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2020年10月29日木曜日

堀内一秀さん、ありがとうございました

ライターの堀内一秀さんが亡くなってしまった。自分にとっては兄貴みたいな感覚の人だったのでとても悲しい。膵炎が急激に悪化したということだが、直前まで普通に生活していて、翌日には近ごろ取り組んでいた視覚障害ランナーの伴走の予定もあったというのだから、本当に突然のことだったらしい。


僕が堀内さんに初めて会ったのは、まだ学生だった1993年。アドベンチャーレースのレイドゴロワーズに誘ってもらったとき。奥秩父で夜間縦走のトレーニングをしたり、三浦半島でシーカヤックの練習をしたり、必要な装備調達にあちこち行ったり、アドベンチャーレースのイロハを教えてもらった。本番のマダガスカルでは、アスリート然とした屈強な海外勢にビビったけど、オレたちは知能で勝負しようと、堀内さんとタバコ吸いながら一生懸命地図読みしたっけ(でも完走できず)。




堀内さんはその後もレイドに挑戦し続けた。日本でアドベンチャーレースというと田中正人さんが有名だが、堀内さんは田中さんより2年も早くレイドゴロワーズに参戦し始めている。日本にアドベンチャーレースの種をまいたのは堀内さんであるという事実はここに指摘しておきたい。自己アピールがきらいな堀内さんは自分ではついぞそんなこと言わなかったけど。


僕は94年に就職したため、レイドには出られなくなった。当初は僕も再挑戦の意欲満々だったのだが、日々の忙しさの前にその意欲をだんだん失っていった。一方で堀内さんは挑戦し続けている。その姿はまぶしく映ると同時に、こんなことで意欲を失っていく自分を情けなくも感じた。


堀内さんはレイドに一段落つけたころ、僕が働いていた会社(山と溪谷社)の『Outdoor』編集部で仕事を始めた。アドベンチャーレースの兄貴に仕事場で会うのはなんとなく気恥ずかしいものがあった。その後、僕は会社を変わり、Outdoor編集部もなくなり、僕は編集者としてライター堀内さんに仕事を発注する立場になったりもしたが、僕にとって堀内さんはあくまでアドベンチャーレースの兄貴。仕事としての節度を保つ自信がなく、編集部のほかの人に「堀内さんて人がいるよ」と紹介するだけで、自分ではあまり仕事をお願いしたことはなかった。


それでも、何度か頼んでしまったことはある。それはいつもピンチのとき。「こんなこと堀内さんにしか頼めない」という案件のときだ。いちばんひどかったのは、朝9時ごろに電話して「きょうの17時までに1000字のコラムを3本書いてほしい」というもの。堀内さんは「今から犬の散歩に行くから帰ってから書くよ」と余裕である。ほ、ほ、堀内さん、明日の17時じゃなくて、今日の17時なんですけど……と言うと、「わかってる、わかってる」と言って、本当に17時前にコラムが3本送られてきた。内容は完璧であった。


仕事面においてはこんなことばかりだったので、堀内さんには助けてもらったという記憶しかない。いつかは恩返ししたいと思いつつ、その機会は失われてしまった。とても申し訳なく思っているが、堀内さんにそのことを言うと、「え!? 恩返し? いいよ、いいよ」と言いそうだ。コラム3本の件だって、「ああ~、そんなことあったな」くらいにしか覚えていないかもしれない。


堀内さんは恩着せがましいところや、年下の人間に対してマウントをとろうとするようなところがまったくない人だった。僕以外にも、年下の人間や若い女性から妙に慕われていたのは、悪い意味でのオッサン的性質が全然なかったことが(酒乱をのぞき)大きな理由であるはずだ。今日に至るまで僕がろくな恩返しができていなかったのは、そういう堀内さんの性格に甘えてしまっていた部分が多分にある。





きょう、お棺におさまっている堀内さんの顔をまじまじと見て、日本人にしては鼻が細くてシュッと高いことにあらためて気づいた。堀内さんは髪と髭ボウボウのキリストのようなルックスに隠されていたが、じつはけっこうな男前である。僕が初めて会ったときはすでにキリストだったが、まだ若かったこともあって顔つきのシャープさは隠しようもなく、さらに若いキリストじゃないころの写真などを見ると、えっというくらいのイケメンだ。まったくの宝の持ち腐れとしかいいようがない。


あまりにも突然のことで、まだご冥福をお祈りするような気持ちにもなれず、ぽっかりと穴が開いてしまったまま、思い出すことをだらだら書き綴ってしまった。お世話になったことへのお礼もなにもできないまま亡くなってしまったことがただただ悲しい。堀内さんには、思い残すこともなく、楽しい人生だったと思っていてほしい。それが堀内さんらしいし、そうであったら僕もうれしい。



【堀内さんの著作】









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