2015年4月1日水曜日

ブログはじめました

本日エイプリルフールからブログ始めることになりました。ここは僕の活動の集積場としようと思っているので、山登りとクライミング、そして編集・執筆にかかわることを書くことになると思います。なに食べたとかは基本的に書くつもりないんですが、やってるうちに変わるかもしれません。更新頻度も、連投したと思えばしばらくだんまり……ということもありそうな気がします。そこはやってみないとわからないということで。。。


さて、その初エントリー、なにを書けばいいのかなと考えたんですが、まずは、自分がなぜいまの仕事をしているのかを書いておくことにしました。


「なぜ山のメディアをやっているのか」。
それにはふたつ理由があります。以前に書いた文章で、ちょうどそれをうまく説明しているものがあったので、ここに引用します。


まずは、『PEAKS』2012年4月号に書いた文章。


高校を卒業するまで、僕は山登りがきらいだった。小学校の遠足で行った丹沢の大山。列をなしてひたすら退屈な歩きが続く。こんなもの、なにがおもしろいのか。高校の部活に入ったら、隣の部室が山岳部だった。彼らは砂をつめたザックを背負って、校舎の周りを黙々と歩いている。ちょっとどうかしてる。そんなふうに眺めていた。

そんな自分が、たった一回の経験で山歩きの魅力に開眼したのが、神津島なのである。それは大学探検部での初の合宿だった。僕ら新人は、1年上の先輩とチームを組まされて、山のなかに放り出される。ルールはこうだ。わたされた全島地図には、10カ所くらいにポイントが記されている。これを翌日の昼までに全部まわってきて、一番速かったチームが勝ち。持ち物は食料と寝袋のみ。テントは禁止。夜はそのへんでどうにかしろというわけだ。

スタートしてすぐ、先輩が道の途中で立ち止まった。「行くぞ」と言って、わきのヤブのなかに突入していく。ええっ!! あまりのカルチャーショックに言葉がない。道がないところを歩くなんて発想は、それまでの人生にまったくなかったものだ。

その後はすべてこの連続である。地図を見て、行けそうなルートを探し、場合によってはヤブをかき分けてショートカットする。飛び出した先は、宇宙空間のような砂漠だったり、深く切れ込むゴルジュ帯(険谷)だったり、深い森だったり。コンパクトながら変化に富んだ神津島のさまざまな表情が次々に現れ、まったく飽きることがない。夜は、森の中で居心地のよさそうなところを見つけてゴロ寝。自分たち以外にはだれもいない野外の空気がダイレクトに感じられる。こんな気持ちのいい夜は経験したことがない。僕は一発で山歩きに魅了されてしまった。

それまで自分が山登りに抱いていた感情はなんだったんだろう。以来、いまに至るも信じていることがある。神津島でこのゲームを体験すれば、絶対に、だれでも山好きになるはずだと。これをやってみておもしろくなかったという人がいたら、そっちのほうがちょっとどうかしてる。

自分で進路を決め、工夫して苦労してたどり着いた先に広がる見たこともない風景。そんな山歩きを教えてくれた神津島。僕がいまだに山雑誌を作り続けているのは、ここで経験した楽しさをまだ全然、人に伝えきれていない――と感じているからなのである。


登山というと、もっさい印象をずっと持っていたんだけど、神津島で体験した山歩きは全然違ったわけです。それは頭と手と足を総動員するエキサイティングで知的なゲームだった。これは本当に新鮮な発見でした。


もうひとつの理由は、枻出版社を退社する際に同僚にあてたメールにうまくまとまっておりました。一部要約して引用します。


僕が学生時代、世の中はとんでもないスキーブームでした。大学のクラス40人中、スキーをやっていないのは2人だけ。そのうちのひとりが僕でした。

あるときクラスの女の子から言われたひとことを今でも覚えています。

「森山くんはなんでスキーやらないの?」

うるせーな、オレの勝手だろう。じゃあ聞くけどなんでオマエは山やらないんだ。それと同じだよ。……と言いたくてしかたなかったんだけど、もちろん言えませんでした。そんなこと言ったら「は? 山? この人、頭おかしいんじゃない?」と思われること確定。そんな時代だったんです。

その後ヤマケイに入って『山と溪谷』の編集者になったんですが、その当時は中高年登山が大ブーム。記事は中高年登山者を念頭において作ることがほとんど。「ヒザ痛を克服」とか「紅葉を愛でる旅」とか「健康登山」とか。まだ20代だった僕には欲求不満バリバリだったわけです。

いつかこの世の中を変えてやる。山登りが若者にとっても普通のレジャーであり、特殊な趣味ではない時代に。できたら、サーフィンのように、山やってるというだけでなんとなくカッコよく思われるようにまでなったらもっといい。そんな世の中にしたい。

そして当時のクラスの子に「え? まだ山やってないわけ?」と言い放つ(笑)。というのが、僕が山雑誌をやり続けた原動力なんです。


なぜ自分がいまの仕事をしているのかと考えると、その理由はすべて上のふたつに収斂することに、あるとき気づきました。1)自分でルートを決める登山はおもしろいということを知らしめたい。2)若い世代にも山の魅力を知ってほしい。――このふたつ。


2はこの数年でけっこう実現できたような気がしています(バブル時代を思うとまさに隔世の感だ)。でも1は? 神津島で感じたあの感動はまだまだ伝えられていない。だから今後は、そこを伝える努力をしていきたいと考えているところです。


登山はエキサイティングで知的なゲームなのだということを。



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