打撃を受けているのが雑誌。書籍(単行本)や漫画も売上は落ちているのだが、雑誌はそれと比べても落ち幅が激しい。そして枻出版社は雑誌中心の会社。書籍はあまり強くなく、売上の多くを雑誌で稼いでいた会社だ。

そのわりには持ちこたえているほうだと思っていたのだが、2017年ごろをピークに、わずか数年で転げ落ちるように売上を落としていたようだった。なんとか危機を脱出しようとギリギリであがいているところに、思わぬ方向から飛んできたコロナパンチがヒットしてしまった……というところか。



古巣のくせに他人事のように淡々と書いていて冷たいやつだ……と自分でも思うが、私は40歳を過ぎてからの中途入社で、しかもアウトドア専門要員だったので、枻出版社社員というよりもPEAKS編集部員だったという意識のほうが強い。さらに、所属していた会社の経営危機はこれで2度目(前回は2006年に山と溪谷社がインプレスホールディングスに買収されたとき)。こういうことはあるんだなと、へんに達観してしまっているところがある。

幸い、ひと足先に枻出版社から独立していたアウトドア雑誌(+ゴルフ、自転車、サーフィンなど)をはじめ、多くの雑誌は引き受け手の会社が次々決まっており、変わらず刊行されていくようだ。

実際、私も今週から来週にかけては、PEAKS次号の仕事ですでに埋まっている。原稿料凍結を食らっていながら人がいいなとこれまた自分でも思うが、つらい思いをしているのは私以上に編集部員。私もヤマケイが危機のときは肩身が狭い思いをしたし、部外者から理不尽ないじめを受けたりもしたので(あのときいじめたやつは一生許さん)、立場はよくわかる。私は愛社精神は希薄だったが編集部愛はあったので、ここは協力したい。



しかしそのアウトドア部門も、枻出版社社内では比較的落ち幅が少なかった(であろう)とはいえ、出版不況の荒波を前にして、会社が変わってこれでひと安心というわけにはいかないはず。旧来の出版ビジネスの枠組みはとっくに制度疲労を起こしている。今後、なんらかの抜本的な改革は必要なんだろう。

フリーランスになってからつくづく思うのだが、こういうときに出版出身者は本当にダメだなということ。なんらかの改革やパラダイムシフトが必要なときでも、既存の出版ビジネスの枠内でしか物事を考えられないのだ(もちろん私も含む)。一方で、ウェブメディアなど出版とは関係ない分野の人と話をすると、「えっ、そんなやり方アリだったのか」と、目を開かされることが多い。PEAKSやランドネも、そういう外部の異なる目線を入れていくことは絶対に必要だと思う。

その意味では、それこそ出版とは関連ゼロだったドリームインキュベータという会社がPEAKSの親会社になったことには、むしろ期待をしたいところ。出版脳ではないフラットな目線で、アウトドアメディアの可能性を掘り起こしてほしい。

一方で、出版社社員の立場を離れてから同時に感じているのは、コンテンツ制作能力は出版出身者は高いということ。これはウェブメディアと付き合っているとすごく感じる。「この人なんかデキるな」と感じてよくよく話を聞くと、じつは出版社出身ということが多いのだ。これはひいき目ではないと思う。人々が面白いと感じるものを的確にピックアップする嗅覚と、素材をより面白くする技術をたくさん持っている点において、出版出身者はやはりレベルが高いと感じる。



なので、出版出身でない人がビジネスの大枠を設計するプロデューサーとして機能し、出版出身者がそこに合ったコンテンツを提供していくという組み合わせがこれからの理想なのだろう。PEAKSの新会社(ピークス株式会社という名前。ややこしいが、社名はPEAKSとは関係なく、綴りはPEACS)もそこがうまく機能することを期待したい。

おそらくその過程では軋轢も起こると思う。これもヤマケイのときの経験上、なんとなく想像できる。よくあることだが、そのときに「出版文化」みたいなことを持ち出すと、話がそこでストップし、対立を深めるだけになると思う。なじんだしきたりはひとまず脇に置き、新しい環境を刺激的なものとして吸収していってほしい。……って、えらそうに上から目線で言っているが、おまえにそれができたのかと言われれば黙るしかないのだけど(笑)



明々後日はショップの人が集まる取材。絶対にこの話題で持ちきりになるはず。とりあえず「僕の考えはブログに書いておいたので読んでください」と言っておこう。





2019年3月19日火曜日

連載「山岳スーパースター列伝」最終回



雑誌『PEAKS』でやっていた人気連載「山岳スーパースター列伝」が、15日発売の4月号で終了しました。記事冒頭にも書きましたが、終了の理由はネタ切れ。もう紹介できる人がいなくなってしまったというわけです。


連載が始まったのは2013年5月号なので、まる6年間やっていたことになります。フリーになったばかりのころに始まった連載であり、初代の担当編集は、その数カ月前まで私の部下だった臺代裕夢という男でした(こやつ、つい最近、小学館ライトノベル大賞という文学賞で優秀賞を受賞しました!)。「山岳スーパースター列伝」という軽薄なタイトルは編集部がつけたものであり、私ではないのでよろしくお願いします。


連載では1回の休載をはさんで、計71人の登山史上の偉人について書き続けてきました。1回が約1700字あるので、計約12万字。おお~。われながらよく書いたな~。


書くにあたって毎回念頭においていたのは、読者に、偉人の実績よりも人物に興味をもってもらうようにすること。そのために、ダメなところを含めて人間くさいエピソードをできるだけ盛り込むようにしていました。だってすごい実績を教科書的に羅列したところで面白くないですからね。読者の記憶に残らなければ連載の価値はないと思って毎月書いていました。


そのため、71人の人選はそれなりに偏っています。人間くさい面を書こうとすると、私がなんらかの思い入れがある人しか書けないわけです。連載のテーマからすると、エベレスト初登頂者のヒラリーやテンジンなども出てきておかしくないわけですが、結局登場していません。シェルパ枠からは代わりにバブ・チリなんてマニアックな人を登場させたりしていました。


ところで、この連載のもうひとつの主役といっていい存在が、綿谷寛画伯によるイラストです。


画伯は登山をやる人ではありません。なので、連載開始当初は、人物の写真やら道具の説明やら、いろいろ資料をそろえて渡し、どんなイラストを描けば人物のイメージに合うか細かく指示していました。


が、画伯はその指示をことごとく無視して独自のイラストを仕上げてきます。ところがそれが、私がイメージしていたものよりもはるかによいのです。なので私はそのうち、人物の顔写真数枚と、どんな人なのかの簡単な説明1行くらい渡すだけになりました。あとは画伯におまかせしたほうがいいものになるという判断です。


それでも登山を知らないはずの画伯が、しかもイラストと原稿は同時進行だったので本文を読んでいるわけでもないのに、なぜこんなズバリのイメージを描くことができるのか、毎回本当に不思議でした。


最近のいちばんの傑作は、2019年3月号で岩崎元郎さんを取り上げたとき。岩崎さんの背後に「岩崎さ~ん」と呼びかけるハイカーが描かれておりました。こんな小細工、私は指示してませんよ! でも、中高年登山者に絶大な人気を誇った岩崎さんを表現するに、これ以上効果的な描き込みがあるでしょうか!? 画伯はどこでこんな絶妙なニュアンスを知ったのか……。




画伯はもともと『POPEYE』や『MEN'S CLUB』などで活躍していたファッションイラストの巨匠。そのイラストは、だれもが一度は見たことがあるんじゃないかと思います。本来、画伯、画伯となれなれしく呼べる存在ではありません。が、本人のメールアドレスからしてwatatani-gahaku~なので、もういいんじゃないか(笑)。ということで、編集部との内輪ではつねに「画伯」と呼ばせていただいておりました。


綿谷画伯に描いていただいたおかげで、連載はぐっと格調高いものになったと思っております。画伯こそ真のプロ。そんな尊敬できるイラストレーターとコンビを組ませていただけたことは私の誇りであり、感謝のひと言であります。もう、71枚のイラストだけをまとめて画集を作りたいくらいです。


読者のみなさんもぜひ、画伯のイラストに注目して連載ページを見返してみてください。6年間ありがとうございました。




2018年11月10日土曜日

角幡唯介、ノンフィクション本大賞受賞


ノンフィクション本大賞2018 - Yahoo!ニュース

角幡唯介が、Yahoo!ニュース本屋大賞「ノンフィクション本大賞」を受賞した。本屋大賞といえば、いまやある意味、芥川賞や直木賞よりも価値がある賞。今年から新設されたノンフィクション部門の大賞第一号が角幡というわけだ。私は角幡が書く文章の大ファンであるので、受賞はとても喜ばしい。


以前、このブログで角幡の文章の魅力について書いたことがある。そちらもぜひ読んでいただきたいのだが、じつは本当に読んでほしいのは、最後に紹介している角幡自身のブログの文章である(タイトルはここには記せない)。


『外道クライマー』書評




実際に会う角幡は、どちらかというと表情の変化がないほうで、しゃべりも訥々としており、あまり切れ者という印象がない。ところが著作から受けるイメージはキレキレであり、そのギャップにとまどう。どちらが角幡の真の姿なんだ。


7年前、角幡が2作目の著作『雪男は向こうからやって来た』を出したときに、『PEAKS』にその紹介記事を書いたことがある。これも角幡の人物と文章のギャップについて書いていた。この文章はいまでも自分的に気に入っていて、埋もれさせるにはもったいないので、PEAKS編集部の許可を得ずにここに再掲します。






<以下再掲>

 もう15年くらい前になるけれど、角幡唯介とクライミングに行ったことがある。先にばらしてしまえば、角幡は大学探検部で私の後輩にあたる。私はすでにOB、角幡は入部して間もないころで、岩場で会ったのが初対面だった。

 このときの印象は「野人のような男だな」という一点につきた。とにかく目つきが鋭い。いまよりやせていて顔つきももっとシャープだったと思う。そんなハングリーむき出しのような風貌が強く印象に残っている。

 そして日本語で会話をした記憶がない。憶えているのは、「ウオッ、ウオッ」という、うなるような相槌だけだ。それだけ聞くとほとんど類人猿のようで、本人には失礼な話だが、でも、自分にとってはそういう印象しかなかったのは本当なのだからしょうがない。

 その後は会う機会はほとんどなく、たまに人伝てに噂を聞く程度だった。しかし伝わってくる話は、やっている活動の内容にしても言動にしても、猪突猛進というイメージのものばかりで、私の第一印象を裏付けるだけだった。行動力は人一倍ありそうだけれど、知的なタイプではないのだろう。だからその後、上級生になってクラブのリーダーに就任したと聞いたときはちょっと意外に感じた。

 角幡は大学を卒業して朝日新聞の記者になった。これにはもっと驚かされた。当時の朝日新聞といえば、日本一入社するのが難しい会社のひとつだ。獣を思わせた肉体派の男が、いったいどうやって入ることができたのか。私にはわからなかった。

 角幡は、朝日新聞に入社する前、破天荒な人物として知られるあるクライマーと、登山経験皆無に近い女性歌手との3人で、ニューギニアまでヨットで渡り、ジャングルを踏破し、トリコーラという標高5000m近い山の北壁を初登攀するということをやっている。後年、ひょんなことからその女性歌手と知り合った私は、壮大な冒険行でありながら、どこか珍道中ともいえるその旅の実態を聞いたことがある。私にとっての角幡像は、エリート記者よりそちらのほうがしっくりくるものがあった。

 そして昨年の『空白の五マイル』である。それを読んで申し訳なく思った。こんなにも緻密で論理的な仕事ができる男だったとは。なにより、まったく非日常なテーマながら、ふつうの読者に刺さる言葉をきちんと選び出し、決してマニアに走らない。そのバランス感覚に本当に感心した。これは野人どころか、かなり頭がキレるやつでないとできない話だ。

 それは今回の本にも共通している。雪男がテーマというと、多くの人は「大丈夫か、こいつ?」と思うにちがいない。安心してほしい。角幡は雪男の信者ではない。むしろ懐疑的なスタンスだ。そんなものにどうしてこれだけ多くの人が惹かれ、人生をかけてまで探そうとするのか。それを元新聞記者らしい多面的な取材と人物描写で説いてくれている。

 昨年、穂高に行ったときに山中で偶然、再会した。久しぶりの角幡は、とてもやさしい笑顔を見せるようになっていて、もちろん日本語もしゃべっていた。しかし体は格闘家のようになっていた。「クマみたいだな」と思った。

 野人からクマ。格が上がったのか下がったのかわからないけれど、少なくとも野人イメージはもう消えた。だから許してくれ、角幡。

PEAKS 2011年12月号 p.97より>








この『PEAKS』12月号、たまたま別の記事で角幡のインタビューが5ページにわたって掲載されています。当時角幡が住んでいた東長崎のボロアパートで取材が行なわれ、柏倉陽介が撮影した印象的な写真が使われています。そちらも注目です。





↑一瞬混乱するかもしれませんが、私のツイートではなく、ライターの森山「伸也」のツイートです(血縁関係はありません)。穂高で角幡に会ったとき、私はこの伸也くんと一緒だったのです。ちなみに、当該の号に載っているインタビューは伸也くんが書いているものではありません。彼によるインタビューはそれより前、2011年2月号に載っています。




なお、ニューギニア冒険の話は、この本に詳しいです。著者の峠恵子さんが件の「女性歌手」です。この本、冒険界きっての奇書といわれるくらいとんでもない本で、峠さん自身も相当ぶっとんでいます。本を読んでいると、3人のなかで角幡がいちばん常識的な人間に見えるくらいです。





2017年2月28日火曜日

PEAKS創刊前夜の話

私の古巣のひとつとなる雑誌『PEAKS』が創刊したのは2009年5月。最初の1年は隔月刊で、2010年5月の号から月刊化して今に至ります。私は創刊当初からのメンバーで、2013年3月号まで副編集長として務めました。今もフリーランスの立場で記事作りにかかわっているので、もう8年近くやっていることになります。


先日の『PEAKS』のインタビュー取材のときに、寺倉さんから創刊のころのことを聞かれ、久しぶりに当時を思い出しました。パソコンをあさってみたら、最初に書いた企画書が出てきたので、昔話とともに紹介してみようと思います。




「登山雑誌、定期刊でやることになったから」


と、編集長の朝比奈耕太さんから電話を受けたときのことはよく覚えています。2009年4月初旬、松本のロイヤルホストの駐車場でした。そのとき私は松本在住の山岳カメラマンに写真借り&打ち合わせに来ていて、それが終わってさあ帰ろうというときでした。


当時、私は枻出版社に入ってちょうど一年。会社にも慣れてきて、自分の専門である登山のムックを夏前に出そうと動いていたときでした。山岳カメラマン氏には、それ用の写真の相談に来ていたのです。


「定期刊でやることになったから」というのは、ムックではなく定期雑誌として刊行すべしという決定が経営会議でなされたという報告でした。


「発売は5月21日ということで」


朝比奈さんはそう続けます。冗談言わないでください。あと1カ月半しかないじゃないですか。いや、発売10日前には校了していないといけないから、制作期間は1カ月。定期誌を1カ月で立ち上げられるわけないでしょ。普通は1年、短くても半年はかけますよ。


もちろん私はそう答えたのですが、「もう決まったので」と、取り付くシマがありません。いや、絶対無理だって。朝比奈さんだってわかってるでしょう。それでもやるって言うなら、おれはおりますよ。私はかなりエキサイトして電話口にそう吐き捨てました。


「とりあえず、なにができるか明日会議しましょう」


朝比奈さんがそう言って電話は終わりました。


枻出版社というのは、こういう急な決定や方向転換が多い会社で、この一年間、それに振り回されたことも少なくなかった私は、「もうやってらんねえ」と頭に血が上って、荒っぽく車のドアを閉めました。車を走らせ始めても、ムカつきがおさまらず、明日なんて言ってやろうか、辞表をたたきつけて帰ろうか、そんなことばかり考えていました。


中央高速を諏訪あたりまで来ると、ムカつきも一段落して、だんだん落ち着いてきました。……定期雑誌か。いくらなんでもできるわけないよな。定期誌といったらタイトルが必要だよな。そこからして白紙だもんな。どうすんだよ……。


そのうち車は小淵沢か韮崎あたりまで来ました。……やるとしたら、今進めてるムックをベースにするしかないよな。とはいえデザインはどうしたらいいのかな。ムックと定期誌じゃデザインの考え方も全然ちがうよな。デザイナーはピークスのだれになるのかな。

*ピークスというのは枻出版社の子会社のデザイン会社で、枻出版社の刊行物のデザインはここが手がけることになっています。



……そういえばピークスって、綴りなんだっけ。P・E・A・C・Sか。そうそう、PEAKじゃなくてPEACなんだよな。確か4つの会社のイニシャルの集合っていってたな。……PEACSがデザインする雑誌だからPEAKS! ダジャレか。くだらねえ~。


……けど、悪くないかもな……。P・E・A・K・S。ピークスか。山の頂上ってピークだもんな。


……あれ? これ、いいんじゃね? PEAKSって雑誌、ほかに……ないよな。えーと……うん、聞いたことないな……。え? こんな直球でいいの? 


……いや、これだよ。これでいいよ。これでいいじゃん!


たぶん、この段階で双葉か甲府昭和あたりを走っていました。


枻出版社に入る前から、私はずっと、新しい登山雑誌を作るならなんてタイトルがいいか考え続けていました。でも、ピンとくるタイトルを思いついたことはありませんでした。考えつくのは、『Mountain Life』とか『Mt.Trip』とかヘボいものばかり。


私が登山雑誌のタイトルに必要だと考えていた要素は3つありました。

1)ひと目で山の本だとイメージできること
2)短いこと
3)カタカナであること


1)は説明不要かと思います。ひねった内容で攻めたいならともかく、ボリュームゾーンに訴えたいならこれは必須かと思うのです。


2)は、会話のなかでひとことで言えることを重視していました。たとえば「マウンテンライフ」だと長すぎて、ひんぱんに口にするには面倒です。すると、人はなんらかの略称で呼ぼうとする。そのときに「なんて略すればいいかな」と考えさせるのがいやでした。それはわずかな引っかかりですが、口にする人にストレスであることは間違いありません。そのストレスはわずかなれど、でも、そのわずかなストレスを億劫がってタイトルを気軽に口にできなくなるのです。一方で、略さないでフルネームで呼ぶ人もいるでしょう。すると、人々の間で雑誌は明確な像を結ばず、ということは、意識にしっかり定着しない。それは避けたいと思っていました。


3)は、旧来の雑誌とはちがう新規性を感じさせたかったからです。それまでにあった登山の雑誌は、『山と溪谷』とか『岳人』とか『山の本』とか、日本語タイトルばかりでした(昔は『アルプ』とかもありましたが)。それらとはちがう、新時代の山の雑誌である。ということを表現するには、カタカナ(外来語)が望ましいと思っていました。


私は車を走らせながら、PEAKSをこの1~3の観点からも検討しました。PEAKSはそのどれもを、完璧にクリアしました。


タイトルが決まった瞬間、「これ、できるかも」と、不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。あれだけ絶対無理だと思っていたことが、タイトルが決まったら、なんとかなるような気がしてきたのです。


同時に、PEAKSというタイトルに合わせて、雑誌作りに必要な要素がどんどん勝手に浮かんできました。想定読者層はどんなところにおけばいいか、どんな企画をやればいいか、デザインはどういう方向性で作ればいいか……。雑誌の大枠が頭の中で自動的に組み上がっていき、立体的な企画として立ち上がってきました。


甲府を過ぎたあたりからは、もう完全にやる気になっていて、考えることは、企画の内容や制作の段取りなど、具体的なことばかりになっていきました。帰宅したのは23時か24時ごろだったと思いますが、そのまま新雑誌の企画書を書きました。それがこれです。




ファイルのプロパティを見ると、作成日時は2009年4月2日の午前2時40分になっていました。ということは、松本に行っていたのは4月1日だったのでしょう。


「30代のための山歩きmagazine」というキャッチコピーが恥ずかしいですが、想定読者層を30代にしようとこのときすでに決めていたことがわかります。


なぜ30代か。ひとつには、枻出版社という会社の持ち味として、年配層より若い層に向けたもの作りのほうが得意ということがありました。もうひとつは、当時、30代以下の人に訴える登山メディアが存在しなかったことにあります。二大登山誌と言われていた『山と溪谷』と『岳人』は、このころ想定読者を完全に40代以上(いや、50代以上?)の年配層に振っていて、若い人が読んで面白い記事はほとんどなかったのです。


その結果、若い登山者たちは、インターネットでそれぞれ適当に情報を収集し、山に登っていました。ネット上に彼ら彼女らの居場所となりうる強力なサイトがあればよかったのですが、それもなく、ネット上に浮遊した情報の断片を自分なりに拾って登っているように私には見えました。


当時はまだ、山ガールブームが盛り上がる前です。登山というのは年配層の趣味であるという認識が一般的な時代で、若い世代は登山界から見捨てられた存在のように思えました。商売を考えれば、絶対数の多い年配層に向けたほうがいいのかもしれないけれど、それはもうヤマケイや岳人がやっている。ならば、彼らがやらないことをやろう。見捨てられた人たちの居場所を作ろう。それは売れないかもしれないけれど、1カ月しかないんだから失敗してもともと。ならば、つまらない二番煎じをやって失敗するより、未開拓のことをやって玉砕したい。……そう考えたわけです。


明けて翌日の会議、辞表のかわりに、私はこの企画書をたたきつけました。会議の出席者は朝比奈さんと、ヤマケイ時代からの同僚、ドビー山本(山本晃市)。自信満々で出したPEAKSというタイトルは「いいじゃん」と受け入れられ、朝比奈さんはすぐさま社長のもとに報告に行きました。PEAKSというタイトルと聞いて社長は「そうきたか」とニヤッとしたそうで、B案もC案も必要とせず、すぐGOとなりました。


そのあとは、準備していたムックの企画を定期誌用に作り替え、新規の記事立案、連載等の準備、広告営業先のリストアップなどなど、嵐に巻き込まれていきました。


厳しい毎日が始まりましたが、タイトルロゴの作成は面白かった思い出です。PEACSデザイナーチームが、30個くらいのロゴを作ってくれました。それをテーブルの上に広げて、どれにするかを話し合うのです。そのなかに「お!」と目に止まるものがありました。以下のようなものです(私が記憶で再現したもの。本物はもっと完成度高かったです)。


パタゴニアのロゴのマネといえばそうなんですが、ひと目で山が感じられていいな! と思ったのです。朝比奈さんも同様にこれがベストだと思ったようで、「これでいこう!」と意見は一致。ところが、ロゴが決まってひと安心と思っていたら、しばらくして会社の上層部から「タイトルが破れているように見えるのはよくない」とNGが出て、幻のタイトルロゴとなってしまいました。


今にして思えば、一回くらい会社の意見を押し返してもよかったんじゃないかという気もしますが、そのときはその余裕はまったくありませんでした。企画を作り、ライターやカメラマンに依頼をし、ページの中身を作っていくことで精一杯だったのです。誌面のビジュアルやデザインのトーンについても自分なりのイメージはあったのですが、そのへんの大枠の話は朝比奈さんにまかせきりで、結局、ほとんどなにもできませんでした。紙の選定について希望を生かせたくらいでしょうか。


編集部のスタッフ、営業部員、ライター、デザイナーにも無茶に無茶を通して、最後は自分も会社の椅子で4連徹して、ようやく校了。絶対に無理だと思っていた本が、本当に5月21日に発売されました。校了後、自分がどうしていたかはまったく記憶にありません。


これだけ無理を通しただけあって、気に入らないところ、もっとこうしたかったところ、練りが足りないところなど、当然ながら満載で、今見ると穴だらけもいいところです。校了直前にどうしても1ページ埋まらなくて、本来1ページの記事をデザイナーのウルトラテクニックで2ページに水増ししたところもあります(持っている方はどこだか探してみてください)。


実際、創刊後の初期のPEAKSは恥ずかしいところばかりで、しばらく見たくありませんでした。8年たった今でも見るのには勇気がいるのですが、時間がたって距離をおいたからでしょうか、以前よりは読むことができます。時間に追われて書き飛ばしたと思っていた自分の原稿が意外とよかったりして、少しホッとしたりもしています。


その後のことは、寺倉さんのインタビューにもあったとおり。自分の仕事人生でいちばんきつかった一年になったのですが、まあ、やってよかったなと思っています。


ひとつ思うのは、枻出版社のバカげた決断力がなかったら、PEAKSは生まれていなかったなということ。私も枻出版社が新たに立ち上げたアウトドア編集部の一員となったからには、得意の登山雑誌を作ろうとは考えていました。しかし、それには十分な準備期間が必要で、まずはムックを出して少しずつ信用を得ていくのが得策だ……と常識的に考えていたのです。


ところが、その当時、自分が書いたムックの企画書も出てきました。それを今読むと、まあ、ヌルいヌルい。こんなヘボい企画書じゃ、ろくなもんはできやしねーよ。今の自分がこの企画書を渡されたとしたら、なんかいろいろ書いてあるけどつまんねえなと、3分で見切りをつけることでしょう。一方、4月2日の夜にたった2時間で書いた企画書は熱い。やりたいこと、やるべきことが簡潔明確に書かれていて、人を動かす力が感じられます。会社のバカげた決断が私の心に強大な負荷をかけた結果、押し縮められたバネが飛び出すように、自分ひとりでは出せなかったエネルギーが出せたと思うのです。


企画書の草稿には、なかなかいいことが書かれていました。

これまでのメディアで知られていないだけで、それぞれに情熱をもって山登りをしている若者はじつはたくさんいます。 
サラリーマンでありながら年間100日近くも山に通っている人、山好きが高じて山小屋に転職してしまった独身女性、さらには、高山植物の保護に情熱を傾ける自然公園管理官、新しい山小屋のあり方に日々アイデアを巡らせている若主人、そして、ヨーロッパのすぐれた登山カルチャーを日本にも導入したいと奮闘する若手ガイド、世界一の評価を受けながら国内ではほとんど知られていないクライマーなどなど……。 
『PEAKS』は、そうしたこれからのロールモデルとなるべきさまざまな人を登場させることを通じて、山登りの新しい魅力を伝えます。次代の登山カルチャーを作り出すこと――それが『PEAKS』のミッションです。

この文章、今までずっと書いたことを忘れていました。ところがこれ、PEAKSを作りながらずっと念頭に置いていたことだったんです。ああ、おれはブレてなかったんだと今知りました。おれえらい。


8年たって、これがどの程度実現されたのかはよくわかりません。もっとできたのではないかなと、自分の力不足も痛感しています。でも、運よく時代の追い風もあって、自分にやれることはできたのではないかと思っています。



……寺倉さんに話したことも話してなかったことも、記憶がずるずる蘇ってきてえらく長くなりました。でもたまにはこうして自分を振り返るのもいいですね。機会を与えてくれた寺倉さんと編集部に感謝。


2017年2月22日水曜日

PEAKSでインタビューされました




『PEAKS』の長寿インタビュー連載「Because it is there...」に自分のインタビュー記事が載りました。人の取材はいくらもやってきましたが、取材される側にまわったのは初めてに近く、なんだかへんな気分。記事を読んでも、「へー、こんな人がいるんだ~」と、不思議な違和感というか距離感を感じています。これが、自分を客観視するということなのでしょうか。


インタビューしていただいたのは、寺倉力さん。Fall Lineの主幹編集を務めている編集者&ライターで、私が編集ライター業においてベンチマークとしている人です。寺倉さんはバックカントリーメディアの第一人者であり、私は寺倉さんをマネしてそれのクライミング版になればよいのだなと、いつも指標にさせてもらっているのです。


寺倉さんの手がけるものは常にクオリティが高く、私が雑誌作りの指標としているのがFall Lineであり、ガイドブック作りの指標が、昔、寺倉さんが作ったスキー場ガイド「スキーマップル」です。これはとてつもない本で、ガイドブックはこうあるべしという本なのです。まあ、そんな人なので、インタビューは安心しておまかせしました。


とりあえず、自分で自分の記事を読んだ感想は;

・おれ、顔怖えー
・おれ、オッサンになったなあ…
・探検部の話ってやっぱりキャッチーなのかな


「怖い」とか「近寄りがたい」とかいうことは、たまに言われるのですが、写真を見て、なぜそう言われるのかよくわかりました。これは怖いわ。自分ではこんな難しい顔している自覚はまったくないのです。記事中、冬山の格好をしている写真なんかは、それこそこれから命を賭けた危険な登攀に向かうような顔をしていますが、このとき私はなんにも考えていませんでした。ぼーっと風景を見ていただけです。


あとは探検部。記事では半分が大学探検部時代の話になっています。インタビューのときはほかの話もいろいろしたのですが、探検部の話がこれだけ取り上げられるということは、やっぱり探検部の話っておもしろいんですかね。自分が体験したことは自分にとってはわりと当たり前なので、あんまりおもしろいとも思えないのですが、外から見るとかなり特殊環境だったのでしょうか。そういうことが客観視できてよかったです。


雑誌的にはPEAKSの創刊裏話などもっと書いてほしかったんですが、そちらはあまりおもしろくなかったんでしょうか……。次回のブログではそのへんちょっと書いてみようかな。




2015年12月10日木曜日

アディダス・ロックスター

今ごろですが、ただいま発売中の『PEAKS』12月号(1月号が12月15日発売なので、発売期間はあと4日!)に、9月末のドイツ取材の記事を書いています。&撮っています。


取材したのは、アディダスが主催する「ロックスター」というボルダリングコンペ。
この手のコンペとしては、世界でも最大規模で、近年注目されているコンペです。


確かに、徹底的にショーアップされていて、イベントとしての完成度はとても高いと感じました。

・会場は横浜アリーナみたいなところ。傾斜のある観客席なので、どこからも見やすい
・照明や音楽が洗練されている
・セット替えの時間にはアマチュアコンペやダンスパフォーマンス、ライブ演奏などがあって飽きさせない
・1位と2位の優勝決定戦(スーパーファイナル)は、同じ課題を同時に登って先に完登したほうが勝ちという方式。見ている側に誰が勝ったかわかりやすい
・充実したアイソレーションエリア。そもそも「アイソレーション」という言葉は「隔離」という意味があって選手を囚人のように扱っているかのように連想させるので、アイソレーションという言葉自体を使っていない。「アスリートラウンジ」と呼ばれている


ワールドカップなども運営がずいぶん洗練されたとはいえ、ロックスターに比べれば地味な感じがしました。
こう言うとクライミングの見世物化とも聞こえるのですが、これは選手自身が望んだスタイルとのこと。実際「この大会は選手の扱いが抜群にいい」という声を選手から聞きました。だから出場したのだと。
粛々と行なわれるコンペより会場が盛り上がる大会であってほしいとも。


今回はアディダスが経費を出してくれている取材なので、話を聞いた人はポジティブなコメントしかしないのは、まあ当たり前。
ただ、そのへんを割り引いてもよくできたコンペイベントだと思いました。
記事も、この手のタイアップ取材ものにしてはほとんど自由に作らせてくれて、納得いく仕上がりになりました。


今回は撮影もわたくし。
監督・脚本・撮影=自分みたいな記事です。
文章よりも写真のほうが出来がよく、むしろそっちを見てほしかったのですが、
スペース等の都合で載せられなかったものがたくさんあってもったいないので、ここに載せておきます。


adidas ROCKSTARS 2015




2015年9月19日土曜日

剱岳北方稜線



先日発売されたばかりのPEAKS10月号に、高橋庄太郎さんと共同執筆のかたちで剱岳北方稜線の記事を書きました。
庄太郎さんとは北アルプスの難ルートをよくいっしょに行っていて、
2009年の西穂高~奥穂高、2010年の槍ヶ岳北鎌尾根に続いて、これで三部作完成。


記事は計10ページ。ルートガイドや装備計画なども細かくやった甲斐もあり、いまのところ周囲では評判がよく、「面白かった」とか「オレも行きたい」という声を多く聞くので、記事の補足的情報を書いておきます。



アプローチの立山雷鳥平。行ったのは去年の9月27日~29日。去年は紅葉が早めで、9月27日でほぼピークって感じでした。いまのところ今年も早そうだな。




いきなり飛んで剱岳山頂。誌面には登場しなかった亀田正人カメラマンです。こういうハード系の撮影では現在のところ彼か杉村航の独壇場。でもギャラは変わらないのでかわいそう。山の取材もコースの難易度に応じた危険手当とか特殊技術料とかあればいいのに。




剱山頂から最初のピーク、長次郎ノ頭。遠目には岩壁のように見えて登れんのかな?と思えるのだけど、赤線のようにピークを巻くルートがとれる。2mくらい垂直の箇所があるのだけど、強引に行っちゃえるし、残置のロープもあるので問題なし。




長次郎ノ頭を越えると、こんな感じのギザギザの稜線を行く。といっても稜線上を歩くところはほとんどなく(ギザギザすぎて歩くの困難)、終始基本的に写真のように長次郎谷側(東側)を巻くように歩いていく。ちなみにこのすぐ先が、2年前にカメラマン新井和也が事故死したところ。私にとっては一生忘れられない場所でもあります。




ここが悪名高い池ノ谷ガリー。ガラガラで一歩踏むごとに崩れるような感じ。上から後続者が来たらちょっとイヤな感じだ。




池ノ谷ガリー全景。こうして見るとすごい傾斜に見えるな。




池ノ谷ガリーを下りきったところが三ノ窓。こんなふうにテントスペースが数カ所あって、ビバークするならここ。ただし水はないよ。




三ノ窓から西側をのぞき込むと、これまた悪名高い池ノ谷左俣。ものすごいV字谷だ。




三ノ窓からは小窓ノ王というピークに向かって登り返していく。このピークがまた長次郎ノ頭以上に威圧的に見えるのだけど、赤線のように絶妙なルートで登っていくことができる。通称「発射台」といわれているところ。まさにルートファインディングの妙を感じることができるところで、こういうの大好き。




発射台も遠目にはすごい傾斜に見えるのだけど、取り付いてみるとこんな感じで、意外と苦労なく登れてしまうのです。



亀田撮影

小窓ノ王を越えると問題の雪渓トラバース。このコース中いちばんヤバいところだと思います。私たちが行ったときは雪渓がここまで小さくなり、しかも先行者のトレースががっちり残っていたので、ノーアイゼンでも通過できました。7月とか8月だったら雪渓の幅がもっと広く、しかも数カ所出てくるらしいので、アイゼン装着+アンザイレンは必須だと思います。ピッケルも持つべきでしょうね。

ちなみにこのときは、この雪渓用に20mロープと170gという超軽量簡易ハーネス(倒産してしまったダックス製。類似商品がなくて重宝してたのに涙)、スリングとカラビナ数個ずつを持っていきましたが、結果的に使わずじまいでした。

ヤバかったらロープを使うつもりだったんだけど、支点探しはちょっと苦労するかも。確保支点に使える岩とか木とかあまりいいものがないのです。180cmとか240cmとかの細くて長めのスリングを持っていけば、大きな岩に無理やり巻いて使うこともできるかもしれないけれど、いずれにしろ工夫が必要です。各人がピッケルを持っていれば、雪渓に刺して支点にするのがベストかと思います。




小窓まで来ればもうひと安心。ここは本当にのんびりできる平和な場所です。




小窓雪渓。ここを下ります。ご覧のとおりの傾斜なので、アイゼンはなくても大して問題はないです。



亀田撮影

小窓からはできれば池ノ平山を通って池ノ平小屋まで行きたいと目論んでおりました。通常は雪渓から行きますが、ライン的には池ノ平山経由のほうが尾根通しでルートを完結できて美しい。でも小窓から見上げる池ノ平山は思ったより傾斜が強くてヤブでも苦労しそうなのでやめました。早く池ノ平小屋に着いてビールを飲みたいという誘惑に負けたのです。




小窓雪渓自体は歩きやすいのですが、問題はここ。雪渓を離れて左岸の登山道に入るのですが、この入り口がわかりにくい! 赤ペンキで●とか「上り口」とか岩に書いてあるのですが、ガスが出ていたりしたら見つけるのは至難と思われます。ひとつの目安は写真奥に見える滝。これが見えてきたら左岸にとにかく注意だ!




雪渓から登山道に移るところ。




翌朝、池ノ平小屋付近から見た池ノ平山。池ノ平小屋からは黒部ダムに下山するだけなのですが、庄太郎さんは早朝、「ちょっと池ノ平山行ってきます」と言ってここを登っていきました。「すぐ追いつくから先行ってて」というので、私と亀田は先に下りました。「すぐ追いつくから」といっても、池ノ平山まで往復のコースタイムは約2時間。プラス2時間は通常ならなかなか追いつけない差になるのですが、本当にすぐ追いついてきました。

庄太郎さんはとにかく歩くのが速くて、年齢的には私と3つしか違わないのだけど、体力的には3倍くらいありそうです。プロフィールによく「年間山行日数100日を超える」とか書いているけど、それは本当で、とにかくちょっとでも時間があれば山に行っているという男なのです。北方稜線みたいなルートはスピードが上がらないのでいいのだけど、普通の登山道をいっしょに歩くとついていくのが大変よ!




朝はけっこう寒くて、薄く霜がおりていました。




ハシゴ谷乗越に立つと、山に囲まれたスタジアムのような内蔵助平がきれいに見えました。あとふたがんばりくらいで黒部ダムだ。





ということで山行は終了。
しかし誌面にも書いたのだけど、剱岳北方稜線というのは長大な尾根で、私たちが歩いたコースはそのほんのさわりでしかないのです。地図上で見るとこんな感じ(下のほうのちょろっとした赤線)。





一方、北方稜線全線となるとこんなに長いのです。


このほとんどの区間は登山道がなく、踏破はきわめて困難なものになります。


しかしつい最近、この全線踏破の記録がパタゴニアのブログに載りました。
だれだ、そんな酔狂なことをやったのは、と思ったら、知ってる人でした。
加藤直之、谷口けい、上田幸雄の3人。
みんなツヨツヨのクライマーなのですが、ちょっと普通じゃないこともよくやる人たちです。
1週間ヤブこぎを続けるようなこんな登山、普通の人はやりません。
40代の大人3人がこんなバカげた登山をやってくれるなんて。
こういう冒険心というか遊び心、本当に尊敬します。彼らはすごい。






2015年4月15日水曜日

オーカクの新たなチャレンジ



きょう発売のPEAKSを見た人は気づいているだろうが、編集部の大格宗一郎が退社することになった。


大格は私が編集部にいたころに新卒で入ってきた男で、2年ほど同僚として働いた仲だ。
月刊誌の編集というのはいつも忙しく、みんなでひとつのものを作り上げるという関係上コミュニケーションも自然と密になるもので、これまで山と溪谷にしろPEAKSにしろ、雑誌編集部でいっしょに仕事をした人間は同志というか戦友的感覚が個人的に強い。
そのひとりが編集部を離れるというのは端的に言って寂しい(そういう自分が先に編集部を辞めているので勝手なもんだが)。


しかし次の職場はあのSPA!だという。
もともと就活時代からSPA!を志望していたそうで、中途の募集があったので受けてみたら受かったらしい。
どう見てもPEAKSよりSPA!のほうが大格に向いていることは私もよくわかるので、「よかったね」というほかない。


大格がPEAKS編集部に入ってきたのは2011年の春。
最初の自己紹介で「アイドルの研究が趣味です」とニヤケ顔で言う。「このツカミはきいたろ」と本人が内心で悦に入っているのが目に見えるようであった。なんだか妙に調子のいいところがあり、中身はあまりなさそうな男に見えた。
「こいつはあまり使えなさそうだな」
というのが私の第一印象だった。


その第一印象は半分当たっていて半分間違っていた。


大格の書く文章はダントツで面白かった。
いまやPEAKSの名物になっているコラム「オーカクチャレンジ」。
もともとは読者ページの片隅でひっそりと大格が始めたコーナーなのだが、当時、夜中の編集部で校了紙を読んでいた私は目が釘付けになり、読了した瞬間、「オーカク、おまえは天才だ!!」と叫んだ覚えがある。
そう感じたのは私だけでないはずだ。その後、「PEAKSはオーカクチャレンジから読みます」という声を何度となく聞いたことからもそれは証明されている。


一方で、ある程度ワクが決まった文章を書かせるとひどかった。
たとえば定例の情報ページで新しい登山用具を紹介する文章だとすると、大格が書く文章はいつも決まっている。こんな感じだ。

1)現在の登山用具についてどうでもいい枕言葉で始まる。
2)「しかし」ときて、その問題点をいくつか薄っぺらく語る。
3)「そこでこれである」と、新製品の紹介を始める。
4)「この夏、あなたも試してみてはいかがだろうか」と締める。

おまえはテレフォンショッピングか!と言いたいくらいの見事な様式美だ。
一時など8割くらいの文章が「いかがだろうか」で終わっているので、いい加減にしろとよく言っていた。
オーカクチャレンジみたいな魅力的な文章を書ける男が、情報ページとなるとどうしてこんな平均以下の文章しか書けないのか不思議でしかたなかった。


仕事の要領もいいとはいえなかった。
自分の仕事の段取りもぼろぼろであるうえ、何か頼み事をしても10回のうち7回は忘れる。あまりにも忘れることが多いので、そのうち私は重要なことは頼まないようになった。
ルーティーン的な仕事や事務的な作業には人三倍才能がない男だった。
大格の愛する野球にたとえれば、どんな球でもヒットにしてしまうイチローのようなアベレージヒッタータイプでは決してなく、当たれば飛ぶけど、当たらなければ全部三振に終わる近鉄のブライアントのようなやつだったといえるだろう。


この男は放し飼いにしてこそ生きるのだということが半年もすればわかってきた。
そのころ、大格の実家がマルタイラーメンの工場の近くだということを聞き、「じゃ、棒ラーメンの記事作って」と6ページ丸投げしたことがある。
半年の新人にとって6ページを一から作るのはかなりな大事である。
大格は福岡に現地取材に飛び、校了ぎりぎりまで粘って面白い記事を仕上げてくれた。
棒ラーメン愛好家インタビュー、マルタイ工場潜入ルポ、圧巻は棒ラーメン全40種類カタログ。棒ラーメンってこんなにあったんだ!と私は驚いた。読者もそうであったに違いない。
いまだかつて棒ラーメンについてここまで深く迫った記事はあっただろうか。
PEAKSのなかで個人的に記憶に残る記事はいくつかあるのだが、これはそのトップ10に入っている。


そんな大格であるが、私が編集部を辞めたあと、編集者として明らかな成長を見せた。
まず、電話やメールに確実に返事をしてくるようになったのは大きな進歩だ(当たり前のことと言わないでほしい)。
巻頭特集もまかされるようになり、彼なりに考え、がんばっていることは伝わってきていた。
打ち合わせをしても、以前はどうにも手応えのない反応しかなかったのだが、最近は的確なツッコミや独自なアイデアを入れてくるようになった。
掲載誌の発送は頼んでもまた忘れられそうで怖いので、相変わらず大格ではなくバイトの子に頼んではいたけれど。







SPA!の方々、ソツなく仕事をまわしてくれるオールマイティな編集者が欲しかったのなら、大格を採ったのは間違いです。
「とにかく面白い記事作ってくれ。よろしく!」とだけ言って放り出すことをすすめます。そうしたらきっとグラビアン魂に匹敵するような名物コーナーを作ってくれると思いますので。


ということで、久しぶりにSPA!買ってみようかな。
みなさんも読んでみてあげてください。
そして「いかがだろうか」で終わっている文章があったら、「オーカク、おまえがやるべき仕事はこれじゃないだろ!」とつっこんでやってください(笑)。





【おまけ】


これが記念すべき「オーカクチャレンジ」第1回。企画の内容をきちんと汲み取ってこのバカっぽいタイトルロゴを作ってくれたデザイナーのナイス仕事が光る。サブタイトルの「特別緊急企画」は結局最終回までそのままだった。(2011年10月号)


オーカクチャレンジの2号前に始まっていた幻の企画「PEAKSわらしべ長者」。企画に応募してくれた読者と物々交換を繰り返して登山用具を入手するというもの。大格が自分のアイデアで作った初の企画。(2011年8月号)


その次の号で早速終了。「理由はお察し下さい」を読んで、私はコーヒーを鼻から吹きそうになった。あとにも先にも、大格の文章を読んでいちばん笑ったのは実はこれだったりする。ちなみにオーカクチャレンジの「特別緊急企画」には、このわらしべ長者がいきなり企画倒れになったために緊急に始めた企画という意味が込められていたのである。(2011年9月号)