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2017年4月6日木曜日

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない

西穂高岳で、登山届を出さずに登って遭難した人が、5万円の罰金を科されたそうです。


岐阜県では条例で登山届の義務化を定めているので、これはしかたない。条例を破ったのだから、その責めは負わなければならないでしょう。


ただし、近ごろ、山の事故が起こるとすぐに「登山届を提出していなかった」と批判的に報道されることには強い違和感を覚えます。問題の本質はそこなのかよと。


思うに、新聞やテレビなどの報道陣は、事故の本質がわからないから、警察の「登山届は出ていなかった」という発表に過剰反応して、

登山届未提出→だから事故が起こった

と、わかりやすいストーリーを作り上げてしまうのだと思われます。しかしこれ、間違ってます。


ほとんどの場合、登山届を出していなかったということが遭難事故の原因となることはありえません。事故の原因は別にあって、技術や体力の不足とか判断ミスとか天候の急変などがそれにあたります。


これにも書きましたけど、登山届の目的とは、遭難したときに救助をスムーズにするためであって、届を出したからといって、遭難を防ぐことができるようになるものではないのです。


先日の那須の高校生雪崩事故のときも、「登山届提出せず」という見出しの記事をいくつも見ました。それをひとつの事実として報道するのはいいけれど、追及すべきもっと大きな問題がある。那須の事故の場合は、(おそらくは)現場の判断ミスであり、引率する立場の人がふさわしい技術・経験を持っている人であったかどうかであり、もしかしたら、組織の構造的な問題もあるのかもしれない。核心を放置しておいて、「登山届出してなかった!」と枝葉を騒いでも物事は解決しない。


もちろん、登山届は出すにこしたことはありません。こういう報道が「登山届出さなきゃな」という意識を高めることに貢献することは認めます。


ただし、繰り返しますが、

登山届を出したからといって遭難を防げるわけではない。


新聞やテレビには、「登山届を出していなかったことが遭難の原因」という予断をもって報道することはぜひあらためていただきたい。登山者に誤解を与えるという意味と、真の原因を見えにくくするという意味のふたつの点で、それは害悪ですらあります。


2017年3月29日水曜日

高校山岳部冬山禁止はしかたがないのかな






那須の高校生雪崩事故について、知り合いのライターやガイドがツイートしていました。


「なぜあんな日に訓練を続けたのかを議論すべき」「いかに行なうかが問題」「見直すのは違うところ」。それはそのとおり。私自身も、引率役の人に雪崩についての判断の甘さがあったのだろうと想像しています。そこは追究が必要なところです。

*ここで「追究」という言葉を使いました。あえて「追及」は使いませんでした。




こういう面は多少なりとも意識にはあったと思います。「スキー場だから安全」と。まあ、当日はスキー場は営業を終了していて、すでにスキー場ではなくただの山の中だったわけですが、こういう施設にいると、安全管理のタガがついゆるみがちになるのは、自分の経験からも容易に想像できるところです。




引率役の人はそれなりに登山経験のあった人のようなので、雪崩についての知識がゼロだったとか、まったく無防備に突っ込んだとかいうわけではないでしょう。リスクについて、少々甘く見ていたというのが実のところなのではないでしょうか。


ただ、こういう判断ってそれなりに高度なもので、生徒の命に責任を持つ立場となればなおさら難しいものです。それを一教員に求めるのは酷――というか、非現実的な気がします。山岳ガイドに依頼すれば、リスクの問題はほぼクリアできると思いますが、公立高校の部活動でそこまでできるものなのでしょうか。


そういうことをもろもろ考えて、「安全管理に自信を持てない」と結論づけたから「冬山禁止」としたのではないかな。報道を見ているだけだと、事故→禁止と、短絡的に結論づけているようにも思えるし、なんでもかんでも禁止にしておけば無難であるという考え方はかなりきらいではあるんだけれど、これに関してはしかたがないような気がしています。

2017年1月30日月曜日

私のきらいなネット記事4つの条件

日々、インターネットを眺めていて、「こういうのはイヤだ」と感じる記事の条件がいくつかあります。それは以下のようなものです。


1.目次がある

こういうやつです。

目次


別に目次自体がきらいなわけではありません。本などの目次は便利です。いやなのは、目次を作るまでもないほど短い記事に目次があること。目次を見て「おっ」と思った項目に飛んだら文章3行だったなんてげんなりです。でもよくあります。




2.「続きを読む」

タイトルに興味をもってページを開いたら、冒頭の文章が3行くらいだけあって、「続きを読む」とか「本文を読む」とかいうクリックボタンがついているもの。PV稼ぎが目的なんだと思いますがうざいです。


1ページの文章量が600字くらいしかなくて、それが6ページ続くなんてやつも同じです。新聞とか出版社系などオールドメディアのサイトに多いです。「公称○万部」とかいって本当はその半分以下というカルチャーに慣れ親しんでいた精神がなせるわざなのでしょうか。




3.意味のないイメージ写真

こういうやつです。


もちろんイメージ写真すべてがダメなわけではありません。ここぞと計算して使われる適切なイメージ写真は、本文のイメージをまさに何倍にも増幅してくれる効果があります(小説の挿絵などもそうです)。


私がいやなのは、本質的になくてもよい、「なんとなく」の写真です。そう感じる写真は、ほとんどが以下のどちらかだと思います。

1 表現技術が足りないことによって、イメージとしての写真が機能していない
2 「写真を入れるとSEO的によい」として入れているもの


このへんよく知らないのですが、写真や目次を入れるというのは、SEO的に有利に働くんですよね。たぶん。だからイメージ写真も目次も必要ないのに入れるんですよね。でもそれは読み手には何も必要ないわけで。必要ないものを見せられてうざく感じるのは当然でしょう。


ちなみに上のイメージ写真はぱくたそというフリー素材サイトからお借りしました。このサイト自体はとても便利なのですが、便利すぎるから安易な写真使用も増えてしまっているのだと思うのです。本当はいいイメージ写真って撮るの大変なのだよ。




4.「いかがでしたか?」

いかがでしたか? こういうサイトってイヤですよね?


というまとめ方をしてる記事。別に「いかがでしたか」という言葉にはなんの罪もないのだけど、こういうまとめ方してる記事、やたら多いと思いませんか。どいつもこいつもいかがでしたかで大格みたいでうざいなーと思っていたら、先日、インチキ記事を量産して炎上→サイト閉鎖となったDeNAパレットの事件でわかりました。こういうテンプレートになっていたんですね。




「イヤだな」と感じる代表的な条件をいくつかあげてみましたが、これらにはひとつの共通点があります。それは「読者のことを考えていない」ということです。自分の都合でやっていることばかりなのです。そりゃー読み手としてはうざく感じて当然じゃないでしょうか。


自分が書くものはこういうことはしないようにしようと、反面教師としてふんどしを締め直しているのです。






【追記】

もうひとつ思い出した! タイトルに「○○の5つの条件」とか「○○が知っているたったひとつの真実」とか付けてるもの。それを皮肉ってタイトルも変更しました(元は「私のきらいなネット記事の条件」)。


このへんを強烈に皮肉った最高のブログ記事があります。この人のライティング能力は天才的です。



2016年9月21日水曜日

わかりやすい文章は武器だ

本日話題になった衝撃的な記事。サッカー専門誌で、当事者に取材せずに創作でインタビュー記事が作られていたという告発だ。

サッカー専門誌「エア取材」横行か――作家の検証と告発


それに対して、告発された側の雑誌編集長がすぐさま反論。取材経緯を細かく説明することで、事実無根であることを主張している。

『エアインタビュー疑惑』という捏造記事について


主張は真っ向対立。いったいどちらが真実を語っているのかさっぱりわからない。雑誌作りにおける不祥事というのは、職業柄ある程度見当がつくことが多いけれど、この件に関してはまるでわかりません。


ただ、ふたつの記事を読んで感じたことがひとつ。


前者の記事が論旨が明快でわかりやすいのに比べて、後者の反論記事はいまひとつ内容がすっと頭に入ってこない。話をごまかそうとして不誠実に書いている印象はないのだけど、ちょっとわかりにくくもどかしい。そのもどかしさはかすかなイラつきにつながり、わずかでも自分をイラつかせたことによって、話の真偽とは関係なく、感情的にそちらに味方したくなくなってしまう。


今回のふたつの記事は、いまのところ論証している事実の強さに差はないように思えるのだけど、このわかりやすさの差によって、前者に肩入れする読者のほうが多いような気がする。


前者は入念に準備した乾坤一擲の告発。それ対して後者は、急遽一日で書かざるを得なかった反論なので、文章の完成度的に不利な立場であるのは同情すべきところ。しかしそれにしても、もう少しわかりやすく書けなかったかな……。


わかりやすい文章を書けるというのは、大きな力であるのだなあと思った一件でした。

2016年9月12日月曜日

出版編集の共通ルールが欲しい

今回はライターとしての業界ネタを。


ウエノミツアキ氏「出版編集の共通ルール作ってみようよ?」


たまたまこんなページを読みました。5年近く前の投稿のようで今さら遅いかもしれないけど、もう全力で同意です。このウエノミツアキさんって知らない人ですが、問題意識が同じで親近感わいちゃったな。


これ、そもそも、「編集」という仕事の曖昧さに由来していると思うんですよ。「編集」って仕事はなんなのか、とてもわかりにくい。ライティング(=執筆)についてはほとんどの人が同じようなイメージをもっていて、そしてそれはほぼ正しいのだけど、編集という仕事の具体像は、業界人以外はまず知らないと思います。業界人ですら明確にわかっていないのです。だからこういう問題が起こります。


たとえば、雑誌をはじめとした印刷媒体を作るときには以下のような作業が必要になります。

1)企画立案・・・どういうテーマをどれくらいの分量でやるか決める
2)キャスティング・・・企画に必要な人員を確保
3)構成案作成・・・具体的な構成要素を考える
4)取材・・・インタビュー、資料収集など
5)ビジュアル取材・・・写真撮影、イラスト作成など
6)ライティング・・・原稿執筆
7)デザイン発注・・・デザイナーにページレイアウトをしてもらうための整理
8)校正・校閲・・・間違いがないか確認。写真の色を確認する色校正も
9)校了・・・最終確認
10)印刷・・・印刷会社で印刷
11)発送・・・完成物を協力者や配送先に発送
12)宣伝・・・成果物のPR

このうち、編集者の役割は、通常1〜3、5、7〜9です。会社やモノによっては11と12も担当します。それ以外の4と6はライターが担当し、5は編集者のディレクションにしたがってカメラマンやイラストレーター、7はデザイナーが作業。10は印刷会社が行ないます。


こうしてみると、編集者の仕事ってめちゃくちゃたくさんありますね。編集者ってデスクにふんぞり返って電話ばっかりしているイメージしかないかもしれないけど、真面目にやるとめちゃくちゃ忙しいんですよ。雑誌のクオリティの7割は編集者によって決まると思っています。いちばん近いイメージは映画監督なのかなとよく思ったりもします。


ところが、この役割分担が場によって違っていて、会社や編集部によっては、上の3〜8までライターの仕事となっている場合もあります。それはそれで悪いことではないのだけど、分担が外部の人には明確でないことが多いんですよ。そこですれ違いやトラブルが起こる。


編集者や編集部って「自分のやり方」を囲い込む傾向が強く、ノウハウを共有しようという気風が異常に少ない世界なので、ウエノさんが書いているとおり、そのすれ違いは内輪の人は気付かない。僕も社員編集者時代はよくわかっていませんでした。フリーになって、いろいろな会社と仕事をするようになってから初めて強く感じていることです。さらに、この問題は広告制作やネット業界でもある程度同じということもわかりました。


「役割分担がうまくできるというだけで、その人はかなり仕事ができるといえる」ということを以前なにかで読んだことがあるんですが、まったくそのとおりだなと思います。僕はライターの立場で仕事を請けることもあれば、編集者として仕事を依頼することもあるので、このへんの問題はすげー気になります。


なので、そういうルールブック欲しい!
ウエノさん、本作りましょう!

2016年3月2日水曜日

ウェブ記事について思ったこと

軽量・快適・機能的。多彩な顔ぶれのMILLET(ミレー)新作ライトウェイト・バックパックから目が離せない


ボケーッとネットサーフをしていてなんとなく目にとまったこの記事。「なんかまた宣伝用の中身がスカスカな記事なんだろうな」と思っていたらさにあらず。いい記事でした。


ミレーの30リットルクラスのザック3種類を紹介しており、それぞれの違いをていねいに解説しているのです。言葉をつくし、写真もちゃんと撮り、最終的にそれぞれに合った用途も提示してくれています。


これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは「うらやましい」ということ。ひとつの道具にこれだけの文章量を尽くして説明できる場は雑誌にはほとんどないのです。通常、雑誌で道具を解説するときに確保できる文章量は、これの10分の1くらいでしょうか。


だから雑誌の登山ライターは、そのかぎられた字数のなかにできるだけの情報を工夫して入れ込もうとするのです。でもやっぱり量を尽くさないと表現できないことは間違いなくあって、その点、必要と思えばいくらでも(といってもある程度の上限はあろうけど)書けるウェブ記事はいいなあと。


とくにこの記事みたいに、似たような道具の違いを表現するには、これくらいの情報量はやっぱり必要だと思うのです。これだけ言いたいことを思う存分書き切れる量があったら気分いいだろうなあ。


そしてエラそうな言い方になってしまいますが、この記事を書いている人の説明は的確だと思いました。おそらくはミレーから提供を受けているPR記事なんだと思うのですが(ちがったらすみません)、宣伝ありきの内容ではなく、ちゃんと役に立つ記事になっています。書いているのがザックをよくわかっている人なんだと思われます(このサイトの内情も書いている人も全然知りませんが)。


ふたつ苦言を呈すると、


ひとつはタイトル。「目が離せない」というのはちょっと安っぽい……。いや、本当に「目が離せない」と思ったんなら、迷わず使えばいいと思うんです。ただその場合は、目が離せなくて興奮している熱が本文にも乗り移っているはず。この記事からはそういう熱は感じなかったので、その場合は別の言葉を探したほうがよかったのでは。中身も安っぽい記事だったらマッチしているんですが、よくできた記事だけにもったいないと思いました。


もうひとつは本文ラスト。

「ただ、メリット・デメリットというのも人によっては逆転しうる可能性もあり、あくまでもひとつの目安として、最後には必ず実際に自分で背負った感覚を大事にしてくださいね」

惜しい! 惜しいよ! 

これありがちな締め方なんだけど、いいこと書いてきながら最後がこれだと、ぶち壊しになってしまうと思うんですよ。「いろいろ書いてきましたが、結局は個々人の感覚なんで……」と言われると、「じゃあ、これまで読んできたのはなんだったの?」という感覚に読者はとらわれてしまうんです。ここは自分の意見を言い切って終わってほしかったな。


なんかえらそうですみません!





2016年2月17日水曜日

登山のグレーディング

3年前にフェイスブックにこんなことを書いたことがあります。


山のグレード


山の難易度をわかりやすく表すのって難しい。


たとえば富士山と屋久島宮之浦岳の難易度を比較せよと言ったときに、ひとことで言い切れる人ってたぶんいないはずだ。それこそ剣道初段とかみたいに、だれにでもわかりやすい尺度って作れないものかとずーっと考えているんだけど、まだ思いつかない。


山登りって考え合わせる条件があまりにも多岐にわたるから、そもそも統一的な尺度を作るのは無理なのかもしれない。いや、でも、これまでだれも本気で考えていなかっただけで、本気で取り組めば現状よりはわかりやすい何かができるんじゃないか。……という気もしている。


こういうことを考えるときにいつも思い出すのがクライミングのグレード。


これは結局、100%、登った人の主観に過ぎないわけです。傾斜が90度以上あれば5.11だとか、ホールドが5mm以下だったら1級だとか、そんな客観的な基準は何もない。「これくらいなんじゃないの」という、いわば感想の積み重ねによって形成されている。


ところがそんなものが驚くほど正確で。リードグレードだと25段階くらいに分かれているのだけど、実際登ってみると、だいたい合っている。たまに1段階前後のズレはあっても、2段階ズレていることはほとんどない。自然の岩という曖昧なものを相手に、25段階もの正確な基準が作られているというのはすごいことである。


どうしてこんなことが可能になったかというと、考えてみればこれってウィキペディアと同じ仕組みなんですよね。だれかがグレーディングしたものを、別のだれかが違うと思えば書き換える。それがまた違うとなれば……の繰り返し。まさに典型的な集合知。


自然という複雑怪奇なものを相手にした場合、先に理屈を設定してそれに基づいて整理していくより、クライミンググレード方式が合っているような気がする。みんなでよってたかって意見を言い合ってそれをすりあわせていくという。この考え方を登山にも応用すれば、もう少しわかりやすく山の難易度が表せる方法が見つかるんじゃないのか。


しかしその一方で、山をグレーディングするということには味気なさを感じてしまうのも事実。山登りの大きな魅力のひとつに「不確定要素」があると思う。あそこの山の上に行ったら何があるんだろう、行ってみないとわからない、というドキドキ感。グレードシステムが完璧であるほど、そのドキドキ感は少なくなってしまう。だって、事前にかなりの部分が正確に予想できてしまうのだから。それはつまらない。


しかしそこでもう一回ひっくり返して、それでもやっぱりグレードは必要なんじゃないかと考えている。そう思う最大の理由は、文化を異にする人との対話が可能になるから。グレードってのはひとつの言語だ。共通のものさしを持つことで、知らない人、さらには山登りをしたことがない人とでも、正確なコミュニケーションが簡単にできるようになるはず。


クライミング界がまさにそう。たとえば、チェコのクライマーがすごいルートを登ったらしいとだけ聞いても、「ふーん」くらいしか思わないけれど、そのルートが5.15cだと聞けば、全世界のクライマーが一瞬にしてその価値を理解する。しかも理解度にそれほどのブレなく共通に。


それだけじゃない。日本のクライマーがアメリカやヨーロッパに行ったとき、言葉がろくにできないのに現地のクライマーとコミュニケーションが成立することには、グレードの存在が大いに関係しているはずだ。


これを登山に置き換えて考えてみると。


たとえば高尾山に登って、高尾山が2級というグレードの山であることを知った人が、「私たちは1級~3級の山をよく登ってます」という山岳会の告知を目にしたら、気になるんじゃないだろうか。あるいは、登山用具店で「ふだんは10級前後の山を登ってます」といえば、店員もおすすめすべき道具が何か、正確に判断できるだろう。


まだある。たとえば富士山が6級だったとする。富士山に登った人が、国内には10級なんて山もあることを知る。いちばん難しいのは25級なんて山もあるらしい。となると、だれでも興味が湧くんじゃないだろうか。もうひとついえば、ふだん登っている山が3級前後の人が剱岳に興味を持ったとする。しかし剱岳のグレードは15級だと知れば、「もうちょっと経験積んでからにするか…」となって、剱に実力不相応の人が押し寄せて事故が起きるなんてことももう少し減るのではないか。


グレードシステムには弊害もあり、それを整えるほど本質を壊しかねない危険を孕んでいるものではあるけれど、クライミング界がこれまでグレードシステムから受けてきたメリットの大きさを考えると、個人的に天秤は「グレードあり」に傾く。同様にして、山登りにも、もう少しわかりやすいものさしが必要なんじゃないか。


……なんてことを、山のガイドブックを編集しながら日々妄想しているわけです。


なんでこんな文章思い出したかというと

近ごろ、長野県を中心に、登山道のグレーディングを進める事業が活発になっています。1カ月くらい前には、こんな発表がありました。


「信州 山のグレーディング・ピッチマップ」事業の評価結果を公表します


これだけだとなんのことかよくわからないけど、登山道を区間ごとに5段階でグレーディングしたというものです。そしてそれを、ヤマレコというサイトが地図上でわかりやすく図示してくれています(「大きな地図で確認する」というボタンをクリックすると地図が見られます)。


この方式が、登山のグレードシステムの決定版なんじゃないかなー。上の文章をフェイスブックに載せたときに、花谷泰広ガイドが、「スキー場のコースのように緑・赤・黒みたいに地図上に示せばいいと思います」というコメントをくれて、それだ!と思った覚えがあるのだけど、今回の長野県の取り組みはまさにそれ(花谷ガイドがアイデアを提供したのかも?)。昭文社の山と高原地図でこれが採用されれば、いっきに普及するでしょうね。


いくつか注文をつけるとすれば、

・ヤマレコの図は5段階の色の区別がわかりにくい(ここは昭文社の優秀な地図デザイナーの手にかかればすぐに解決するでしょう)

・グレード改訂の機会を設けておく(「ここのグレードはおかしいんじゃないか」とか登山者が投票できるシステムがあると面白いなあ〜)

そんなところ。


始まったばっかりだけど、登山者全体でうまく育てていきたいところっすね!



2015年11月7日土曜日

アイゼンなのかクランポンなのか

登山に関する用語で、それまで一般的に使われていた呼び名を私が変えてしまったというものがいくつかあります。


ビレイディバイス
これとかこれのことです。確保器ともいいます。


2002年に発行された『ROCK & SNOW』で、ビレイデバイスの特集記事を作ったことがあります。
その冒頭の文章を書いていただいた山本和幸さんという人が言葉に厳密な人で、文章中すべて「ビレイディバイス」という表記を使っていました。
それまでは「ビレイデバイス」とみんな呼んでいたのですが、確かに綴り(Device)からすると「ディバイス」のほうが正しいようだ。
そこで、この特集記事ではすべて「ビレイディバイス」という表記を使ったのでした。


するとその後、クライミングギアメーカーのカタログやインターネット上で「ビレイディバイス」という表記が急に増えていきました。
クライミング界でのROCK&SNOWの影響力というのはかなり大きく、とくに人名や用語の表記はここで使われたものがクライミング界全体のスタンダードとなることが多いのです。
それまでまったく聞いたことがなかった「ビレイディバイス」が急速に増えていったのは、ROCK&SNOWの記事のせいであることは間違いありませんでした。


それを見て私は、ひとり「やっちまった感」を抱いていました。


高校生のころに私は、『BURRN!』というヘビーメタル雑誌が好きでよく読んでいました。
この雑誌には「ブルーズ」という言葉がよく出てきました。

「『ブルーズ』ってなんだ? 文脈からするとブルースのことらしいけど、わざわざ濁点をつけているということは、普通のブルースとはニュアンスの違うジャンルを表現しているんだろうか?」

高校生の私はそんなことを思ったりもしていたのですが、実のところはなんのことはなく、ブルースを発音に忠実な表記にしているだけなのでした。


やはりその当時好きなSF作家にマイクル・クライトンという人がいました。
『アンドロメダ病原体』とか、独特の不気味なトーンが漂っていて、かなりお気に入りだったものです。
その後、『ジュラシックパーク』でだれもが知るビッグネームとなるのですが、テレビや雑誌などでは「マイケル・クライトン」と紹介されているのです。

「ん? マイケル? あれ? 別人か? いや、でも、そんなわけは……」

もちろん別人なんかではなく、クライトンをいち早く日本に紹介した早川書房が「マイクル」という表記を使っていただけなのであります。
ちなみに綴りはMichael Crichton。
Michaelという名前は、日本では通常マイケルと表記しますよね。マイクル・ジャクソンとはいわないもんね。


このふたつのことから何が言えるか。


『BURRN!』も早川書房も、専門なだけに原音に忠実であろうとしたのだと思います。
確かにブルースは英語では「ブルーズ」と発音するし、マイケルも音的には「マイコォ」とか「マイクル」のほうが近いです。
しかしその結果として、(少なくとも私には)無用な事実の混乱を招いてしまったのです。


まわりくどくなりましたが、ビレイディバイスで私が「やっちまった感」を抱いたのは、これらの経験によります。
それまでデバイスと呼んでいたものがディバイスに変われば、何か別物になったのじゃないかと思われる可能性がある。
原音に正確であろうとした結果、それより重要であるはずの意味の混乱を招く。
それでは言葉として本末転倒なのではないか。だったら、多少発音が不正確でもすでに一般的になっている表記を使うべきなのではないか。
「デバイス」という言葉は当時から一般的に使われていて(デジタルデバイスとか)、そこをわざわざ「ディバイス」にする必要はなかった。いや、するべきではなかった。
……と、反省したのです。


しかし、「前号で『ディバイス』と表記したのは撤回します」と訂正を出すわけにもいかず、「ビレイディバイス」が普及していくのを心苦しく眺めることしかできませんでした。


というわけで、13年越しに「ビレイディバイス」の表記をここで撤回させていただきたく思います。実際、私は記事で「ディバイス」という表記を使っておきながら、この13年間、自分ではずっと「ビレイデバイス」と呼んでいました。ROCK&SNOW以外の場所では、書く際も「ビレイデバイス」としていました。申し訳ありませんでした。


というところで、長くなりましたがこの話題は終了……しようとしたのですが、ふと思いついて一応確認してみたところ、驚愕の事実が!
ここを開いて、三角マークをクリックしてみてください。
……「デバイス」って言ってない? そう聞こえますよね? 明らかに「ディバイス」じゃないよね!?


原音に正確であろうとした結果、無用な混乱を招いただけでなく、肝心の原音すら勘違いだったってことか!?
なんだかダブルで「やっちまった」のかも……。



アックス


アイスクライミングなどで使うクライミング用のピッケルのことです。
以前は「アイスバイル」あるいは略して「バイル」と呼ぶことが多かったのですが、近ごろは「アックス」と呼ぶほうが一般的です。
この呼び名の変化も私が原因——とまではいいませんが、私が後押しした可能性は濃厚です。


アイスバイルというのはドイツ語で(Eisbeil)、アイスハンマーという意味です。
しかし日本ではハンマーではなくアッズ(ブレード)の付いているタイプも一緒くたにアイスバイルと呼んでいました。ドイツ語でいくなら、そちらはアイスピッケル(Eispickel)と呼ばなければいけないのに。
そのへんの不整合性は、いちクライマーとしてはどっちでもいいことだったんですが、記事を書く立場としてはどうしても気になって、アイスバイルという言葉を使いたくなかったのです。


一方で、当時すでに「アックス」という呼称も一部で使われ始めていました。
アックスは英語Ice Axeの略。これならハンマータイプもアッズタイプもどちらでもOK。
ならばそれでいこう。
そう思った私は、ROCK&SNOW誌面ではすべて「アックス」という用語を使うようにしたのでした。


当時、ROCK&SNOW誌でのアイスクライミング記事は私が担当することが多く、必然、同誌では「アックス」という用語で統一されていくようになりました。
一般クライマーの間で「バイル」という呼称を聞く機会が減り、逆に「アックス」が増えていくようになったのもこのころと記憶しています。
私が変えたわけではないのですが、影響を与えた可能性は高いでしょう。


ところでクライミング用語は近年でも呼び方が変わったものがいくつかあり、その代表格は「ロープ」だと思います。
私がクライミングを始めた25年前は、「ザイル」という呼び方のほうが一般的だったように記憶しているのですが、今のクライマーは「ロープ」と呼ぶほうが普通です。
クライミング界は一般登山界よりも海外との交流が多い世界なので、英語に統一しようという気運が働いたのかもしれません。
いずれにしろ、一般社会的にもあれほど浸透した「ザイル」の呼称は意外なほど簡単に廃れ、やっている人の間では「ロープ」に換わってしまいました。
「ザイル」よりも「ロープ」のほうが若干発音しやすかったからではないかなと推測しています。
やっている人は頻繁にその言葉を口にしますからね。音数が少なく、言いやすく伝わりやすい言葉があれば、慣れ親しんだ言葉でも意外なほど簡単に捨て去ってしまうのだと思います。



バックパック


一般的に「ザック」と呼ばれているものです。
ザックはドイツ語ルックザック(Rucksack)の略、バックパック(Backpack)は英語で、同じものを指しています。
要は背中に背負うバッグのことです。


これについては、意図的にひとつの試みをしたことがあります。
『PEAKS』の創刊時から、「バックパック」という言葉で統一したのです。
理由は3つありました。


1.PEAKSの基となったアウトドア・フリーマガジン『フィールドライフ』では「バックパック」という用語を使っていた
2.旧来の登山雑誌と違う新味を表現したかった
3.登山用語は各国語が入り乱れているため、初心者にとってはわかりにくく、できるだけ統一したかった


こうした意図のもと、PEAKSでは創刊号からすべて「バックパック」と表記しました。
年配の方が書いた原稿などで、「バックパック」とするとあまりに違和感が強い場合をのぞき、「ザック」は基本的に封印。それは私が編集部を辞めたあと、現在に至るも続いています。


その間、PEAKS以外の場所でも「バックパック」という表記を見る機会が少しずつ増えてきました。
しかし「ザック」の浸透度は根強く、「バックパック」に置き換わる気配は見えません。
置き換わるにしても、今後まだまだ長い時間が必要に思えます。
バイルがアックスにあっさり換わったのに比べると、ザックのしぶとさが際立ちます。


その大きな理由は、「ザイル」のときと同じ、「音数」の問題ではないかと思われます。
「ザック」に比べて「バックパック」は発音数が倍になり、圧倒的に言いづらい。
ならばと「パック」と略してしまうと、なんのことかわかりにくくなってしまう。
これが「バックパック」が普及しにくい理由ではないかと思います。


こうしていろいろ考えると、「バックパック」を採用した試みには意味があったんだろうかと思わなくもありません。
ビレイディバイスのときのように、言葉を変えることで意味の混乱を招いているかもしれない。
なによりも、私自身がザック派です。自分でバックパックにしておきながら、自分でしゃべるときは「バックパック」なんてしゃらくさくて口にできません。


まあ、でも、四半世紀「ザック」で育ってしまった私のような世代はもういいんです。ほっとけば。
それよりも今後、登山の世界に入ってくる人たちにとって少しでもわかりやすくて便利な言葉はなにか。
そのときに英語にこだわりたい理由は、レスキュー界の話を聞いたことによります。
レスキューの世界でもやはり各国語が入り乱れていたそうです。
しかしそれでは、異なる地域の人たちが集まってレスキューに取り組むときに、使う用語が違うことによる混乱が生じたため、業界あげて意図的に英語に統一ということを進めているそうです。
登山でも、かかわる人が多様になっていくことを見据えれば、用語の統一は必要なことなんじゃないか……と思うのです。



クランポン


アイゼンのことです。
これとかこれとか


アイゼンはドイツ語シュタイクアイゼン(Steigeisen)の略、クランポン(Crampons)は英語です(フランス語でもクランポン)。


バックパックとまったく同じ構造ですね。
言葉の普及度からしても、「ザックvsバックパック」と「アイゼンvsクランポン」はほぼ同じような感じです。


これについても、最近、ひとつの試みをしてみました。
10月末に、私がメイン編集をした『最新雪山ギアガイド』という本が出たのですが、そのなかでは「クランポン」に表記を統一したのです。
これについては、バックパックほど明確な主張があったわけではありません。
表記はできれば英語に統一したほうがよいという基本理念と、メーカーを中心に少しずつクランポン表記が増えている現状を鑑みてのことです(上にあげたリンクはどちらも「クランポン」になっています)。


で、今後クランポンが普及するかどうか。
これは微妙ですね。
音でいえば、「アイゼン」と「クランポン」に言いやすさの決定的な差はありません。
どちらかというとアイゼンのほうが言いやすいかな。
ただ、ザックとバックパックに比べれば、その差はわずか。
だから今後クランポンが普及することもあり得るようには思います。


そしてこれまたバックパックと同じで、私自身はアイゼン派です。
四半世紀この言葉を使い続けていますからね。
ただしクランポンにはバックパックほど抵抗感はなく、今後宗旨替えをする可能性はあります。
抵抗感が少ないのはなぜかと言われても、理由はよくわからないんですが。



まとめ


用語のことをつらつら書き始めたら、日々考えていたことがどんどん出てきて、異常に長いエントリーになってしまいました。
ライターや編集という仕事をしていると、言葉の問題というのは考えさせられる機会が多く、言いたいことはいくらでもあるのです。
そして突き詰めれば突き詰めるほど矛盾があらわになってきて、迷いも増えていきます。
言葉というのは最初に体系的に作られるものではなく、自然発生的に使われているものの集合体なので、矛盾は絶対にあるのです。
だから文章においても、日々迷いと試行錯誤の連続なわけです。


そんなことにも少し注意して本を読んでいただければ、いままで気づかなかった発見もあるのではないかなと思います。
と、異常に長い文章のオチが、自分がかかわった本の宣伝という、ヒドいエントリーになってしまいました(笑)。






2015年9月6日日曜日

登れるかどうかわからない山は面白い




『岳人』9月号を読んでいて、いたく共感したフレーズがあったのでメモ。


未知未踏のものを登ることほど最高なことはない。未知未踏というのは、それが登れるのかどうかすら、わからない。答えがあるかわからない問題を解くようなものだ。
「島に残された未知未踏を登る」小阪健一郎・文


「答えがあるかどうかわからない問題を解くようなもの」


これですよ、これ。
行く手に何が出てくるかわからない山登りというのは面白い。
それこそが山登りの最大の面白さなんだと思う(つい最近も似たようなこと書いたな……)。


とくに沢登りというのはこの面白さを最も端的に味わえる登山形態なのだけど、
それを最大限に体感するために、わざとルートの下調べをしないで行く人もいるくらい。
バカバカしいなと思いつつ、気持ちは十分わかるのです。


大昔、アフリカのジャングルで未踏の岩塔を登ったことがあります。
先行きに何が出てくるかわからず、そもそも登れるのかもわからない。
過去に人間が通ったことがないところを行くというのは、ものすごく怖いことで、胸が締め付けられるようなプレッシャーを感じながら登っていました。





しかしそれだけに、登れたときの感動は、ほかの山登りの100倍は大きかったことを憶えています。
そして、初登という行為がいかに大変か、そして第二登とは天と地ほどの差がある行為であることも身をもって理解したのでした。


私たちが登った岩塔も、岳人の記事にある離島の岩や滝も、未踏とはいえ一般的に見ればまあチンケっちゃチンケですよ。
どうでもいいような重箱の隅つつきといえなくもありません。
でも、この記事を書いた小阪さんという人は、未踏の場所を行く最高の面白さを知っているのだと思います。
山登りに求めているものが私と同じ感じで、好みが合いそうな気がします。
はたからは怪しい存在と見られているかもしれないけど、応援してますよ!


2015年8月10日月曜日

商品紹介文はどう書くのが正解なのか

SONY α7R II | SHOOTING REPORT

NIKE AIR MAX 95 ULTRA


つらつらとインターネットを見ていて気になったふたつのページ。
どちらも商品の紹介。要は宣伝文です。
ものすごい好対照に感じたのでメモ。


どちらに魅力を感じますか?
商品自体のことじゃなくて、文章として。
より正確にいうと、これを読んで商品を買いたくなるのはどちらか。


私はいうまでもなく前者のソニー。
これを書いた人はかなりうまいな!と思いました(NBというイニシャルしか記されていないけど)。


それに対して後者のナイキは頭どうかしてるんじゃないかという文章。
これは日本語なんでしょうか。


しかし広告の現場では、こういうナイキみたいな文章が好まれるケースもある。
こんな文章読んで商品に興味を持ったり買いたくなったりするわけないと思うんだけど、
こういうのが採用されるということは、効果があるということなんでしょうか?
それともエアマックスみたいな超有名商品は文章の説明なんか不要なので、
なんとなくの単語だけ並べておけばそれでいいということなんでしょうか。
どう考えてもこれでいいとは思えないんだけどな。
うーん、わからん。


まあでも、ソニーのカメラ欲しくなってしまいましたよ。
やるじゃんNB。




2015年6月23日火曜日

「山岳遭難過去最多」は本当に最多なのか

先週、こんな報道がありました。
毎年この時期に警察庁が全国の山岳遭難統計を発表します。
その内容を報じたもので、この朝日新聞にかぎらず、報道各社、見出しも内容もほぼ同じです。


「過去最多」という言葉を見ると、「そりゃ大変なことだな」と思ってしまうのですが、これもう20年くらいずーっと変わってなくて、毎年この時期に同じ見出しで記事が出ることになっています。


でも、登山やってる人はなんかへんだな?と思わないですか?
そんなに年々、山が危険になってる印象ってありますか?
あるいは、そんなに登山者の数が毎年毎年増えてるように感じていますか?


僕は28年前から登山やってるのですが、そのどちらの印象もありません。
とくに危険になった気はしないし、登山者の数もこの遭難件数の増加に見合うほど増えてはいない。山で遭難者の姿を見ることが増えた気もしないし、自分のまわりで遭難した人が増えてもいない。


ではどういうことなのか。


持論なんですが、これは「山岳遭難増加」なのではなくて、「通報件数増加」なのだと思っています。


たとえば15年前であれば、山で携帯電話はほとんど通じなかったので、山中で脚を折ったとしても、人のいるところまで自力で下山するしかなかった。片足で這ってほうほうの体で下山して病院に行ったとしても、警察に連絡しなければ、それは統計にはカウントされなかったわけです。


しかし現在では、山中で脚を折ったら、まずはヘリコプターを呼べないかと考える。
つまり、遭難の数自体は大して変わっていなくて、昔は表に出てこなかった遭難がいまは出てくるようになっただけではないのかと。


実際そんな例はゴマンとあったはずだし、僕自身も山の中で落ちて顔を強打して鼻折ったことがありますが、顔面血だらけのまま歩いて下りました。
もちろん警察に連絡なんかしていません。そもそも携帯電話がない時代でした。


それに加えて、各地で山岳救助隊もずいぶん整ってきました。
昔は山岳救助というと、地元の青年団みたいな人や山岳会などが急遽集められて出かけていたわけですが、いまは主要なエリアでは警察や消防のプロ集団が出動します。
そしてその存在は一般の登山者にもずいぶん知られるようになりました。
「事故を起こしたらまずは通報」と認識が変わってきた背景にはそんな事情もあると思います。


山で事故を起こしたとき、

昔:事故った → いちばん早く下山できるルートはどこだ → がんばって下りる

今:事故った → 110か119に連絡 → ヘリ到着

これが統計数字の差になっているだけなのだと思います。


そう思う根拠としては、自分の体感のほかに、死亡・行方不明などの重大事故の数が数十年前からあまり増えていないことがあります。
本当に山岳遭難が増えているのなら、それに比例して重大事故も増えていないとおかしいはず。
でも、死亡者数は50年くらい前からずーっと200〜300人くらいで、目立った変化がないのです。


死亡者数に関してひとつだけ思うのは、通信と救助体制と道具がよくなったので、昔なら死んでいたような事故が、いまは助かるケースも増えたということ。
だから昔と現在をイコールコンディションで比較できないのはわかります。
ただ、それを考えても、重要な傾向を見いだせるほど事態は変化していないのではないかと思います。


だから報道各社も毎年「過去最多」と記事にして人々の恐怖をあおることはほどほどにして、もう少し突っ込んだ報道もしてほしいなと。
いまの報道は事実は伝えているかもしれないけど、真実は伝えていない。
毎年風物詩のように「過去最多」を見るたびにそんなことを思うのです。